◆これまでのあらすじ
自宅マンションの売却活動中の藤田真弓(38)。元カレ・修平と関わりがあったことが夫・雄介にばれ、関係がこじれてしまう。そんな時、「部屋を購入したい」という買い手候補と出会った。相手は指値で購入したいようで…。

▶前回:「前から思ってたけど、君ってさ…」いつも温厚な夫が、妻に不満をぶちまけ家出した理由




Vol.14 契約


「お客様から、指値のご相談を伺っています」

新堂さんの声が、電話口から聞こえる。

先日再内覧をした女性について、進捗報告を受けているのだ。

彼女の購入意向を確認できたのはよかったが、やはり一筋縄ではいかない。指値…つまり、販売価格より減額しての購入相談ということになる。

― もともとの出し値が8,050万円。新堂さんの提案で「値下げ予定」として広報してもらっていたけど…。

Webサイトには値下げした金額を明示していない。ただ、検討客には、新堂さんから「売主は200万円程度減額する意志がある」と伝えてもらっていた。当然、あの女性もその情報は知っているはずだ。

― でも…新堂さんの様子からすると、200万円よりも大きな値下げ希望ってことなのかな。

私の予想は当たった。

「お客様から『売主様への失礼を承知で』という言葉を預かっていますが…減額希望幅は、600万円とのことです」

「つまり…7,450万円が先方の希望値、ですか」

思わず、ごくりと息を呑む。

ここまでの値下げは、正直想像していなかった。




「少し考えさせてください」と伝えて新堂さんとの電話を終えると、どっと疲労感が押し寄せてきた。

― 新堂さんは、『さすがにそんなに下げる必要はないので、取り合わなくて良い』と言ってたけれど…。

頭の中で勘定をする。




自宅の購入価格が7,000万円だから、仮に7,450万円で売却したとしても、450万円は利益が出る。

新堂さんの会社に支払う1.5%の仲介手数料などの諸費用や、引っ越し先の初期費用を諸々考えると、実質的な手残りは200万円程度だ。

― 新堂さんも当初は、『7,300万円が相場相応の価格』って言ってたっけ。

やっと得た購入意向が7,450万円なのだから、この金額が、私の部屋の実力値なのかもしれない。

― こんな時、雄介に相談できたらいいのに。

LINEのトーク画面を開く。雄介は、家を出て行ったきり、もう1ヶ月近く戻ってこない。

先日、一度だけ私から連絡を入れていた。

『お元気ですか。一度会って話したいので、連絡をください』

彼からの反応は冷たいものだった。

『実家にいます。心の整理がついたら、こちらから連絡します』

― 笑顔の裏で、色々と耐えてくれてたのかな…。

がらんとしたリビングを見渡すと、彼との思い出が想起されてツラくなる。

『家が売れるかもしれません。落ち着いたらで良いので、連絡ください』

LINEを送ってみる。しばらく経っても、既読はつかなかった。

「1人で住む家って、こんなに広かったっけ」

ポツリとつぶやいてみたけれど…答えてくれる人は、誰もいない。




1週間後。私は、新堂さんが勤めている広尾にある会社の、応接室にいた。

革張りのソファに、高級感のあるサイドボード。大切な商談をするための部屋なのだと一目でわかる、豪華なつくりだ。

目の前には、結崎陽子さん――この度、私がマンション売却を決めた買主の女性が座っている。内覧後に指値を相談してきた女性だ。

「この度は、本当にありがとうございます。失礼を承知でお値下げをお願いしたのに、まさか応じていただけるなんて…」

先に到着していた彼女は、私が会議室に入室するなり、立ち上がって深々と頭を下げた。

「多少のリフォーム費用は想定内だったのだけど、お風呂と洗面所を全面リフォームすることにしたら、想像以上にお金がかかってしまって…壁を壊して、サイズを大きくしようとしたら一気に費用が上がってしまったんです。

