前回までのあらすじ:主人公・宝(27)は、製薬会社に勤める、いたって真面目な女子。だが彼氏にフラれ、人生を変えようと西麻布に引っ越した。そこで強烈キャラの愛や、超美形男子・大輝と出会う。




金曜日の朝7時過ぎ。いつもなら仕事に行く準備を始める時間だが、今日の私は羽田空港第3ターミナルの『サクララウンジ』にいる。ちなみに1人ではない。

「ねえ、宝ちゃん、海外行く前って、無っっっ性にカレー食べたくなるよね?」

「私はならないですけど…調べてみます?」とスマホを取り出した私を、「宝ちゃん、今日も真面目で好き♡」と笑いながらこのラウンジに連れてきてくれたのは、ちょうど1週間前に“酔っ払いのお姉さん”として出会った愛さんだ。

愛さんは宣言通りにビーフカレー、私はクロワッサンとコーヒーを選び、飛行機の搭乗時間を待っている。

もぐもぐとカレーを頬張る愛さんの髪は無造作に一つまとめられ、黒いキャップはすっぴん隠しらしい。素顔でも十分華やかな人だ。

グレーのニットパーカと同素材のパンツはゆったりとしたサイズで、愛さんのグラマラスな体のラインを拾っているわけではないのに色っぽい。

ボルドーのネイルがきれいに塗られた指先に思わず目を奪われていると、愛さんは「ごちそうさま!」とスプーンを置き、私のほうを向く。

「最後に海外行ったのっていつ?」
「最後は…去年、友達の結婚式で、ハワイに…ですね」
「ハワイかぁ。ハワイもいいけど、暖かい国ならアジアの方が好きなんだよね」

愛さんの言葉を聞きながら、あれ、と気づいた。

そういえば、この1週間は、祥吾のことを考えなかった。

元カレの祥吾と行ったハワイ。国際線ターミナルに来るのはそれ以来だ。半年後にフラれるなんて思いもせず、自分たちの結婚式はどこがいいかな、みたいな話もしていた空港。

あ、また怒りが…!今はダメだ。あのムカつく男の顔を思い出して気分を台無しにしてる場合じゃない。私はこれから愛さんとフランスへ行くのだ。しかも雄大さんと大輝くんと現地合流するという4人旅なのだ。


1週間前の金曜日、あの夜。

「宝ちゃんが人生変えるためにやってみたいこと10個教えて。今までできなかったこととか、あきらめてたこととか?オレが協力する。金がかかることでもいいよ」

雄大さんの言葉が理解できず、脳内がハテナだらけになった。すると美しい顔…もとい、交差点の近くでぶつかった男性が乱入してきて、私の脳内ハテナはさらに増殖。

そこへさらに“手の甲にキス”という異次元行為を受けたものだから、あっけにとられたまま気がついたら男性2人と飲み始めていて、従来の人見知りを発揮するヒマがなかった、ということが自分でも驚きだった。

手の甲キス男…美しい男性の名前は大輝くんといった。私の方が3つ年上だとわかると「呼び捨てでいいよ」と言われたものの、丁重にご遠慮申し上げ、大輝くん、でいかせていただくことにした。

友達と呼べる異性は、物心がついて以来ほぼゼロという私が、知り合ったばかりのイケメンを呼び捨てにするなんて、ハードルが高すぎる。

元々は大輝くんのお父さんが雄大さんの知り合いで、とか、雄大さんは不動産関係の仕事をしている、とか、そんな話を聞いているうちに、白ワインが2杯、3杯とすすみ、ボトルが1本空いた頃には、最初は直視できなかった美しい顔にも慣れた。

「あ〜なんでみんな仲良しになってんのぉ〜ずるーい」

奥で眠っていた愛さんが起きてきて、「私も飲む!」と張りきったけれど、雄大さんが「今日はもうだめだ」といさめて、愛さんを連れて店を出た。そのタイミングで私も帰ろうと店の人にお会計をお願いすると、もういただいています、と言われてしまった。

「最初のシャンパンの分は雄大さんが払って帰ったし、さっきの白ワインは、ぶつかったお詫びってことでオレから」
「でも…」
「その代わりというか、連絡先教えといてくれない?たぶん愛さんが知りたがると思うから」

