東京のアッパー層。

その中でも、名家や政財界などの上流階級の世界は、驚くほど小さく閉じている。

例えば、ついうっかり“友人の結婚式”なんかに参加すると「元恋人」や「過ちを犯した相手」があちこちに坐っていて冷や汗をかくことになる。

まるで、いわく付きのパールのネックレスのように、連なる人間関係。

ここは、誰しもが繋がっている「東京の上流階級」という小さな世界。

そんな逃れられない因果な縁を生きる人々の、数珠繋ぎのストーリー。

▶前回:親友の結婚式。入場してきた新郎を見て、女友達が思ってしまったありえないコトとは




Vol.3 P.M.12:20 乾杯の挨拶
   新婦上司&新婦父母友人・津田美恵子(ジュエリー会社代表取締役)


「皆様、ごきげんよう。

ただいまご紹介にあずかりました、新婦・マサミさんの勤務先、株式会社TSUDAパール代表取締役の津田美恵子と申します。

本日はこのような大役を仰せつかりましたため、僭越ではございますが、乾杯の音頭を取らせていただきます。

向一郎さん、マサミさん。本日は誠にご結婚おめでとうございます。

ご両家、ご親族の皆様におかれましても、心よりのお慶びを申し上げます。

どうぞ、お座りください。

…と、堅苦しい挨拶はここまでにして、今日はいつもの通り『マサミちゃん』と呼ばせてね…」

手元に原稿は準備してきたものの、私はそれを折りたたんだまま、乾杯のスピーチに取り掛かる。

いち企業の社長という立場上、人前で話す機会には慣れている方なのだ。

けれど、期待するような、恐縮するような視線を、まっすぐに私に向けるマサミちゃんの晴れ姿…。

その美しい眼差しを受け止めていると、否が応でも胸に熱いものが込み上げてくる。

それもそのはず。

純白のウエディングドレスを煌々と照らすスポットライトは、レフ板の役割を務めるドレスを経て、マサミちゃんの顔をくっきりと華やかに際立たせている。

そして、その額には──。

私が永遠に逃れられない、罪のしるしが浮き上がっているのだから。


マサミちゃんの額に浮き上がっている、私の罪のしるし。

それは、白い傷痕の形をしている。

世界いち有名な魔法使いの少年の額にある傷痕と、ちょうどよく似たガタついた傷痕。

じっとよく目を凝らせばわかるという程度の傷痕だけれど、今日というハレの日を明るく照らし出すスポットライトが、その傷痕をくっきりと私に突きつけているような気がした。




