その年は、とにかく暑かった。

気温40℃超えが何日も当たり前のように続いた夏。その猛暑の熱が、11月に入ったというのに往生際悪く居座り続けて、秋の気配などまるで感じられなかった暑い夜。

ある街で《私の青春》が始まった。 ある街とは…東京・港区・西麻布。

その時の私は28歳の誕生日を1ヶ月後に控えた、いわば立派な大人。私にとっての青春…今風に言うなら《アオハル》というものは、その響きだけで気恥ずかしくなるような、遥か過去の遺物…のはずだった。

でも。

《大人の青春》

この街で始まったみんなとの時間を表すのに、これ以上ピッタリな言葉はないと思う。

年齢なんて関係ない。この街に戻れば、私たちはいつでも《青春》を取り戻すことができる。

朝までバカ笑いしたり、大ゲンカしたり、誰かのために本気で怒り、泣いた…友情。

会いたくてドキドキして、でもうまくいかなくて本気で傷ついた…恋愛。

『リッチでビターで強欲で。大人の青春って最高でしょ。アオハルなんて甘すぎるのよ』

何かと無難に生きてきた私に【もう大人なんだから仕方ない】という諦めを取り払うことを教えてくれた人は、そう言って華やかに笑った。

これは想定内の人生を選びがちな、はしゃぐことを忘れた大人たちに送る大人の青春物語です。




お姉さん1人ぃ?飲み行こ!俺らと飲み行こ!
さわんな、キモイっつーの!
お姉さん、こえぇぇー!でも俺、気の強い女子好きぃ!
ぎゃっはっはは!

18時30分過ぎの西麻布交差点。ホブソンズの前から西麻布2丁目方向へと向かう横断歩道は、今日もだいぶ賑やかだ。

自分のほうへ向かってくる酔っ払いたちを、できるだけ見ないようにしながら、佐々木宝(ささきたから)は、親友の友香に指定された待ち合わせ場所に向かっていた。

― あー、もう、あっつい!

スマホを確認すると、ホーム画面に示された気温は27℃だった。今日は11月3日、季節はずれの暑さにうんざりすると同時に、ちょうど1ヶ月後に、自分が28歳になることに気がついた。

― まさか自分が、この街に引っ越すことになるなんて。

人生には何が起こるか分からないというけれど、去年の誕生日からはまさに想像もつかない、つくはずもなかったこの街への引っ越し。

「真面目、堅実、そして地味」

そう言われがちな宝にとって、最も縁がなかったエリアに住むことになるのだ。

慣れない街で、自然と急ぎ足になる。汗だくになってはいけないとジャケットを脱いだものの、熱は消えない。その上、今夜の待ち合わせに指定された場所が、オシャレなBarらしいということで、店が近づくにつれて緊張感も増していた。

横断歩道を渡り切ると、今度はアルコールの缶を手に、ガードレールや地べたに座り込み騒いでいる集団がいた。その前を通り過ぎようとしたとき。

― ドンっ

集団の1人が急に立ち上り、宝にぶつかる。転ぶかと思った瞬間、後ろから1人の男性に抱き留められた。

「お姉さんごめん!大丈夫?」
「………ダイジョブ、です」

上からのぞきこんできた男の顔に、思わず息を呑んだ。

― 美……圧倒的、美。

間違いなく男性のはず。ただその顔は、かっこいいというより美しい。

「…お姉さん?大丈夫?足とかひねってない?ホントごめんね、オレがぶつかっちゃったから」

美しい顔が至近距離で喋り出したことで、心拍数がギュンっと上がり苦しくなる。これはマズイ、と慌てた宝は、ゼンゼン、ダイジョウブ、デスと片言になりながらも、なんとかその腕をすり抜けた。

お詫びに一杯おごらせて、と言った美しい人を、ケッコウデス、と置き去りに、逃げるようにその場を立ち去った。待ち合わせに遅れるわけにはいかないし、知らない人におごられる、という価値観を宝は持ち合わせてはいないのだ。

― えっと…ここを右、か。

ちなみに宝は地図が読める女で、これまで道に迷ったことは一度もない。絶対の自信を持ってずんずん進むうちに、いつの間にか喧騒は消え、静かすぎるほどのエリア、目的地にたどり着いた。それは白いビルというのか、とにかく白い建物で、ここで間違いはないはずだったが。

「…入り口、どこ…」

入り口らしきものが見つからない。看板もない。何か困ったら連絡して、と教えられていた店の電話番号にかけようとした、その時。

「Sneet(スニート)に来たの?」

声の方向を振り返ると、存在感のある女性が立っていた。

カールされた長い髪、目力の強い派手顔。がっつりと胸元のあいたワンピースからは今にもはじけて飛び出そうな、胸の谷間が目に入る。

Sneet(スニート)は、まさしく待ち合わせに指定された店の名だったので、宝は店内で待ち合わせをしていることを告げた。が、女性は興味を示さず、新たな質問をしてくる。

