「こんな偶然ある?」28歳女が疑いを抱いた、イイ感じの彼との“出来すぎた展開”とは
人の心は単純ではない。
たとえ友情や恋愛感情によって結ばれている相手でも、時に意見は食い違い、衝突が起きる。
軋轢や確執のなかで、感情は歪められ、別の形を成していく――。
これは、複雑怪奇な人間心理が生み出した、ミステリアスな物語。
▶前回:「食の好みが合わない」と彼女をフッた男。数年後に彼女の今を知り、猛烈に後悔したワケ
珍しい名前【前編】
「今回担当させていただくことになりました、クツモトと申します」
新宿にあるIT系広告代理店でWebディレクターとして働く久津元詩織は、ミーティングルームに入ってきた不動産会社の新規クライアントと挨拶を交わした。
詩織は、男性2人に名刺を渡し、名前を名乗る。
すると、名刺を受け取った高山という男が「んん…?」と名前を聞き取れなかったような表情を見せた。
詩織はもう一度「クツモトです」と名乗る。高山は受け取っていた名刺に視線を落とし、納得したように言った。
「ああ、久津元さんですか。珍しいお名前ですね。大変申し訳ありません」
丁重に謝られたが、詩織にとっては慣れたやり取りだった。
珍しい名字で、発音もしにくい。大抵の場合、一度では聞き取ってもらえないのだ。
― 「フツモトさんですか?」「クズモトさんですか?」と間違って聞き返されることも多いのよね。
しかしビジネスの場では、そんな珍しい名前が功を奏し、打ち解けるきっかけになる場合もある。
この日も、以降は雰囲気が和やかになり、スムーズに打ち合わせが進んだ。
ただ、高山の隣に座る、20代くらいの青木という若い男の表情が暗い。
ミーティングルームに入ってきたとき、一瞬ハッと驚き、表情を明るくしたように詩織には見えた。
その印象が残っているからか、いっそう沈んでいるように感じる。
― 体調でも悪いのかしら…。
詩織が気にかけていると、高山も部下の様子に気づいたようだった。
「おい。青木、大丈夫か?ちゃんと話聞いているか?」
青木が顔を上げ、心ここにあらずといった返事をした。
「おいおい、腹でも減ってんのか?あとで何か食わしてやるから。今は耐えろ」
詩織は2人のやり取りを微笑ましく眺める。
― あれ?この青木さんって人…過去にどこかで会ったことがあるような…。
仕事終わり、詩織は友人の莉緒と待ち合わせをして、西新宿にあるイタリアン『ハシヤ』を訪れた。
「フジモトです」
詩織が予約してあることを告げると、テーブルに案内された。
「まだその偽名を使ってるんだ」
席に着いたところで、莉緒が指摘した。
「うん。だって、自分の名前を伝えても、聞き取ってもらえないんだもん」
店に予約を入れる際、電話口で『久津元』と名乗っても、一度で聞き取ってもらえることはまずない。
無駄なやり取りを何度も繰り返すよりも、別の名前を使ったほうが効率的だと考え、『フジモト』と名乗るようにしていた。
「今日も仕事で新規のクライアントさんと打ち合わせをしたときも、聞き取ってもらえなかったし…」
こういった不便もあり、詩織は自分の名字があまり好きではなかった。
「ああ…。早く結婚して、名字を変えたいなぁ」
「いいじゃん。私なんて、山本だよ?どこにでもいるでしょう。久津元なんて珍しい名前、羨ましいよ」
「早く結婚して、実家も出たいし…」
詩織の家は父親が厳しく、28歳になった今もひとり暮らしを許されていない。
家を出ていいのは、結婚が決まったときだとしつこく言われていた。
「とはいえ、彼氏もいないしな…」
詩織は、理想通りにはいかない現状を嘆いた。
テーブルに料理が運ばれ、ワインを飲みながら食事を進める。
「そうそう。さっき話した、今日の打ち合わせでのことなんだけど…」
詩織が、気にかかっていた昼間の出来事について、莉緒に打ち明けてみた。
「クライアントさんの2人のうちの若い男性のほうに、なんか見覚えがあったんだよね。最初に部屋に入ってきたとき、向こうも私に気づいてるような素振りがあったし…」
「へぇ。どんな感じの人?年齢とかは?」
「細身で、身長は170くらいかな…。年齢は23〜24歳だと思うけど…」
詩織が情報を伝えていると、店のドアが開いて男性が入ってくる様子を視界の端に捉えた。
男は人差し指を立てて「1人」と示しているが、あいにく満席のようだ。
そのとき詩織は思わず「ええっ!」と声を上げる。
「ど、どうしたの?急に…」
「いや、あの人…」
詩織が、入ってきた男性客のほうに視線を送る。
