愛おしい人といるときは、何気ない時間が特別なものに変わる。

そして、2人の時間をよりスペシャルなものにしてくれるのが、ワインだ。

ワインには、香りと舌の記憶とともに一瞬を永遠に留めてくれる不思議な力がある。

今宵も、ボトルの前に男と女がいる。

長い年月を経て、このテーブルに辿り着いたこのワインのように、とっておきの物語が紡がれる。

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Vol.12『離婚前夜』藤吉遼平(33歳)


藤吉遼平は明日、離婚する。

「理由は?」

周囲に離婚を報告するたびに聞かれるがいつも困る。

自分でも理由がわからないからだ。

遼平が浮気したわけでも、1つ年上の妻・那奈が浮気したわけでもない。

結婚して3年。出会いから数えると6年を共に過ごし、気づけば互いに男女としての愛情が失われていた。

遼平にも那奈にもその自覚があった。

「相手のことを嫌いになる前に、友達に戻らない?」

言い出したのは遼平だが、那奈もすんなり同意した。

幸か不幸か2人には子どもはいないため、離婚の決断は難易度が高いものではなかったのかもしれない。

「夫婦として最後の夜は、自宅で一緒にゴハンを食べよう」

そう約束し、ついに今日その日を迎えた。

汐留にある電機メーカーで働く遼平は、いつもより早く退社した。そして、帰路で、あらためて考えていた。

― どうして那奈とうまくいかなかったんだろう?