「ちなみに、何ちゃん?」
「え?」
「あなたの名前。何ちゃん?」


「えっと、佐々木です」
「きゃはははは、普通、下の名前答えるよね、こういう場合。あれ?ささき、ってもしかして、下の名前?…ってそんなわけあるかい!」

自己完結で爆笑した女性に、かなりの酔っ払いであることを確信した。ニッポン人的自己紹介は、圧倒的に名字からだと思いますよ、と突っ込みたい気持ちをぐっとこらえる。

酔っ払っている人と絡むのは全くもって得意ではないが、店の入り口は教えてもらいたい。だから「佐々木宝です」と名乗りなおして、ペコリ、と頭を下げた。

「宝ちゃん!かんわいいぃぃぃ名前。ご両親の気持ちがだだもれしちゃってる良い名前だねぇ。宝ちゃんご両親の宝物なんだね…泣けちゃう…」

― え?泣く?情緒すごいな、この人。

怖い。本能的に後ずさった宝の腕を、女性がぐっと、捕まえた。

「えっ!?」
「出会いに乾杯しよ♡」
「…っち、ちょっと」
「ちなみに私は愛。愛ちゃんって呼んでね♡」




とろんとした視線と、バニラのような香り。愛から放たれるものに宝がドギマギしているうちにぐいぐいと引っ張られ、宝はいつの間にか店の中にいた。

ちなみに入り口は建物の横、細い階段を上がった2階にあった。

うながされ、ソファ席に座る。予想外の展開ではあるけれど、待ち合わせの5分前に着いたことを確認し、ひとまずほっとする。

薄暗くて店の全貌は見えない。でもいかにも高級そうな間接照明がレイアウトされた店内のセンスが良いことは十分にわかる。先客は2組いて、その全員の服装がおしゃれ。佇まいも洗練されていた。

地味な自分がひどく場違いに思えていたたまれなくなったものの、とりあえず待ち人が来るまでは逃げ出すわけにはいかない。

― 愛さんなら知ってるかな?

「あの…愛さん、私、友達の紹介で、この店の常連客の人と待ち合わせしてるんです。名前は…」
「…あ、い、ちゃ、ん!」
「え?」
「愛ちゃん、って呼ぶって約束したのにぃ。あ、もしかして私のこと、相当年上だと思ってる?年食ってるくせに、若作りしすぎ、ってバカにしてる?」
「…いや、約束はしてませんし、バカにもしてません」
「まぁ、とりあえず乾杯しよ!宝ちゃんと私が出会えた奇跡ってすごくない?」
「いや、だから私が人と待ち合わせをしてるって話を…」
「店長〜いつものシャンパン1本!」

宝の話は完全無視でピンっと手を上げた愛に脱力した瞬間、入り口から男の声が聞こえた。

「愛〜。若い子に迷惑かけるなって。今日はもう飲むな」

男性が愛の手を下ろしながら、宝に向かってほほ笑む。

― もしかして。

「あ!雄大じゃーん。一緒に飲もうよ、私がシャンパンあけるから!あ、この子は、宝ちゃんでーす!」
「知ってる。その子、たぶん、俺と待ち合わせの子。友香ちゃんの友達の佐々木さん、だよね?」
「はい、佐々木です」
「川上です。川上雄大。初めまして」

どうやら、宝の待ち人来たり、だ。

「えー。宝ちゃんと雄大が待ち合わせなんて、どういうことぉー???」

酔っ払い特有の舌足らずな口調で、愛は雄大の首に腕を回して問い詰める。雄大はそんな愛を苦笑いで引きはがしながら、もう飲むなよ、と優しくさとす。2人の距離感が妙に生々しく見えてドキドキしてしまい、宝は携帯を見るふりをして目をそらした。

結局愛は強制退場となった。はじめはまだ飲むと騒いでいたものの、帰りはオレが送るからそれまで寝てろ、という雄大の説得が決め手となり、今は奥にある従業員の部屋で眠っているらしい。

「宝ちゃんだっけ?」
「はい」
「なんか愛がごめんね。彼女、いつもはあんなに酔っぱらわないんだけど、今日は昼から飲んでたみたいで」
「…昼から、ですか」
「今日、この辺り、一年に一度のお祭りなんだよ。昼から色んな店がオープンして飲み歩けるようになってるの。西麻布・太陽祭っていうんだけどね」
「太陽、祭」
「ここに来るまでに、街中で飲んでる人もいたでしょ?変な奴に絡まれなかった?」
「…はい、とりあえず」

だから早い時間から酔っ払いが多かったのか、と納得しつつ、絡んできたのは、愛さん…もとい、愛ちゃんだけです、とか、あの美しい男の人も、お祭りだから外で飲んでたんだな、とか考えているうちに、シャンパンが注がれ、雄大と初めましての乾杯をした。

「引っ越しおめでとう」
「ありがとうございます」
「武蔵小金井の方からだっけ?」
「はい」

宝が5年住んでいた武蔵小金井から西麻布へ引っ越してきたのは、1週間前。

西麻布の家賃は、宝の収入では精いっぱいの1K・13万3,000円。築35年の古いマンションではあるものの、作りはしっかりしていたし、日当たりのよい3階の角部屋に満足していた。