目が合い、男性も驚いたような表情を浮かべた。
その男性こそ、今しがた話題に挙げていた、詩織が打ち合わせをした人物だった。
さらに、男性を見た莉緒までもが「あっ!」と大きな声を上げる。
「店員さん…」
「いや、違う違う。あの人、私が今日会ったクライアントの…」
「そうじゃなくて。ほら。私たちが昔よく行ってた、渋谷のピザのお店の…」
莉緒の言葉をそこまで聞いて、詩織も思い出した。忘れかけていた記憶が、一気によみがえってくる。
見覚えがあると思った男性は、1年ほど前まで莉緒とともによく通っていた、渋谷にあるピッツェリアのスタッフだった。
互いに会釈を交わす。
「あ、あの…。満席みたいですし、よかったら一緒にどうですか?」
莉緒が男をテーブルに招くと、何か含んだような笑顔を詩織に向けた。
青木を加え、3人でテーブルを囲むことにした。
会話を交わすうちに、詩織の抱いた疑問や不審に思っていた点が解消されていく。
「そっかぁ。青木さんは、あのピザ屋さんのスタッフだったんですね」
詩織が納得すると、青木は照れたように頭を下げた。
詩織は、現在のIT系広告代理店に移る1年ほど前、渋谷にある大手広告代理店に勤めていた。
莉緒の勤め先も近かったので、渋谷で人気のピッツェリアをたびたび一緒に訪れていた。
そこで働いていたのが、青木だったのだ。
転職後、勤務地が新宿に変わってしまったこともあり、店から足が遠のいて、記憶も薄れてしまっていた。
「青木さんは、なんでピザ屋さんを辞めちゃったんですか?」
「大学生でアルバイトだったんです。就職が決まったので」
「ああ、なるほど」
莉緒と詩織が声を揃えて言う。
「今日、詩織の職場に行ったんですよね?最初に会ったときに、すぐに詩織だって気づいたんですか?」
莉緒の言うように、再会時に青木が見せた表情の変化は、そのせいではないかと詩織も思った。
「はい、一応…。店で働いてたときから、キレイな方だと思っていたので」
「またぁ…。でも、それなら言ってくれたらよかったのに。あの店の人だって教えてくれたら、私もすぐに思い出したのに」
「いやあ…」
青木は手もとのグラスを口に運び、ビールを飲み込むと、やや思いつめたように言葉を続ける。
「実はあの場で、ひとつショックなことに気づいて…」
「ショックなこと…?」
「ご結婚…されたんですね?」
青木が憂いを帯びた目を詩織に向ける。だが、青木が何故そう思ったのか、詩織にはすぐに理解できなかった。
「頂いた名刺のお名前が変わっていたので…。以前は確か、フジモトさん…でしたよね?」
青木の言葉を聞いて、欠けていたパズルのピースが埋まったような感覚をおぼえた。
今日起きた一連の出来事がすべてつながったように感じられる。
当時、詩織が渋谷のピッツェリアに電話で予約を入れる際、『フジモト』と名乗っていた。
だから青木は、本名だと勘違いしたのだ。
そして今日、名刺にある『久津元』の名を見て、結婚したのだと思ったに違いない。
― 打ち合わせ中に暗い顔をしていたのは、そういう理由だったのね…。
こうした経緯を詩織が伝えると、青木は困惑しながらも、次第に拍子抜けしたような表情を見せ始めた。
「そうなんですか?なんだ。結婚したわけじゃなかったんですね。よかった…」
青木は勘違いをしていたことに気づき、はにかみながらも安堵する。
「でも、本当に会えて嬉しかったです。店でお見かけしなくなって、どうしてるのかなってずっと気になっていたので」
青木は、包み隠さず自分の思いを伝える。
告白ともとれる青木の言葉を受け、どう対応していいかわからず困り果てる詩織の様子を、莉緒がニヤニヤして眺めていた。
和やかな雰囲気のなか、詩織も気持ちの高ぶりを感じ、何かが始まりそうな予感をおぼえる。
ただ、居心地よく思いながらも、完全に心を許していいものかどうか、ためらいも生じていた。
― 本当に、全部偶然なのかな…。
青木がクライアントとして職場に現れるのすらかなり低い確率であるのに、時間をおいて再び別の場所で遭遇するなどあり得るのか…。
あまりに偶然が過ぎるのではないかと、詩織は少しばかり不信感を抱くのだった。
▶前回:ドライブデートの目的はまさかの墓参り。そこで彼女に告げられた、過去の秘密とは…
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【後編】昔よく通っていたピザ屋を訪れる。そこで、男が辞めた本当の理由を知り…