もう年齢が年齢なので、ローンでの購入は考えていなくて、一括で買おうと思っていたのだけど現金が足りないと…それで、本当にダメ元で指値のご相談を」

「いえいえ。こちらこそ、当初頂いた金額から上乗せでご了承くださって、ありがとうございました」

書類準備のためにせわしなく動き回っている新堂さんをチラリと見つつ、私も感謝の言葉を伝えた。

私は考えた末に「指値をお受けして、7,450万円で売却します」と新堂さんに伝えた。けれど、それを聞いた彼から「価格交渉させていただけませんか」と言われたのだ。

「仲介業者として、少しでもチャンスがあるなら、お客様双方にご納得いただける取引を目指したいんです」

もはや7,450万円でも売却する気持ちは十分固まっていたけれど、ここまで取り計らってくれた新堂さんに、最後は交渉を一任することにした。

結果、彼は買主と交渉し、100万円を上乗せた7,550万円での取引をまとめてくれたのだ。


「結崎様には既に契約にあたっての重要事項説明を済ませておりますので、これからすぐ、契約書やその他資料への調印を行っていただきます」

新堂さんが、私たちの目を交互に見ながら丁寧に説明を進めていく。

「この書類は右下に押印してください。こちらは左上…」

内容の説明を受けつつ、次々と書面に押印をしていく。すべて終わると、新堂さんは今後の流れを説明した。

「結崎様にはまず、手付金のお支払いをいただきます。着金が確認できれば、晴れて売買契約成立です。

売買契約に基づき、藤田様は今のお住まいからのお引っ越しを進めていただき、3ヶ月以内に引き渡しできる状態にしてください」

今回、買主の結崎さんは現金一括購入なので、銀行からローンを引く必要もなく「1週間ほど前に言っていただければ振込はいつでもできる」のだそうだ。

― 『契約はしたものの、買主のローン審査が下りずに流れた』って話は時々耳にするから…。そういうリスクがないのは、本当にありがたいなぁ。

現金一括購入の安心感は大きい。これも、指値を受け入れた理由の1つだった。

説明を終えると、新堂さんは私たちに向かってさっと一礼する。

「調印漏れがないかを2人体制でダブルチェックするのが社内ルールでして…執務室ですぐに済ませてまいりますので、10分ほどお待ちください」

足早に出て行く彼を見送ると…私と結崎さんとの間に、なんともいえない沈黙が流れた。




「…お引っ越しの準備とか、大変よね。お互いに」

結崎さんが、気遣うように口を開く。

「いったんは賃貸にお住まいになるの?」

「そうですね。また機会があれば購入も考えてますけど、色々落ち着いてから考えたいなと。とりあえず今の家の近くで賃貸を探そうと思います」

「藤田さんは旦那様もいらっしゃるから、お引っ越しも心強いわよね。新しい場所での夫婦2人暮らし、楽しくなりそうね」

“旦那様”という言葉にギクリとする。

あれから、LINEに既読こそついたものの、雄介からの返信はない。

「え、ええ…楽しみです」

思わず言葉に詰まってしまった。

― 当たり障りなく返せばよかったのに…結崎さん、変に思ってないかな。

心なしか、結崎さんの表情が少しだけ固くなったような気がする。若干気まずくなった空気を払拭したくて、何か話そうと口を開きかけたけれど…。

「ここだけの話なんだけど…実はね、私、2回離婚してるの。しかも、どっちも“家”が原因!」

「えっ。本当ですか」

先に話し始めたのは結崎さんだった。突然の告白に驚く私に、彼女はいたずらっぽく片目をつむる。

「1人目の夫とは、はじめ社宅に住んでたの。社宅の取り壊しが決まったから一緒に住むマンションを借りることになったのだけど、モメにモメてね。

お互いのインテリアの趣味が全く合わないことをその時知ったの。私は温かくぬくもりのある内装が好みだったけど、彼はコンクリート打ち放しとかが好きなタイプ。他にも合わないところがあって離婚しちゃった。24歳の時だったわ」

「インテリアで離婚…ですか」

少し驚くけれど、わかるような気もする。毎日過ごす家なのだから、どうせなら好きなものに囲まれたいと思うのが自然かもしれない。

「その10年後に再婚した2人目の夫とも、色々あってね…。彼は、当時38歳で気鋭の建築家だったの。港区に良い土地を持っていて、そこに家を建てようということになった。

彼も私もバツイチで、子どもを持つ気もなかったから『2人だけの暮らし』を前提に、色々こだわって注文住宅を建てることになったのだけど…」




夫婦2人のためだけの動線。こだわり抜いて選ぶ素材とインテリア。ワインセラーやシアタールームなども盛り込んで、DINKSライフを満喫できる仕様を考えていたものの…。

「プランを進めていくと、夫の方がブレてきてしまってね。“大人が住んで楽しい家”を考えてるうちに、『これでいいのか』と思い始めたみたいで。つまり、本当は子どもが欲しいということに、設計を通じて気づいたみたいね」

結局、業者との工事請負契約書に押印するその日に「ハンコを押せない」と言われたそうだ。それをきっかけに仲がこじれてしまい…最終的に、離婚に至ったそうだ。

「今思えば、私も強引だったのよね。『価値観の合う同じバツイチで、しかも建築家の人に巡り合えた!2人だけの家を一緒につくりたい!』って舞い上がってて、夫の心の声に寄り添いきれていなかった。一度目の結婚で“家づくり”に失敗して離婚したから、なおのことね」

そこまで話すと、結崎さんは手元のお茶をぐいっと飲み干した。

「説教じみていてごめんなさい。言いたいのは、家って人生を動かす選択だから、たとえ賃貸だとしても、旦那さんとよく話し合うのが良いわよってこと!

…こちらから言わなければ察さないし、聞かなければ話してくれない。“夫”も“妻”も、お互いにそういう生き物なのよ」

― たしかに、そうかも…。雄介とは、きちんと話しているようで、彼の心に寄り添った会話ができていなかったのかもしれない。

結崎さんの話を聞いて「もう一度、彼と向き合って話をしてみよう」と思った、その時。

バッグの中で、スマホが振動する音がした。

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▶1話目はこちら:「一生独身だし」36歳女が7,000万の家を買ったら…

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次回、最終回。真弓の自宅は無事に売れるのか?そして夫婦関係の行方は…