「宝ちゃんって友香ちゃんの…?」
「大学の同級生です」
「親友が引っ越してくる、っていうから、友香ちゃんと似た感じの子を想像してたんだけど…」
「全くタイプが違いますよね。仲がいいっていうと驚く人が多いです」

佐々木友香と佐々木宝。同じクラスで出席番号が前後だったことから仲良くなった。福岡出身で大学からの上京組である宝とは違い、友香は東京・港区生まれ、港区育ちのお嬢様。

「地味佐々木と派手佐々木」

嫌味な教授がそう言い分けたとき、友香は憤慨していたが、宝は「うまいこと言うな」と感心した。他人からみれば属性が正反対の2人だが、一緒にいると居心地がよいのだ。

大学卒業後、宝は外資系製薬会社に就職。友香はアパレル企業に就職したものの、早々に退職し、今は家族ぐるみのセレブレティ人脈をいかし、世界中を飛び回るインフルエンサーになり、ここ1年はパリに住居を構えている。




そんな友香に宝が、港区に引っ越そうと思っているとビデオ通話で話したのが2ヶ月前。すると友香は実家が懇意にしている不動産業者に話をつけてくれて、そのおかげで西麻布にお得な物件を見つけることができた。

「ついでに、西麻布に住んで長い友達も紹介するよ。近くに知り合いがいる、と思ったら少しは安心するでしょ。私も宝のことが心配だし」

その友達が、雄大くんこと川上雄大で、友香が今日の待ち合わせをセッティングしてくれたのだ。年齢は30代後半と聞いている。予想に反して全然ぎらぎらしてなくて、むしろさわやか属性に見える、というのが宝の雄大への印象だった。

「そもそも宝ちゃんは、なんで西麻布に引っ越してきたの?」

宝は、正直に告げた。

「恥ずかしいですけど…失恋したんです。フラれた、といいますか…それで、その…」
「…」
「人生変えたくなって。今までの自分とは正反対のイメージの場所に住もうと思って」
「……で、西麻布?」
「はい。西麻布にこだわったわけじゃなくて、港区で探してたんですけど、友香のおかげでいい物件がたまたま西麻布にみつかった、って感じです」
「たまたま、ねえ」

雄大の言葉に笑いが混じった気がした。

「今、笑いました?何かおかしかったですか?」
「あ、ごめん、おかしいっていうより、なんかかわいいなぁって」
「…かわいい…?」
「失恋で人生変えようと思って港区に引っ越してくる、っていうのが、ずいぶんロマンティックというか…友香ちゃんと同じ年ってことは、もうすぐ30歳でしょ?」
「…まだ27です」
「27かぁ…」

― もしかして私、バカにされてる?

そう思った瞬間、あ、ごめん、バカにしたわけじゃないよ、と、雄大が言った。

「宝ちゃんって、顔に出やすいタイプだね」
「………すみません」
「いや別に、謝ることじゃないけど。ちょっとうらやましいな、って思ってさ」
「うらやましい?」
「未来が変わることを信じる姿勢、とか、この街に期待できる純粋さ、かな」
「…?」

宝は返事ができず、ぐぐっと、シャンパンを飲み干す彼をただ、ただ見ていた。雄大は店長らしき人に「もう一杯くれる?」と頼んだあと、宝の目をまっすぐに見て「うん、面白いかも」と言った。

「面白い、ってなにがですか?」
「いや、宝ちゃんを応援させてもらおうかな、と思って」
「わたしを…応援???」

ますますわけがわからなくなった宝に、また顔にでちゃってるよ、と雄大が笑った。

「宝ちゃん、どんなふうに変わりたい?」
「え?」
「そうか、具体的に言った方がいいね。宝ちゃんが人生変えるためにやってみたいこと、10個教えて。今までできなかったこととか、あきらめてたこととか?オレが協力する。金がかかることでもいいよ」
「???」

― この人は何を言ってるんだろう?

宝の脳内がどんどん「?」だらけになっていく。その時。

「あーやっぱ雄大さん、いた!あれ?さっきのお姉さんだ!」

近づいてきたのは、あの美しい顔の人だった。

「えー!なになに、お姉さん、雄大くんの友達だったの?」
「……友達じゃ、ないですけど…」
「だいきこそ、宝ちゃんと知り合い?」
「うん、さっき知り合った。オレ、だいきです。大きいに輝くって書いて、大輝。雄大さんにくっついて回ってるから、この辺りじゃ【大大兄弟】って呼ばれてます。よろしくです」

そう言うと、大輝は宝の手をとり、チュッと手の甲にキスをした。

あっけにとられてフリーズした宝。お前、そのうちセクハラで訴えられるぞ、とあきれた雄大。そして、奥の部屋ですやすやと眠っていた愛。

4人の大人の青春は、この夜、こうして始まった。

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