人の心は単純ではない。

たとえ友情や恋愛感情によって結ばれている相手でも、時に意見は食い違い、衝突が起きる。

軋轢や確執のなかで、感情は歪められ、別の形を成していく――。

これは、複雑怪奇な人間心理が生み出した、ミステリアスな物語。

▶前回:交際1年で倦怠期を迎えたカップル。一瞬で関係修復に成功した、まさかの切り札とは?




居眠りの代償【前編】


「実は俺さあ、穂香と付き合うことになったんだ」

優大は、テーブルを挟んで向かいに座る和人の表情を窺うようにして告げた。

それを伝えることが、和人を呼び出した理由でもあった。

「あ、そうなんだ。へぇ…」

和人は少し驚いた表情を見せたものの、動揺する様子はなくビールを煽る。

優大と和人、穂香の3人は、同じ私立大学の同じゼミ出身で、卒業後も懇意にしていた。

何かと理由をつけて集まっては、近況を報告し合い、くだらない話で盛り上がる気が置けない仲間だった。

卒業して5年が経ち、気軽な関係が少しずつ変化を遂げ、優大は穂香に告白したのだ。

「やっぱりお前には、直接報告しなきゃって思ってさ」

優大の言葉に、和人はこの事態を予測していたかのように、「ふ〜ん」と頷く。

― なんだよ和人。それだけかよ。

優大が穂香に告白したのは、和人の影響が大きいのだ。

このところ、3人で集まった際に、穂香と和人はよくオンラインゲームの話題で共感し合っていた。

優大は、そういったゲームに一切興味がない。

自分のいないところで和人と穂香が距離を縮めていることに、嫉妬をおぼえはじめる。

和人は、スッとした目つきの塩顔。容姿も穂香の好みのような気がしてきて、なんだか焦りを感じる。

― 和人に、穂香をとられたくない…。

優大は、安泰だと思っていた自分たちの関係が、実は絶妙なバランスの上に成り立っていることに気づいていた。

長い期間、良好な関係を保てているのは、それぞれどこかで好意を抱いていることが前提であり、その感情をコントロールしつつ付き合ってきたからだと。

誰かが一歩前に踏み出せば、関係はあっさり崩れ落ちていくであろうとわかっていた。

それでもいい。焦燥感に駆られた優大は、和人よりも先に、穂香に思いを伝えたのだった。


「そっか、穂香と付き合ってるのか。良かったな」

和人が屈託のない笑顔を見せながら、しみじみと言った。

穏やかな表情から、嫉妬や強がりといった感情は一切なく、心からの言葉であることが伝わってくる。

「で、どっちから告ったんだよ?」

「一応、俺から…」

優大は、穂香を誘って何度か2人で食事に出かけ、交際を申し込んだのだ。




穂香は、告白を受け入れてくれた。

付き合いが長く、気心が知れている相手なだけに、断る理由も見つからないようだった。

大それた愛情表現はないが、順調に交際を続けている。

「穂香は、昔から優大のことが好きだったんじゃないかな」

和人が、自分に気を使う必要ないとばかりに憶測を述べた。

優大は「抜け駆け」とも言える行動をとった自分に負い目を感じていたので、幾分か気持ちが楽になる。

「あいつも、昔と比べてずいぶん大人っぽくなったし。優大ともお似合いだと思うよ」

たしかに穂香は、大学時代ショートだった髪を肩のあたりまで伸ばすようになり、メイクも上達して大人の色気を帯びてきた印象がある。

すべて肯定的に受け止めてくれる和人の優しさが、優大の身に染みた。

3人の関係がうまくいっていたのは、和人の優しくておおらかな人柄のおかげだったと実感する。

「そうだ。穂香と付き合い始めて、気づいたことがあるんだけど…」

肩の荷がひとつおりた優大は、和人に相談を持ちかけてみることにした。

「穂香のやつ、映画とか舞台を一緒に観に行くと、必ずと言っていいほど居眠りをするんだよ」

優大は、映画や演劇の鑑賞を趣味としていた。

恋人となったからには穂香にも趣味を共有したい。だから連れて行くのだが、気づくと穂香は隣の席で、コクリコクリと首を揺らしているのだ。




「まあ、映画や舞台に興味がないからだとは思うんだけど…。2人で出かけたことなんて今までほとんどなかったからさ、デートってどこに行けばいいかわからないんだよ」

「確かに。2人きりで出かけるって、なかったもんな」

「俺がゲームを始めるっていうのも案としてはあるけど…」

優大にとってゲームはまったく興味のないジャンルなだけに、上達も見込めず、和気あいあいと過ごす様子も思い浮かばなかった。

「どこに連れて行くと、穂香は喜ぶと思う?」

和人は少し黙って考えたあと、「あっ」と何かひらめいたような声を上げる。