私の連絡先がお会計の代わりになるのも、なぜ愛さんが知りたがるのかも疑問だったけれど、言われるがままにLINE交換をし終えたところで、大輝くんの電話が鳴る。着信画面を見た瞬間、大輝くんの顔が、ふわっと優しく緩み、その後、申し訳なさそうに私を見た。

「…ごめん、電話、出ていい?」
「もちろんです」

もう一度、ごめんね、と言った大輝くんが、私から少し離れた場所で話し始める。




「珍しいね、キョウコさんがこんな時間に電話してくるなんて。なんかあった?」

― 彼女さんかな。

“私は会話を聞いていません”、という意思表示で背中を向けても聞こえてしまう距離。大輝くんの声が、とにかく甘くて、優しくて、心配そうで。どれだけその“キョウコさん”を大切にしているのかが伝わってくる。

浮気されてフラれたばかりの私にはうらやましすぎて辛い…とネガティブになりかけた時、電話を切った大輝くんが近づいてきた。

「ごめんね、歩いて帰るでしょ?送っていくよ」
「いや近いし、大丈夫ですよ。大輝くんは、早く彼女さんのところに…」
「彼女さん?」
「あ、今の電話の方…すいません、聞くつもりはなかったんですけど、なんとなく、そうかな、って」
「…あー。彼女じゃなくて、オレの片思いだから大丈夫」
「…カタ、オ、モイ…?」

予想外の言葉に、思わずオウム返ししてしまう。大輝くんがそれを見て笑いながら、「今日は特に酔っ払いが多い日だから絶対送る」と言うので、結局強制送迎されることになった。

並んで歩きながら見上げた大輝くんの身長は186cmらしい。足が驚くほど長く、160cmある私の肩くらいまであるんじゃないか、という錯覚に陥る。

― こんなにイケメンでも、片思いってことがあるんだな。

勝手に親近感が湧き、両思いになれるといいのに…なんて、お節介なことを思っているうちに、マンションの前に着いた。「ありがとうございました」と告げると、大輝くんが両腕を広げた。

「?」
「今日はありがとーのハグ」
「!?」

いきなり抱きしめられ、柑橘系…と単純に説明してはいけないような、苦味みが混じった優しい香りに心臓が跳ね上がる。

“西麻布の人って皆こんなにいい香りがするものなの!?”
”…っていうか、この街の別れ際はハグが決まりなの!?”

呆然とする私の体を優しく離しながら、大輝くんは笑顔で言った。

「西麻布にようこそ」

大輝くんの笑顔が至近距離すぎてヤバい。この数時間で見慣れたはずの美しい顔が、ハグという距離感で新たな破壊力を持って迫ってくる。くらくらするのは酔いが回っているのだと信じたい。

私は決して面食いではない。生まれも育ちも九州・福岡。父からソフトバンクの英才教育を受けたせいで、推しと言えば常に野球選手。しかもルックスで人気のある選手ではなく、目立たないがいい仕事をする選手を好きになる。

中学・高校とアイドルや俳優のキラキラ系イケメンにハマる友達とは全く話が合わず、元カレ・祥吾だって、外見よりも中身重視で好きになった…はず…だけど…結局浮気された…なんて今どうでもいいことだ。ダメだパニック。

「また遊ぼうね」と言い残し立ち去る大輝くんを、私は呆然と見送った。


そして、大輝くんの予言通りに、というべきか。

翌日。土曜日の午後1時ごろ。引っ越しとともに新調したベッドが部屋に届いたタイミングで大輝くんからLINEが来た。

『愛さんとLINEつなげてもいい?』

承諾すると、すぐに愛さんから「お詫びをしたい」というLINEが来た。「お詫びをされるほどのことはなかったです」と返したけれど「会いたいから会おう」と言われ、その日の夕食をともにすることになった。

日本酒大丈夫かな?と聞かれた後に、送られてきたのは、最近西麻布にできたばかりだという店のURL。送られてきた店の名前を検索すると、日本酒と料理の独創的なペアリングが話題で、オーナーは日本酒業界ではよく知られた存在だと書かれていた。

― オーナーさん、30代の女性なんだ。

西麻布といえば“お金持ちのおじさんたちの街”というイメージが強かったので、若い女性がレストランのオーナーというだけで興味深い。

ほぼ初対面の人(しかも相当な酔っ払いだった人)と2人きりで食事、というのは緊張するし怖い。けれど「人生を変えたい」と引っ越してきたこの街で、せっかく新たな人や世界と交われているのだから、と自分を奮起する。

― 友香、ありがとね!

