人の心は単純ではない。

たとえ友情や恋愛感情によって結ばれている相手でも、時に意見は食い違い、衝突が起きる。

軋轢や確執のなかで、感情は歪められ、別の形を成していく――。

これは、複雑怪奇な人間心理が生み出した、ミステリアスな物語。

▶前回:宅飲みで寝落ちした28歳男。深夜に目を覚ますと、大切な彼女が男友達と寄り添っていて…




視野の広さは【前編】


「おい、琴音。もっと周りを見て運転しないと、事故るぞ」

助手席に座る健史は、運転席でハンドルを握る恋人に注意を促す。

「大丈夫だって」

琴音は、何食わぬ顔で運転を続ける。

先日、琴音から「ドライブに行こう」と誘いを受けた。

「私が運転したい」

琴音がそう言うので、健史は車を貸して運転も行き先も任せたのだ。

ただ、琴音は免許取得後、さほど運転の経験がないため、いささか心もとない。

琴音は、私立大学に通う4年生。

健史はその7歳上になる。

出会ったのは、2ヶ月ほど前に開かれた飲み会。

健史は、勤めている外資系証券会社の同僚に誘われ、参加した。

ブランド力を感じる女子大生が相手ということもあり、同僚たちの意気はあがっていた。

実際、集まった女性たちは若く溌剌としていて、30代を目前に控えた男たちの目には輝いて映る。

だが、4人いる女性のうちのひとり、琴音だけは、どうも様子が違った。

はしゃぐでも、黙るでもなく、控えめに立ち振る舞い、周囲とうまく波長を合わせていたのだ。

世の中を達観したような、大人びた雰囲気を醸し出す琴音に惹かれ、健史のほうから誘い、交際が始まった。

「ほら琴音。あの人、危ないよ。クラクション鳴らしな」

進行方向前方に、歩きスマホをしている男性がいる。歩道から車道へと、足をはみ出して歩いていた。

琴音が指示に従いクラクションを鳴らすと、男性は慌てて歩道に戻る。

「そうそう。危ないときはちゃんとクラクションも使わないと」

「でも今の人、歩道に戻った結果、フードデリバリーの自転車にぶつかりそうになってたよ」

「それは自分が悪いんだよ」

琴音とはだいぶ年齢差があるが、彼女はしっかりした性格。普段は、健史のほうが年下のように扱われることが多かった。

それゆえ、運転中に指導できることが、健史には少し心地よく感じられる。


琴音の自宅がある渋谷から、首都高速に乗り、湾岸線を抜ける。車は、東京湾アクアラインへと向かっていた。

行き先は詳しく聞いていないが、千葉方面を目指しているようだった。

1月にしては陽も出ていて暖かく、ドライブ日和と言えた。

「こうやって、女性に運転を任せて車で出かけたこともあるの?」

琴音がハンドルを握りながら健史に尋ねる。

「う〜ん、だいぶ昔に一度だけあったかな…」

記憶を遡ると、健史の頭に、7年ほど前に交際していた彼女の顔が浮かんだ。

『和実』という名前の女性だった。

「俺が社会人2年目で、初めて買った車だったな」

「どんな人だったの?」

「当時付き合ってた彼女で、琴音と同じ女子大生だったよ。確か4年生だった。翌年の春から高校の教師になるって言ってたなあ。まあ、その前に別れちゃったけど」

「そのときのドライブはどこに行ったの?」

「千葉だったか埼玉だったかの、神社に連れて行かれた気がする。お参りして帰ってきた覚えがあるなぁ」

「楽しかった?何か美味しいものとか食べた?」

「どうだったかな。その子、すごい偏食だったんだよ。あまり食の趣味が合わなかったな」




当時の記憶はおぼろげだ。和実とは相性が合わないと感じることが多く、半年ほどで別れたのだと思い出す。

「なに?俺の昔の彼女が気になる?」

普段の琴音は、嫉妬の素振りなど見せないので、気分は悪くない。

だが、琴音はいかにも気に留めていない様子で、「別に〜」と答えた。

「あと、思い出した。琴音と同じでやっぱり視野が狭くて、運転中よく注意した覚えがある」

「ちょっと。私はそんなことないでしょう」

軽妙に会話を交わし、和やかなドライブが続く。

車はアクアラインへと入っていった。



千葉県に入り、木更津市内でアクアラインを降りた。

そのまましばらく車を走らせると、道の駅が見えてくる。

「ちょっと寄ってもいい?」

琴音がそう言って、ハンドルを切り、駐車場へと入っていく。

