◆これまでのあらすじ
詩織(28歳)は、名字である『久津元』が相手に伝わりづらいため、レストラン予約などで偽名を使うことがあった。ある日、以前勤めていた大手広告代理店の近くのピザ店で働いていた青木と再会。2人は親しくなっていくのだが…。

▶前回:ミーティング中に、得意先の男が豹変。突然“心ここにあらず”になった意外すぎる理由




珍しい名前【後編】


「1年ぶりかぁ。店内の雰囲気もちょっと変わったね」

週末の夜。

詩織は、友人の莉緒とともに渋谷にあるピッツェリアを訪れていた。

転職前、職場が渋谷だったころに頻繁に通っていたレストランであり、久しぶりの訪問となる。

開店して間もない時刻を狙ったため、まだ客は少ない。

「メニューも少し変わってる。こんなの見たことない」

莉緒の指さすメニュー表を、詩織が覗いた。

「ホントだぁ。カ…カチョカヴァッロチーズ…を使ったピザだって。言いにくいね」

「ね。詩織の名前みたい」

莉緒がおどけたように言った。

詩織の名字である『久津元』は、発音しづらいうえに、相手にも聞き取ってもらいにくい。

店に電話で予約を入れる際、大抵聞き取ってもらえないため、今日も以前から使っている『フジモト』の偽名で予約していた。

「で、どうなの詩織。その後、青木くんとは?」

この店の元スタッフである青木とは、2週間ほど前に偶然再会し、連絡先を交換していた。

「しょっちゅうLINEは送られてくるんだけど、なんかおかしいんだよね…」

「おかしいって、何が?」

「実は、たまに職場の近くで会ったりするの。向こうは『偶然ですね』って言ってくるけど、待ち伏せされてるような…」

「ええ…怖いね。ヤバい奴じゃん。せっかく恋の始まりかと思ったのに…」

莉緒の言うように、詩織も今後の展開に期待を寄せていたので、残念に思う。

そのとき、莉緒が視線を詩織の背後に目を向けながら「あっ」と言った。

詩織も「えっ…」と振り返る。

…が、誰もいない。

「うっそ〜ん」

「もう…。やめてよ」

青木ならば偶然を装って現れかねない。詩織の体にゾクゾクッと寒気が走った。


ディナータイムが近づき、徐々に客が増えて店内が賑わい始めた。

2人は食事を終えて会計を済ませ、店の外に出た。

「あれ、あの人…」

向かう先のほうから歩いてくる男性スタッフに、莉緒が気づいたようだ。

休憩から戻ってきたのか、ユニフォームの上にコートを羽織っている。




彼は昔からいる顔馴染みのあるスタッフで、詩織たちと何度か会話を交わしたことがあった。

「こんばんは…」

詩織が声をかけると、どの客にでもするように男性スタッフが会釈を返した。

だが、すぐに2人に見覚えがあると気づいたようだった。

「ああ、ご無沙汰しています」

簡単に挨拶をしながら、最近店に来ていなかった経緯をかいつまんで伝えた。

しばらく会話を続けたところで、「そういえば…」と莉緒が思い出したように切り出した。

「この店で前に働いていた、青木さんって憶えてますか?大学生で、アルバイトだったと思うんですけど」

男は少し考え「ああ」と思い出したように相槌を打った。

「実は最近、青木さんと偶然会う機会があって」

「そうなんですか…」

男が若干表情を曇らせた。

「え…。青木さん、なんかあったんですか?」

「あいつ、クビになったんですよ」

青木からは『就職が決まってバイトを辞めた』と聞いていた。話に齟齬があるようだ。

「あいつ、気に入ったお客さんがいると、後をつけるようなことをしていて…」

「ストーカー…みたいな?」

「はい。しかも、それを悪びれる様子もなく他のスタッフに話したりするんですよ。なんか気持ち悪いなと思って…。それが店長の耳に入って、辞めさせられたんです」

男の話を聞いて、詩織は嫌悪を感じたが、違和感はおぼえなかった。

再会時の好意を示すような大胆な発言や、偶然を装って待ち伏せする姿などを思い起こすと、むしろ抱いていたイメージと合致した。

すると男が「そういえば」と詩織に向かって話し始めた。

「青木のやつ。“フジモトさん”のことも言ってましたよ。『すごく気になってる』って」

男は、詩織のことを偽名で認識しているため、そう呼ぶ。

「フジモトさん、当時お勤めはこの近くでしたよね?確か青木のやつ、会社を訪ねたとか…。でも、受付で名前を伝えても『そんな社員はいない』って言われたって」

詩織はハッと息をのんだ。

当時は青木も、詩織を偽名で認識していたはず。

受付で尋ねた名前は『フジモト』に違いない。

詩織は自分の知らないところで接近を免れ、トラブルを回避できていたということになる。

「まあ、あいつにはあまり関わらないほうがいいと思いますよ」

男はそう言い残して、業務に戻るため店のなかに入っていった。

せっかく久しぶりに人気ピザ店の味を堪能したものの、なんとも言えない後味の悪さが残った。



莉緒と別れ、20時すぎ。詩織は、自宅の最寄りである麻布十番駅に戻ってきた。

改札を出たところで、迫ってくる人の気配を傍らに感じた。




先ほどの男性スタッフの話が頭から離れずにいたため、即座に嫌な予感がよぎる。

「あれ?詩織さん?」

声を聞いて、詩織は相手が誰だかすぐにわかった。

恐る恐る振り返ると、青木が立っていた。

