「もう結婚したのに…」別れた男との記念品を捨てられない人妻。ある日、38歳になった元カレに再会し…
モノが溢れているこの時代に、あえて“モノ”をプレゼントしなくてもいいんじゃない?と言う人もいるかもしれないけど…。
自分のために、あれこれ考えてくれた時間も含めて、やっぱり嬉しい。
プレゼントには、人と人の距離を縮める不思議な効果がある。
あなたは、大切な人に何をプレゼントしますか?
▶前回:「これ、昔の彼にもらったの」デートに元カレからのプレゼントを身につけて行った女。嫉妬した彼氏は…
百合(33歳)「あの頃に戻りたい、かもしれない」
「お試しされますか?」
夫の弘樹に連れられてやってきたけれど、彼はお目当てのブランドの店員さんと話し込んでしまっているので、私はなんとなく1人で歩き回っていた。すると、あるショーケースの前で店員さんに話しかけられた。
「こちら、ケースからお出ししましょうか?」
「あっ、いえ別に…眺めていただけなので」
振り返ると、いつのまにか弘樹が後ろに立っていた。
「いいじゃん、試してみれば。今持ってる時計、結構古いでしょ」
「ぜひ。一度着けてみてください」
弘樹の援護射撃を得て、店員さんも試着を勧めてくる。
ショーケースから取り出されたのはZENITHのデファイ スカイラインで、アイスブルーの文字盤を囲うようにぎっしりとダイヤモンドが並べられたデザインだ。お値段は…私が今着けている腕時計の、恐らく50倍以上。
恐る恐る試着してみると…。
― あれ…思ったより全然、っていうか、かなり良いかも。
キラキラ輝くダイヤモンドと爽やかな空色の文字盤が見事に調和して、華やかながらもオトナの女性らしい印象。30代の自分に、どこかしっくりくるような気がする。
「いいじゃん、買っちゃえば。なんなら俺が買ってあげるし。百合、婚約指輪も要らないって言い張るから買わなかったけど…一度くらい、何かちゃんとしたものを贈らせてよ」
弘樹は今にもクレジットカードを取り出さんばかりの勢いだ。それを見て、私はハッと我に返る。
― ダメダメ、今の時計を大切にするんだから。
店員さんにお礼を言って、慎重に時計を外した。弘樹が不満げな表情をするので、思わず苦笑してしまう。
「…この時計、気に入ってるんだよね」
たくさん傷のついた、チープさを醸す私の時計。
それは、“ある人”からの、最後の贈り物だった。
この時計の贈り主は…海斗。私が青春時代を捧げた、忘れられない元カレだ。
彼と出会ったのは大学2年生の時。
茨城の高校を卒業して早稲田大学文学部に進学した私は、友達の付き添いで行った演劇サークルの新歓で芝居の魅力に目覚め、授業もそこそこに、サークル活動に心血を注いでいた。
なるべく短時間でお金を稼ぐために始めたのが、先輩に紹介してもらった高級ホテルのベルパーソンの仕事だ。
海斗はそのホテルで、私と同じような理由でバイトしていた。5歳年上の彼はプロの劇団員で、私よりもずっとその世界に詳しかった。芝居のことで悩んだら彼に相談したし、勉強のために読むべき本や見るべき映画などもたくさん教えてもらった。
そうしているうちに私たちが恋人同士になるのは、ごく自然な成り行きだった。
なんでも知っている海斗を、私は尊敬していた。親が借りてくれた神楽坂の私のマンションと、彼の高円寺の1Kを行き来しながら、多くの時間を過ごしたものだ。
海斗の影響で、大学卒業後は私も専業の劇団員として本格的に活動することを決めた。親に伝えたら、泣きながら反対されたけど…。
大学3年の夏まで演劇論を熱く交わし合ったサークルの友人たちは、秋になると一気に髪を真っ黒に染め、リクルートスーツに身を包んで就職活動に精を出し始めた。出版社や映像制作会社、広告業界などに進路を定めていく友人たちを尻目に、私は舞台役者としてのインスタアカウントを作り、海斗に勧められてオーディションを受ける日々だった。
周りの人と違う選択をしたことに、どこか優越感を感じていたのかもしれない。
大学を卒業し、演劇の世界に飛び込んでから1、2年の間は、自分の選択に自信があった。でも…。
「この前、初めて自分主導で作ったプレゼンが通ったんだ!」
「ボーナスでブシュロンのリング買っちゃった」
「彼にプロポーズされたの!」
「思い切ってマンション買うことにしたよ」
社会人になりたての時は、集まるたびに「仕事がツラい」「会社に行きたくない」と暗い顔で語っていたサークル時代の友人たち。それが数年ぶりに会うと、皆して意気揚々と近況を語りだすので戸惑った。
一方の私は…神楽坂のマンションは親に解約されてしまい、海斗の高円寺の1Kに転がり込んで、24平米で身を寄せ合うように暮らしていた。
劇団には所属していたけれど、歩合給は生活していくのに満足できる金額ではなくて、ベルパーソンとバーテンダー、他にも日雇いのバイトをいくつも掛け持ちする生活。オーディションにもなかなか受からず、新宿三丁目や大久保の雑居ビルの地下にある小さな劇場に出るのが定番で、いつになったらより大きな仕事を取れるのか、想像もできない日々だった。