親友がいるパリの方角(とりあえず西)に、手を合わせてみる。

「物件探し、もちろん手伝うけど、変わりたいなら引っ越すだけじゃダメ。今までとは違う行動をしなきゃ。人見知りなんて言ってないで、当分の間、誘いは断らないことをオススメする」

いつになく真顔だった親友の言葉を思い出し「人見知り禁止」と復唱する。私にとってここ一番の勝負服、去年のボーナスで悩みに悩んで、友香に勧められて買ったMame Kurogouchiのワンピースを選んだ。

毎月の給料は手取りで、33〜34万の間。仕事は外資系製薬会社の経理部で、営業部の人たちと違って、今後私の給料が飛躍的に上がることはきっとない。入社以来貯金してきた金額は800万円。派手に使うことはなく、堅実に貯めてきたタイプだと思う。

この西麻布で人生を変えるために使う費用は、そこから(なるべく)ケチらずに、捻出するつもりだ。

愛さんに「名刺を持ってきてね」と言われたので、バッグの中をもう一度確認してから家を出る。その店は、西麻布の交差点から広尾駅の方へ、5分ほど歩いた路地裏にあった。

待ち合わせ時間の5分前に着いたのに、愛さんは既に店内にいた。会釈して、緊張しながら近づくと、「昨日はホントにごめんなさい!」と挨拶よりも先に謝られた。

「御堂(みどう)愛です」という自己紹介も、黒いシャツにジャケットという服装も、しっとりと上品。昨夜の暴れっぷり…愛ちゃんと呼べと迫っていたことも全く記憶にないということで、改めて、愛さん、と呼ぶことで落ち着いた。

店内は8席のカウンターのみで、私が愛さんの隣に座るとすぐに「宝ちゃん名刺ある?」と、オーナーの三奈さんに紹介された。




「最近西麻布に引っ越してきた宝ちゃん。ご近所さんに仲間入りだよ」

仲間入り、という愛さんの言葉が、むずがゆくも嬉しい。

オーナーの三奈さんは、はんなり、おっとりした雰囲気をまとった人だった。年齢は38歳で、この店のオープン資金は、コツコツためてきた貯金と、自ら銀行に融資を受けてオープンしたのだという。

「つまり自力でオープンしたの。誰かに支援してもらったとかじゃなく、オーナー経営者ってこと。すごいよね。ガッツがあって」

三奈さんのことめちゃくちゃ尊敬してる、と愛さんが言うと「とんでもない借金を背負っちゃったんですけどね」と笑いつつ、三奈さんは、なぜ西麻布に店を?という私の質問に答えてくれた。

「自分がお客さんとして初めて西麻布にきて、ずっと憧れていたワインバーに1人で入ったんです。その時、カウンターで隣合わせた常連客の方が話しかけてくださって。

私が飲食店で働いている、という話をしたら、じゃあ、あなたも一杯どうぞ、とご自身が飲まれていたワイン…ボトルで開けられていた赤ワインを薦めてくださったんです。

でも、そのボトルを見たら、どんなに安くても1本三桁はする最高級ワインで。初対面の、しかもたまたま隣合わせただけの人に気軽に分けるようなワインじゃない。とてもじゃないけど頂けない、とご遠慮したんですけど、どうして?と。

年長者には、下の世代に経験をシェアする義務があるんだよ。次はあなたがいつか誰かにご馳走すればいいんだから、とおっしゃって頂いて。一杯頂きました。そのワインが素晴らしかったのは勿論ですけど、その時のその方の言葉がずっと忘れられなくて。

もう10年以上前のことなんですけど、その時から店を開くなら西麻布にしよう、と決めてたんです。今度は私が、誰かに経験をシェアするんだ、って。それからワインと日本酒を猛勉強して、最終的に日本酒を選んで。この店をオープンしました」

「…めちゃくちゃ良い話ですね…」

思わず口にした私に愛さんが「私も何回聞いてもいい話だと思う」と言って続けた。


「最近、港区とか西麻布っていうと、何かと変な輩の街って印象ついちゃったけど、本来は三奈さんが受け取ったバトンみたいに、素敵な大人が次の世代につなぐというか、大人が若い人がちゃんとした経験を積ませてくれる街でもあるんだけどね」