私は小さく咳払いをすると、スピーチを続ける。

「…たしかにマサミちゃんには、ご縁あって我が社・TSUDAパールの社員として、公私の線引きをしっかりとしながら日々業務に励んでいただいています。

でも、今日の私はあくまでも、昔から家族ぐるみのおばちゃまの立場。無理を言って、席次表の肩書も“新婦父母友人”にしてもらったわね。

会場の皆様にご説明をさせていただきますと、マサミちゃんのお父様と、私の亡き夫は、学生時代からの大親友でございました。

それが素晴らしい巡り合わせで、お互いに同時期に娘を授かり…マサミちゃんと私の娘・千紗子(チー子)は同い年。

同じ塩光会幼稚園の同級生となってからは、本当の家族同士のように仲良くさせていただいている関係でございます…」




そう。マサミちゃん一家との付き合いは、マサミちゃんが生まれる前から始まっていた。

主人たちは大親友で、娘も同い年ともなれば、考えの浅い男親同士のこと。

「同じ幼稚園、同じ小学校に入れよう。俺たちみたいな大親友同士にしよう」という話になったのは、軽いノリでありながらも、当然の流れだったと言えるだろう。

けれど、主人たちの思惑通り名門お受験幼稚園・塩光会に娘たちを入れてからというもの、私の毎日は急激に、気が気でないものになった。

主人たちは「俺たちの母校、幼稚舎に入れよう!」なんて、簡単に言うけれど…。

いくら卒業生の娘だからといって、女の子が合格を貰うことがどれだけ大変なことなのか、彼らには全く理解できない様子だったのだ。

同じ幼稚園で。

同じ個人の先生で。

同じ体操教室で。

同じお絵かき教室で。

日に日に仲を深めていく、マサミちゃんと、娘のチー子。

平日のみならず、週末を一緒に過ごすことだってしょっちゅう。

私はいつだってハラハラとしながら、親友になっていく娘たちを見守っていた。

だって、それだけマサミちゃんと娘を見比べていれば──どんな親バカの母親でも、気がつかないわけがない。

…娘よりも、マサミちゃんの方が優れているということに。




ペーパー問題の出来はさほどではないものの、マサミちゃんの回答や描く絵には、他の子ではちょっと思いつかないような工夫が光る。

体操や行動観察などでは、お行儀が特別いいわけでもないのに、なぜだか不思議とその場の視線がマサミちゃんに集まる。

そして何より、マサミちゃんのママは専業主婦なのだ。家庭での毎日のサポートが、我が家とは比較にならないほど細やかで、手厚い。

TSUDAパールは、主人が社長だった。

けれど、もともとは私の実家の家業なのだ。主人はいわば、婿の立場。

“社長は女より、男の方がいい”という世間体を理由に主人を社長に据え置いているだけで、実質的な業務は専務の私も多く抱えている。

そのくせ、育児は女親がやる時代。幼稚園でのお役目。お教室通い。お受験の支度。のしかかるのは全て、私の肩。

あまりの多忙と劣等感に、押しつぶされそうだったお受験直前の秋。

あの事件が起きたのは、木々が血のように真っ赤に染め上げられた、紅葉の軽井沢でのことだった。


幼稚舎受験を翌週に控えた、秋の週末。

マサミちゃん一家が所属する会員制のテニスクラブで、テニスを楽しむ予定になっていた。

だから、みんなでマサミちゃん家族が所有する軽井沢の別荘に遊びに来ていた。

だが、お受験直前の緊張で吐き気すら覚えている私は、テニスをする気分にはなれず、別荘での留守番を名乗り出たのだ。

「マサミもテニス行かない。チー子ちゃんとおばちゃまと、別荘のお庭で遊ぶほうがいい」

「チー子も!マサミちゃんちのお庭で遊ぶ!」

子どもたちがそう言ったため、私は落ち葉が降り積もった庭で遊びまわる二人を、テラスからぼんやりと眺める。

― はぁ、いよいよ来週お受験本番か…。もしチー子だけが落ちちゃったら、どうなるんだろう。

吐き気に耐えながら絶望するような気持ちでそんなことを考えていた、その時だった。

たった今まで仲良くしていたマサミちゃんと娘の間で、穏やかでない小競り合いが始まったのだ。




「やだ!これチー子の!」

「でも、これマサミのだいじなんだよ。チー子ちゃん、もうちょっとしたら貸してあげるから順番待って?」

「やだ、チー子これ好きなの!チー子にちょうだい!」

二人が取り合っているのは、庭の片隅に飾ってある小人の飾りだった。

よほどその飾りが気に入ったのか、普段なら言いたいこともはっきりと言えない娘には珍しく、駄々をこねているようだ。

普段の私だったら、優しく「だめよ」とたしなめるだけで済んだだろう。

けれど、この時。あまりに余裕のなかった私は、瞬間的に沸騰するような怒りに駆られた。

そして──濁流のような怒りに押し流されるようにドスドスと足を踏み鳴らしながら近づくと、娘の手から小人の飾りを奪い取ったのだ。

「いい加減にしなさい!!マサミちゃんの物を、横取りするんじゃないっっっ!!」

初めて母親のあらわになった怒りを目の当たりにした娘は、涙をこらえ、耳たぶをぎゅっとつまんだまま動かなくなってしまった。

しかし、その見開かれた目は私ではなく、私の背後に向けられている。

ゆっくりと振り向いた私は、思わず言葉を失った。

「痛い…」

そう小さくつぶやくマサミちゃんの額から、真っ赤な紅葉が…。

いや、庭に降り積もった紅葉よりも赤い、赤い、血が流れていた。

ハッと我に返った私は、手に持った小人の人形を確かめる。

ワイヤーが一部、飛び出ている。

娘から乱暴に奪い取った時に、私が、マサミちゃんの額を傷つけてしまったのだ。

私は恐ろしさのあまり、ガタガタと体を震わせた。

その理由は、マサミちゃんの、女の子の、お受験直前の子どもの顔を傷つけてしまったという恐ろしさではなく…、まったく別のところにあった。

― これで、ライバルが一人減る?娘に、チャンスが回ってくる…?

時間にしたら、ほんの0.01秒。

けれど、一瞬だけでもそんな考えが頭をよぎってしまったあまりの罪の重さに、恐れ慄いたのだった。



「20年前に主人が病で他界してからは、マサミちゃんたちご家族にどれほど支えていただいたことか…。

特に、マサミちゃんの凛とした強さには、本当に救われることばかりでした。マサミちゃん。本当に、ありがとうね…。私の一生のお願い。マサミちゃん、誰よりも幸せになってね…」

スピーチの最後に差し掛かると、自然と声が震えて、涙が溢れた。

あの時の光景が、目の前にありありと思い浮かぶ。

許して、許して、と何度も謝りながら、マサミちゃんを病院に運んだこと。

マサミちゃんが私を庇って、頑なに怪我の原因を「転んだ」と言い張ってくれたこと。

大きな包帯をした状態でお受験に挑んだマサミちゃんが、本領を発揮できずに、念願の幼稚舎に不合格となったこと…。

娘のチー子も当然、幼稚舎には受からなかった。

けれど、第二希望だった東洋英和に受かったことで、私の罪悪感はより一層深まることになった。

同じ学校に娘を入れられなかったことで主人は多少ショックを受けたのか、私たち家族は、逃げるように1年間の海外駐在をした。

結局その後も、マサミちゃんたちとの家族ぐるみの付き合いは続いた。

だから、小学校受験の6年後。マサミちゃんが青南小からどうにか慶應中等部に合格できたと聞いた時は、どんなに嬉しかったことか…。

芯が強くて、努力家で、目的を絶対に叶える頑張り屋さん。

そんなマサミちゃんの努力がついに実を結んだことが、娘の東洋英和合格よりも、何倍も、何百倍も、何千倍も嬉しかった。

「私、小さい頃からおばちゃまに憧れてたの。だから、TSUDAパールに入りたいな…」

就活時、そんなマサミちゃんのお願いが、どれだけありがたかっただろう。

少しは贖罪になっただろうか。

必要なら、もっと、もっと、贖罪させてほしい。

それが、あの時からの私の願いだ。




本当の家族のように涙を流す私の姿に、会場にいるTSUDAパールの社員たちが、何人かもらい泣きをしている様子が見えた。

だけど、この涙が親心ではなく罪悪感からだということに、気づいている子はいないだろう。

私は決意を新たに、グラスをマサミちゃんに向かって掲げる。

マサミちゃんの額の、消えない傷痕に向かって。

私が奪った、「幼稚舎生のマサミちゃん」という失われた栄光の特権を想って。

「輝かしい未来に…乾杯!」

マサミちゃん。幸せになってね。

お願いだから、お願いだから、お願いだから…。


【スモールワールド相関図】



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美恵子のスピーチに感動した、マサミの同僚。彼女が目にしてしまったもの