汐留の放送局に勤める那奈のことを、遼平は最初運命の相手だと思った。

なのに、どうして結婚は失敗に終わったのか。

自分でも理解していない。

最後の晩餐となる今夜、せめてその理由には辿り着きたい。


遼平は那奈より先に帰宅した。

「ただいま」

那奈が留守でも、遼平は玄関でそう言う癖がある。

でもこれからは必要のない言葉だと気づき、少し寂しくなる。

遼平はリビングへ向かうと、帰り道のワインショップで購入したばかりの『ドメーヌ・ド・バージュラス』の赤ワインをテーブルに置いた。

すでに調理器具は仕分けをして、各々が持ち出すダンボールに梱包したので、キッチンには何もない。

だから料理はデリバリーをするつもり。

ほどなくして那奈も帰宅した。

「ただいま」

那奈が言った。

「おかえり」

遼平が返した。とても自然なやり取りで。

「私、ワイン買ってきたよ」

「あ、俺もワイン買ってきた」

那奈の手には、遼平も立ち寄ったワインショップの紙袋があった。

「ドメーヌ・ド・バージュラスの白。美味しそうだったから」

その紙袋から那奈が出したワインを見て、遼平は驚いた。

「ウソだろ…。俺もドメーヌ・ド・バージュラスを買ったんだ」

「えっ、信じらんない」

遼平と那奈は顔を見合わせ、笑った。

「でもよく見て」

改めて2本のワインを見比べる。

2人がそれぞれで用意したワインは、同じドメーヌ。

ただし白と赤の違いがあった。




思い返せば遼平と那奈は昔からそうだった。

価値観が似ている2人は、好きなモノが似ている。

料理も、ワインも、映画も、音楽も、ファッションも、インテリアも、すべて好みが似ていた。

ただそれは「似ている」のであって「完全一致している」わけではない。

価値観が近く、好きなモノが似ているからこそ、最初は盛り上がる。

でも最後の最後で、些細にして明確な違いが浮き彫りになってしまう。

この6年間はその繰り返しだった。

好きな映画監督が一緒でも、その中のベスト作品は違う。

同じレストランが好きでも、オーダーする料理は違う。

付き合っている間は、お互いにその状況を面白がっていた。

でも結婚してからは人生設計の様々な場面で、小さな溝を埋めることはできなかった。

結婚後の新居として、2人とも「中目黒に住みたい」と合意し、池尻大橋方面へ少し歩いたところにある新築マンションの購入を決めるとこまでは、大いに盛り上がった。

しかし、マンション内のどの部屋にするかでズレが生まれた。

ルーフバルコニーのある最上階の物件を希望したことは一緒だったが、エレベーター前の物件にしたい遼平と、角部屋の物件にしたい那奈で、意見が割れた。

話し合いはどこまでも平行線を辿り、最終的に「恨みっこなしのジャンケン」で決めるしかなかった。




結婚生活3年間、多くの時間をこういう話し合いに費やしてしまった。

すべては、似た者同士だからこそ生じる小さな溝が原因。

今まさに最後の晩餐もそうだ。

同じドメーヌのワインを用意しながら、白と赤の違いを生んでしまった自分たちを見て、遼平はあらためて思った。

「これが俺たちのうまくいなかった理由かもな」

「本当にそうね」

那奈は笑いながら同意し、言葉を続けた。

「もしかして男女とか夫婦って、価値観が近くで好みが一緒の“似ている者同士”じゃなくて、凸と凹が合致するような“違うタイプ同士”のほうがいいのかもね」

遼平は頷くしかなかった。


夫婦はまずは白のほうの『ドメーヌ・ド・バージュラス』を開け、乾杯した。

デリバリーの到着を待ちながら、白ワインを飲み進めていると、遼平は疑問が湧いてきた。

一度は那奈の説に同意したものの本当にそうなのうだろうか、と。

「でもよく考えたら、俺も那奈もこれまではずっと、自分とは正反対の相手を恋人に選んできたよな?」

遼平は高校時代に初めて付き合ってから、歴代5人のカノジョがいたが、すべて「自分とは反対のタイプの人間」だった。

あえて選んだわけでなく、偶然そうなった。

ただ、どの女性ともうまくいかなかった。

だからこそ那奈と出会ったとき「価値観が近い」「好きなモノが似ている」「自分と似ている人間だ」と大いに盛り上がった。

実はそれも那奈も一緒で、那奈も「自分とは反対のタイプの人間」とばかり付き合ってきたため、遼平と出会ったときに盛り上がった。

でも結局、6年が経って「自分と似ている人間」ともうまくいかないことが判明してしまった。

「違うタイプもダメ、似ているタイプもダメで、これから私たちはどうすればいいんだろうね」

グラスを傾けながら那奈は自嘲気味に笑う。




遼平も那奈も離婚はしても、当然、新たな恋愛をするつもりだった。

新たな生涯のパートナーを見つけるつもりだ。

「でも今度はどんな人と付き合えばいいんだろうね?」

那奈がしきりにそう言ってくるので、遼平も思わず笑ってしまう。

― そんなこと言うなら離婚するの、やめる?

遼平はつい、そう呟いてしまいそうになる。

でも言わない。

得体のしれない意地のようなものがあった。

インターホンが鳴り、デリバリーしたエスニック料理が届く。

ワインが進み、お腹もすいていた2人は、さっそく食べ始めた。

まずは前菜として揚げ春巻から…。

が、すぐに2人とも顔をしかめた。

「なにこれ、思ってたのと違う…」

「全然パリパリじゃないね」

「ていうか味してる?」

それは、まったく美味しくない一品だった。

メイン料理のチキンは、とても美味しい。

この前菜の揚げ春巻だけ様子がおかしい。

「ウソでしょ…なんで、こんなに、おいしくないの?」

「調理方法、間違えたんじゃないの?」

「もしかして、ウチらが離婚するからって嫌がらせ?」

「きっとそうだよ。どこから情報が漏れたんだよ」

冗談を言いながら笑い合う。

とても明日に離婚する2人とは思えないほど話が盛り上がる。




「そもそも私、揚げ春巻って、そんなに好きじゃないんだよね」

那奈がそう言い出すから、遼平は驚いた。

― 実は俺も、揚げ春巻はもともと苦手料理なんだ。

そう言いそうになって、口をつぐんだ。

今の状況に、とてつもなくハッとしたのだ。

― 価値観の近い人間のほうが、やっぱりいい。

― でも好きなモノが一緒の人間よりも、嫌いなモノが一緒の人間のほうが、相性が良いのではないか。

― そういえば俺は、那奈の好きなモノはたくさん聞いてきたけど、嫌いなモノは聞いてこなかったな。

― できたら今後は、那奈の嫌いなモノを知っていきたいな。

那奈とは今日までが夫婦。

明日からは元夫婦ではあるが、正式に赤の他人となる。

それでも那奈のことをもっと知りたいと思う気持ちを否定できない。

友達に戻ったとしても、それが可能なのか…。

「ねえ、今、何考えてるの?」

突然、那奈に言われて、遼平はドキリとした。

今のこの気持ちを正直に言うべきか迷う。

― 酔いに任せて言っていたら、俺たちはどうなるのだろうか?

そんなことを思いながら、赤の『ドメーヌ・ド・バージュラス』の栓を開ける。

最後の晩餐は終わりではなく、新しい何かの始まりの気がしてならなかった。

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バツイチ同士の恋愛ってなかなか難しい…。