― え、ええ…嘘でしょう。

「あ…青木さん。どうも…」

青木は笑顔を浮かべているが、同じ調子では返せなかった。

平静を装おうとするものの、どうしてもよそよそしくなってしまう。

「いやあ、偶然ですね!実は僕、この近くに友だちが住んでいて、遊びに行っていた帰りなんですよ」

「そ、そうなんですか…」

自宅の最寄り駅まで知られているということになる。

詩織は恐怖心をおぼえた。

「もしかして、詩織さんのご自宅はこの辺なんですか?」

「え…。いや、まあ…はい…」

「もしよかったら、どこか近くの店で軽く…」

青木が言い終わる前に「いや…」と詩織が口を挟んだ。

「これから帰って、やらなきゃいけないことがあって…」

男性スタッフの忠告も念頭にあり、これ以上関わるのは危険だと察した。

詩織は背後から視線を感じつつ、それを振り払うようにして足早に去る。


詩織は駅の地下から階段を上がり、出口を抜けて歩道に出る。

人通りが少ない夜道を足早に歩くが、背後に人の気配を感じて仕方がない。

思い過ごしであることを願いつつ先を急ぐと、前方にカフェと思われる店の看板が出ているのが見えた。

― 最近オープンしたのかしら。ちょうどよかった…。

青木が後をつけている場合のことを考えると、このまま帰って自宅の場所を知られるわけにもいかない。いったん店内に避難することにした。

アンティーク調の木製のドアを開けてなかに入ると、近くにいた若い女性スタッフが顔を上げた。

「あ…すみません。ついさっきラストオーダーが終わってしまって」

女性が申し訳なさそうに言った。

「そうですか…」

諦めるしかないと詩織が振り返ると、店の外を白々しくうろつく青木の姿を視界の端に捉えた。

背筋にサッと冷たいものが走り、詩織は慌てて切り返した。

「あの…。コーヒー1杯だけ飲んですぐに帰るので、ダメですか?」

女性スタッフは困った表情を浮かべ、カウンター奥を覗いた。

そこにはマスターと思しき、口もとに髭を蓄えた男性が作業しており、頷く仕草を見せた。

「大丈夫みたいです。お好きな席にどうぞ」

「ありがとうございます」

入り口付近の、外の様子が見渡せるテーブル席に着いた。

ひとまず青木の姿は見当たらない。

「このお店って、以前からありましたっけ?」

「いえ。先週オープンしたばかりです」

女性スタッフに尋ねると、品のあるにこやかな笑顔で返してくれた。




店内を見渡すと、アンティーク調の家具で揃えられた落ち着いた雰囲気となっており、心が和む。

詩織は、束の間の安息を得た。



外の様子をうかがいつつコーヒーを飲み終えると、詩織は席を立った。

支払いを済ませ、店の外に出る。

自宅に向かって歩き出そうとしたところだった。

物陰に人の気配を感じ、視線を向けると、青木が姿を現した。

― もう逃げられないか…。

詩織が対峙するしかないと観念したところで、思いがけない方向から声をかけられた。

「シオリちゃん…?」

先ほどの髭を蓄えたマスターが、外に出て呼びかけていた。

詩織と青木、マスターの3人が見合う状態となり、にわかに緊張感が走る。

そこで詩織が、マスターのほうにサッと身を寄せた。

マスターは只ならぬ気配を感じ取ったのか、一歩身を乗り出す。

青木もまた何かを察したように一歩後ずさると、狼狽えるような仕草を見せつつ頭を下げて去っていった。

「今の人は…?」

マスターが尋ねる。

「なんか、付きまとわれていたというか…。ていうか、マスターって…」

「俺だよ俺。ユウタ」

名前を聞いて思い出した。近所に住んでいた同級生の祐太だった。

「なんだ、祐太君か!中学校卒業以来じゃない?よく私のこと気づいたね」

「ほら。さっきカードを見たからさ」

詩織は支払いの際、クレジットカードを渡したのを思い出した。

「久津元って名字、珍しいじゃん。なんか言いにくいし。それで頭に残ってたんだよ」

「そっかぁ。ここ、祐太くんのお店だったんだね」

「うん。地元に店を出したいなって思ってたからさ」

祐太は高校卒業後にイタリアに渡り、コーヒー専門店やバーなどを巡ってバリスタの修業を積んできたのだと語った。

「さっきの人、大丈夫なの?」

「たぶんね。大丈夫だと思う」

青木の表情を見た限りでは、どこか弱々しい印象を受けた。

さらに危険をおかし、危害を加えてくるようには見受けられなかった。

「まあ、なんかあったらいつでも寄ってよ」

「ありがとう」

詩織は心強い味方を得たような気持ちになり、大きく頷いた。

「あれ…祐太くんて、名字は何だったっけ?」

「『丹羽沢』だよ」

「そうだった。ニワサワくんだったね。…って、そっちも言いにくいじゃん!」

詩織が指摘すると、和やかな笑い声があがった。




自分の珍しい名前のおかげで、危険を免れることができ、新たな出会いにも恵まれた。

詩織は自分の名字に、なんとなく感謝の気持ちを抱く。

できれば早く変えたいと願っていたが、もうしばらく付き合ってもいいかなと思えた。

▶前回:ミーティング中に、得意先の男が豹変。突然“心ここにあらず”になった意外すぎる理由

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