結局、私は凡人だったのだ。
そのことに気づくのに、人よりもすごく時間がかかってしまった。
「私もう、この生活やめようかな」
毎日を生き急ぐように芝居とバイトで埋めているうちに、体力の限界が来はじめていた。
精神的にも辛かった。
芝居も舞台の仕事も大好きだからこそ、うまくいかない日々に、心が完全に参っていたのだ。
「就職しようかな…うん。私、就職したい。普通の人生を送りたい」
海斗に告げると、彼は反対するでもなく、「そっか」とつぶやく。
「百合の人生だから、どんな選択でも俺は応援するよ」
そして四苦八苦の末、私が小さなIT企業に第二新卒枠で就職を決めると、海斗が珍しく食事を手作りしてお祝いしてくれた。
「これ、プレゼント。働き始めたら、腕時計があった方がいいでしょ」
デパートの包装紙にくるまれた小さな箱を開けると、ステンレスの時計が入っている。ブランドロゴから、3万円くらいのものだと気づいた。それが当時の彼にとって大金であることは、何年も一緒に生活してきたから、痛いほどよくわかった。
「百合、就職おめでとう」
あのときコンビニで買ったシャンパンの、少しキリリとした鋭い味は、今でも忘れられない。
結局、就職して1年もせずに、海斗とは別れてしまった。
社会人として生活を始めると、彼と話が合わなくなったことにはすぐ気がついた。
かつての私と同じように、小さな舞台仕事とたくさんのバイトで毎日を埋めている海斗とは、生活時間も合わない。すれ違い生活の末、私の地方転勤が決まったことが引き金になって、海斗と私の6年の交際は終焉を迎えた。
それから、7年。
零細IT企業でキャリアをスタートした私だったが、3年を経て外資系大手ITコンサルに転職できた。その後さらに別のコンサルへ転職し、今は年収1,200万程度。前職の社内恋愛で結婚した4つ年上の弘樹は年収1,800万円なので、世帯年収は3,000万円。いわゆるパワーカップルというやつだ。
結婚生活は順調そのものだけど…時々、芝居に没頭していた日々を、懐かしむことがある。あの日海斗からもらった腕時計も、ずっと手放せずにいた。
私は海斗を、完全に断ち切れてはいないのだ。
◆
「なんか、食事するにしても中途半端な時間だなぁ。何か他に行きたいところある?」
「そうねぇ…」
時計店を出たのが16時45分。お茶をするには遅いし、夕食にするにはまだお腹が空かない。ここはおとなしく、市ヶ谷の自宅に帰ろうか…と思った、その時。
「すぐ近くの劇場で舞台やってまーす!17時からの当日券、1,000円です!」
元気のいい声で若い女性から渡されたチラシを見て、息を呑む。そこには、メインキャストとして海斗の名前が書かれていた。
「いいじゃん、舞台!映画より安くて時間つぶせるし、ラッキー」
チラシを覗き込んできた弘樹はノリノリだ。反論する理由も見つからなくて、私はとっさにうなずいてしまった。
「じゃあ、これ見に行ってみようか」
チラシに書かれていたのは、以前もよく通っていた小さな劇場。地下への階段が少し急なので、舞台装置の搬出入には気をつかったものだ。受付で2,000円を渡すと、少し埃っぽいシアターに足を進める。
― 海斗だ。
舞台が始まって早々、彼は現れた。準主役のポジションらしい。38歳の彼の声には以前よりも厚みがあり、表現力も深みを増している気がする。良い年齢の重ね方をしているのだなと、雰囲気からそう感じさせた。
― だけど…。
眺めているうちに、不思議な気分になってくる。海斗のことは大好きで、別れた理由もどうしようもないものだった。だからこそ、断ち切りがたく思っていたけれど…。
― “ここ”はもう、私の生きる場所じゃないんだな。
大好きだった海斗も、芝居も。自分から手放したことを時々後悔していたけれど、気づけば本当に遠い存在になっていた。
「海斗にまた会いたい」とか、「もう一度お芝居をしたい」とか…時々不意に考えてしまっていたことが、物語が進むにつれ、心の中からすっきりと消え去っていく。
「…ねえ、弘樹」
舞台が終わった後、私は振り返らずに会場を出た。長居してしまうと、海斗が受付の方に出てきて鉢合わせしてしまうと思ったから。
「想像以上によかったな〜」と、何か感じ入っている様子の弘樹の腕を引き、来た道を折り返す。
「さっきの時計、やっぱりほしいな。プレゼントしてくれない?」
「えっ!ホントに?」
「うん。なんだか急に、新しい気持ちで頑張りたい気分になったの」
「おっ。舞台に影響されたか?」
何も知らない弘樹の笑顔を、愛おしく思う。
“最も高い、あなたの星をつかむために”
店で渡されたZENITHのパンフレットに書いてあった、メゾンのポリシー。今の私には、言葉がそのまま響いた。
― 私は弘樹と一緒に、幸せをつかみにいきたい…人生をかけて。
彼からの、初めての大きなプレゼント。
待ちきれない気持ちで、私たちはどちらからともなく走り出した。
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