「格闘技とか、観戦に行くのはどうかな?あいつ、格闘ゲームも好きだから、きっと本物の試合も興味あると思うんだ」

「格闘技か。なるほど…」

優大も、格闘技は嫌いではない。

実際に会場で観戦したこともあり、打撃の音や客席からの歓声など、生の迫力にかなり興奮したおぼえがあった。

「ほら。ちょうど来月、注目の試合があるし」

メディアにもよく登場する2人のキックボクサーの試合が予定されている。世紀の一戦と銘打たれ、世間でも話題になっていた。

「うん!いいかも!」

和人の提案を受け入れ、早速チケットの手配を試みる。

…が、注目を集める試合なだけにチケットはすでに完売状態。

それでも、優大の勤める大手派遣会社が試合のスポンサーに入っていたことから、各所へのツテを頼ってなんとかチケットを入手することができた。




試合観戦後。

穂香を助手席に乗せ、会場があった有明から車で帰っている。

試合は期待に違わぬ白熱した展開となり、大いに盛り上がった。

普通なら、興奮冷めやらぬまま感想を交わし合い、もうひと盛り上がりしてもおかしくないところである。

しかし、車のなかは会話も少なく、寂しいものとなっていた。

「穂香。お前、また居眠りしてたろう…」

優大が尋ねると、穂香は外の夜景を眺めながら、「うん」と悪びれる様子もなく答える。

試合序盤の緊張感漂うリングを前に、穂香は目を閉じてウトウトしていた。

歓声が起きて目を覚まし、決着は見届けたものの、生で観戦する醍醐味は完全に損なわれていた。

「あの席を取るの、大変だったんだぞ」

ツテを頼りに入手したのは、リングサイドのチケットだった。

10万円という金額を奮発して出していただけに、優大が不服に思うのも当然と言えば当然だった。

「格闘技に興味あるんじゃなかったのかよ…」

「う〜ん…。格闘ゲームは好きなんだけど、なんかやっぱりゲームとは違った」

「そりゃそうだろう…」

和人のアドバイスもあり、穂香本人からも観戦してみたいという意思を確認していた。

だが、穂香の口から出たデリカシーのない言葉に、優大もさすがにあきれる。

恋人として、もっと距離を縮めようと歩み寄っているにもかかわらず、避けられているようにも感じる。

しばらく無言のまま車を走らせた。

優大はハンドルを握りながら、ふと穂香に視線を向ける。

― ええ…。寝てる?

窓の外を眺めるような角度で傾けた首が、小刻みに揺れている。




― おいおい。この状況で寝るかね…。

あまりに配慮に欠ける行動に、もう怒る気力も失せた。

― もしかしたら、付き合わないほうが良かったのかな…。

和人との3人の関係を犠牲にしてまで付き合うべきではなかったのではないかと、優大の胸に後悔の念がよぎった。



穂香を送り届け、優大は気まずい空気を引きずったまま自宅マンションに戻った。

部屋に入ったところで、スマートフォンに和人からLINEが届いていることに気づいた。

『穂香のことがネットで話題になってるぞ』

メッセージの意味が理解できず、優大は今日の報告を兼ねて和人に電話をかけた。

『穂香のやつ、また居眠りしてただろう?』

和人はなぜかすでに状況を把握しているようだった。

優大は、「なんで知ってんの?」と尋ね返す。

『カメラで撮られてて、画面に映ってたんだよ』

今日の試合はテレビ中継がないものの、インターネットで生配信されていた。

その視聴者が、リングサイドで居眠りをしている穂香に気づき、コメントを寄せたのだ。

和人に促され、X(Twitter)を開き、投稿されたコメントを覗く。

『おい。リングサイドに寝てる女がいるぞ』

『この試合で居眠りするなんて信じらんねぇ』

『贅沢だ!帰れ!』

批判的なコメントが次から次へと目に飛び込んでくる。

― ほら、やっぱり…。

注目されていた試合なだけに、反響は大きく、批判もそれだけ辛辣なものになっていた。

だが、スクロールして目を通していくうちに、別の視点からの感想が増え始める。

『あの娘、よく見ると可愛いぞ』

『ラウンドガールよりも可愛いんじゃないか?』

『カメラさんもっと映して!』

好意的な書き込みが増え、なかには『居眠り姫』との例えを用い、もてはやす者まで現れていた。




― 俺の知らないところで、こんなことになっていたなんて…。

批判や非難のコメントに対して、支持や擁護を示すようなコメントが入り乱れ、試合とはまったく別の盛り上がりを見せていた。

優大の頭には別れる選択もよぎっていただけに、穂香のチヤホヤされている様子がどこかもどかしく、複雑な感情を抱いた。

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