日曜日ということもあり、停まっている車も多い。

店内もかなり混雑しているようだった。

多くの人で賑わう店内を物色していると、地元特産の新鮮な野菜や果物のほか、地域限定の加工品など、珍しいものが次々と目に飛び込んでくる。

「うわぁ、こんなの見たことない。美味しそう」




琴音は彩りのいいご当地スイーツを、物欲しそうな目で眺めた。

そんな無邪気な姿を、健史も微笑ましく見つめる。

「なあ、琴音。ここが目的地ってわけじゃないよなぁ?」

健史が何気なく、このドライブの行き先を尋ねる。

すると琴音は明言を避け、「うん…」とどこかはぐらすように答えた。

「俺、ちょっとトイレに行ってくるよ」

健史はいったん琴音のもとを離れ、トイレに向かった。

用を済ませて先に車に戻り、受け取っていたキーでドアを開けて車内で待つ。

だが、琴音がなかなか戻ってこない。

店に迎えに戻ろうかと思ったところで、車に向かってくる琴音の姿を見つけた。

― ええ…。そんなに何を買ったの…?

琴音は大きなビニール袋を2つ、両手に持って歩いてきた。


琴音は、持っていたビニール袋を後部座席に置くと、運転席に戻った。

「お待たせ〜」

「おいおい。そんなにたくさん、何を買ってきたんだよ」

「え?みんなへのお土産とかだけど…」

「みんなって…?」

「職場の人たちとか友だちとか…。あと健史のお母さん用にも買っておいたから、あとで渡すね」

「うちの母親に?会ったことないし、何が好きとか、趣味とかわからないだろう。何を買ったの?」

使い道のないお土産をもらったときの困りようは、共通認識として持っているはずである。

「美味しそうなご当地のジャムがあったから。お母さん、ジャム好きでしょう?」

「えっ!なんでうちの母親がジャム好きだって知ってるの?話したことあったっけ…」

母親は季節のフルーツでジャムを作るのが趣味で、よく朝食に出したり、ホームパーティーで振る舞ったりしていた。

「ほら。前に、家族で集まったときの実家の写真見せてくれたじゃない?そのときに、お揃いの小瓶に入ったジャムがテーブルの上にのってたから。きっと手作りなんだろうなって」

「ああ、なるほど…。ありがとう」

健史は内心驚くとともに、その観察眼に感心していた。

― 意外と、見てるところは見てるんだな…。

それだけ周囲に気配りできるのであれば、危なっかしい運転も改善されるだろうと少し安心もした。



琴音がエンジンを始動させた。

「よ〜し、じゃあ出発ね。と、その前に…」

そこで、ようやくカーナビを操作し始めた。

目的地を入力する様子を、健史は何気なく眺めていた。




すると、妙な文字を打ち込むのが目に入った。

― ん…?墓苑…?

琴音が、『墓苑』と入力し検索をしている。

「ちょっと待って。え、お墓に行くの?目的はお墓参りってこと?」

せっかく天気のいい休日のドライブデートである。目的がお墓参りとなると、テンションも上がらない。

「誰のお墓?親戚?そういうのは、家族とかと行ったほうがいいんじゃないかな…」

琴音が「ううん」と首を横に振る。

「ええ…じゃあ誰?友だちの?今日じゃないとダメかな…」

カーナビに設定された場所を見ると、まだ随分と距離がありそうだった。

「どこか、この辺のテーマパークでも行かない?ほら、海も近いし。美味しい海鮮を食べに行くとかさ」

もっと有意義に時間を使いたいと、健史は2人で行くのに相応しい場所を提案する。しかし、琴音は納得しない。

「どうしても、今日行きたいの」

琴音が、猫のようなやや吊り上がった目を向けて訴える。

さらに、両手を合わせて拝むように構え、「お願い!」と言って顔をクシャッと歪めた。




― う…。可愛い…。

子どもっぽいポーズにあざとさを感じつつも、普段の大人びた表情とのギャップに、30代手前の男は打ちのめされてしまった。

心のガードがこじ開けられ、完全に懐に入り込まれた。

「わかったよ…。付き合うよ…」

健史が渋々承諾すると、「やった!」と琴音はひと声あげて車を発進させる。

気乗りのしないドライブが再開された。

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ドライブデートでお墓参りに連れて行かれる男。だが、その目的が明らかになり…