「そういう意味では、宝さんは愛さんと出会えてすごく良かったんじゃないかな。愛さんは素敵な大人だから」

三奈さんが穏やかな笑顔でそう言うと、「やだ、既に宝ちゃんに醜態を晒してるんだから私」と愛さんが答えて、笑いながらの食事が始まった。

おまかせの料理に、一品一品日本酒をペアリングする、というスタイルで、日本酒と合わせるのだから日本料理かな、と思っていたけれど、全く違った。

ラム肉の麻婆豆腐、蛤と海老のココナッツミルクのリゾットなど、香りや味の強い無国籍料理の一皿一皿に、これには生酒、これにはどぶろくを、と店主が合わせて出してくれる。

料理だけでも驚くおいしさなのに、そこへ店主が選んでくれた日本酒が合わさると、塩味が引き立ったり、甘みが増したり。口の中で味が変化していく感覚が楽しくて、どんどん箸もお酒も進む。

5皿で料理が終了し、その後に出てきた微発砲のにごり酒で2人とも6杯目。たぶん、こんなに日本酒だけを飲み続けたのは、人生で初めてだと思う。

「宝ちゃんってお酒強いんだねぇ。私、お酒強い女の子、大好き」

愛さんに、肩をぎゅっと抱き寄せてそう言われて、照れてしまう。愛さんは、笑ったり驚いたり、表情もコロコロ変わる。なんだかとてもかわいい人だ。

愛さんは今、35歳。5年前まで結婚していた。住まいは私の家のすぐ近くで、青山で小さなネイルサロンと美容院を経営しているという。雄大さんとは知り合って10年くらいで、大輝くんのことは雄大さんに3〜4年前に紹介されたらしい。

大輝さんの話になった時、昨夜の手の甲のキス、別れ際のハグに驚いたことを伝えると、あの子、高校まで海外育ちの帰国子女だから、そういうことナチュラルにやっちゃうんだよ、許してあげて、と笑って愛さんは続けた。

「大輝はあのノリであのルックスだから色々誤解されやすいけど、ピュアでかわいい子だよ。一途で恋愛体質、しかも振り回される相手を選びがち」
「…なるほど」

― 恋愛体質で、振り回される相手を選びがち…。

愛さんの説明に、昨夜の諸々がつながる。

― あの“キョウコさん”にも振り回されてるのかな。

大輝くんの片思いの相手を思わず想像しかけた時、愛さんのスマホが鳴った。「雄大からLINEだ、ちょっと待ってね」と、スマホに目を落とした…と思ったら、すぐに顔を上げて私を見た。

「来週、私たちパリにいくんだけど。私と、大大…あ、雄大と大輝でね」
「パリ?いいですね」
「パリで、雄大の友達のシェフが、レストランを改築したから、そのお祝いに。2つ星の日本人シェフなの」




「パリの星付きシェフなんて、私には異次元の話です」と言うと、愛さんが「じゃあさ」と身を乗り出した。

「異次元、体験してみる?」
「え?」
「一緒に行かない?来週の金曜日出発」
「え?」
「連れて行きたい!」
「え?えええ?」
「月曜日も休めるなら、3泊4日。でも、金曜だけしか休めない、っていうんだったら2泊3日でも何とか楽しめるよ、パリって」

異次元が異次元すぎて、脳内処理が追いつかないので、確認してみる。

「……愛さん……実は酔っぱらってたりします?」
「今日は全く。シラフで真剣なお誘い」

どうやら本気らしい…けど。

― 来週なんて急すぎる
― 金曜も月曜も仕事だし、休めるわけない。
― 愛さんがいい人なのはわかる。でも知り合ったばかりの人と海外旅行って…!
― しかも、2泊3日でパリ…きっとチケットも高い…!

これまでの【佐々木宝の人生マニュアル】に当てはめるなら、断る理由しかないし無理だと即答しただろう。でも。

なぜ行けないの?とでも言うような、純粋な期待に満ちた愛さんのその目に、私の何かがぐわんぐわんと揺らされている。そして。

『当分の間、誘いは断らないこと』という親友の言葉を思い出した。

― 誘いの規模が大きすぎる。けど…!

ぐいっと日本酒を飲み干してから、私は言った。

「有休がとれるか確認してみるので、少し待ってもらえますか?」

「やった!」と喜ぶ愛さんを、まだいけると決まったわけじゃないといさめたけれど、その3日後、有休申請が通り(しかも、金曜日も月曜日も!)私は、愛さんと同じ便の航空券を購入することになったのだ。

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