― 【ご報告】―

SNSやメールでたびたび見るこの言葉に、心がざわついた経験はないだろうか?

人生において、新たなステージに入った【ご報告】をする人。

受ける側は【ご報告】されることによって、相手との関係性を見直したり、自らの人生や現在地を振り返ることになるだろう。

この文字を目にした人は、誰もが違う明日を迎える。

これは【ご報告】からはじまるストーリー。

▶前回:義母からの執拗な「子どもはまだ?」攻撃。守ってくれない夫にも限界を感じた女はついに…




Vol.4 <ご報告:引っ越しました>


鎌倉・由比ガ浜にほど近い、閑静な住宅街。

奥本ゆかりは、一軒家の自宅テラスで、庭に植栽したばかりのオリーブや月桂樹などの木々を眺めながら、ひとりくつろいでいた。

「…あれ?久しぶりな名前」

スマホの通知に目をやると、画面にはかつて勤務していた総合商社の同僚・深澤皆実の名前が表示されていた。

<ゆかりさん。御引っ越しおめでとう。もしお時間あったら、ご自宅にお伺いさせていただきたいです>

ゆかりは神奈川を中心に飲食店を展開する実業家の夫・幸生と結婚して5年目。この春、横浜のマンションから引っ越し、注文住宅を新築した。

1週間前に、年賀状付き合いの旧友に向けて一斉に送った引っ越しの報告。律儀な皆実は、わざわざ返答を寄越してくれたのだ。

<ありがとう。私は基本的に家でずっと仕事しているから、いつでもOKだよ。娘が幼稚園に行っている間とか、ふたりでゆっくりお茶したいです>

トントン拍子に話は進み、翌週の平日に皆実の来訪が決まった。

ゆかりの仕事は、手製カバンの製作・販売だ。趣味が高じて、結婚を機に本腰を入れ始めた。

今は事業も軌道に乗り、ハンドメイドマーケットやファッションビルの催事に招待されるなど、その界隈では注目の作家となっている。注文が絶えない状態ではあるが、自分のペースを保った気ままな日々だ。

一方の皆実は、昨年末にパートナーと婚約をしたというが、引き続き同じ商社に勤めている。

都会でバリバリ働きキャリアを積んでいる彼女を、ゆかりは心の底から尊敬していた。

― 久々に会えるの、楽しみ。いろいろお話したいな。

だがその期待は、皆実がゆかりの家に一歩足を踏み入れた途端…脆くも崩れたのだった。


静なる争い


「本当に遠かった。すごい場所に住んでいるのね!信じられない」

家に足を踏み入れた皆実が開口一番放った言葉に、ゆかりは唖然とした。

すごい場所──都内の勤務地にほど近い、港区・芝浦のマンションに住んでいる彼女から見れば、遠いと思うのは仕方ない。

だが、「すごい場所」呼ばわりには当然ながら、あまりいい気はしなかった。

「お疲れ様。のんびりしたところで、ビックリしたでしょう」

「本当に。実家が持っている軽井沢の別荘を思い出しちゃった〜」




あっけらかんとした様子は、本心ということなのか。

「軽井沢もいいところよね。ありがとう」

思う所はあったが、ゆかりは気にしていないフリでやり過ごす。

「お子さん、幼稚園だっけ。小学校は受験するの?この辺にいい私立の学校あるの?」

「あるけど、小学校まではのんびり公立でいいと思っているよ。中学からはこの辺りにも有名な学校もあるから」

「慶応とかフェリス?でも、選択肢が少なくて選ぶのも入るのもしんどそうね。私だったらムリだな」

「そうかしら…」

婚約したばかりというのに、早くもそこまで考えなければいけない環境にいる彼女に、ゆかりは逆に同情する。

慌ただしい都会では、それが当たり前なのだろう。

「皆実さんの住んでいる所は、色々大変そうね」

「そう?当然じゃない?」

ゆかりはにこやかに話を合わせているものの、やはり、皆実の言葉のひとつひとつにひっかかりを感じる。

― あれ、なんだろう、このカンジ。

同僚だった頃は、何も考えず会話を楽しめていたはずだったのに。




子どもの話の後は、皆実が西麻布のレストランに行った時の話や、渋谷の東急本店が閉店したことなどに話題が移った。

どこか自慢げに話す彼女。今のゆかりにとってはもう遠い話だが、本人にとっては他愛もない日常会話なのだろう。

そして、右から左に言葉が抜けていくのと同時に、違和感もさらに膨らんでいった。

苛立ちからか思わず、彼女が手土産に持ってきたクッキーを手に皮肉っぽい口調になってしまう。

「このツッカベッカライ カヤヌマのクッキー、もしかしてわざわざ電話で予約して持ってきてくれたの?お手数かけてごめんなさいね」

「あら、ご存じで」

「有名中の有名なお店じゃない。お得意さんからいつもお持たせで頂くの」

皆実は返す言葉がないようで、手元のコーヒーに口を付ける。そして、場を繋げるようにその感想を述べた。

「独特な味わいでおいしいコーヒーね。どこのものなの?」

「夫の店で使っているキリマンジャロを自宅で焙煎して、数日寝かせた上で淹れたの。我が家のオリジナルだけど、どうかな」

「あら、いいわね、時間があってうらやましい」

「ハウスキーパーにお掃除してもらっている分、余裕がちょっとできただけなんだけれどね」

地味に応戦しはじめたものの、言葉を交わすたびに胸がチクっと痛んだ。

だけど、押し殺してイライラを積み重ねるよりは、ずっといい。

穏やかそうに見えて張りつめた空気。

もう彼女とは会うことはないだろう、とゆかりはうっすら感じた。


静かな攻防をしばらく続け、そろそろと時計を眺めた時のこと。

皆実のスマホが鳴動する音が、部屋の中に響いた。

「…もしもし?え、ヨシダ様の資料の在り処?」

皆実は迷わず電話に出ると、ゆかりにペコリと頭を下げながら、リビングルームから出て行った。

彼女は今日、ここへ来るために有給休暇を取ったと聞いている。

会話の内容から察するに、電話は仕事の連絡だろう。

わざと忙しいことをアピールしているのかと、当初は斜めから見ていたが、電話退出から10分以上もリビングに帰ってこない。

アピールではなく、本当のことだと気がついた。

遠くから、「申し訳ありません」という謝罪の言葉も聞こえる。何かトラブルでも発生したのだろうか。

彼女の声をうっすらと聴きながら、ゆかりは切なさをおぼえた。

6年前の自分を見ているようだったから。




仕事に忙殺されていたゆかりは、実績、収入、人脈、多くのものを手に入れたが、満ち足りなかった。

消耗。その二文字を体現する日々。

そんな中、夫と出会い、逃げるように28歳で結婚退社したのだ。

今は、これ以上ない幸せな生活を過ごしていると正直に言える。

だけど都会の真ん中で、トレンドや情報の波に乗りながら第一線で活躍していた過去が、ときおり懐かしいと思うことがあるのもまた事実だった。

― もしかして私、皆実がうらやましいのかな。

正直なところ、もう彼女のような仕事や情報に追われる生活はしたくない。

でも、やはり現場を離脱してしまったコンプレックスなのか、都会への未練なのか、彼女の一挙手一投足に心がざわついてしまっている。

いまだ繋がっている彼女のSNSも、実はミュート状態にしてあるのだ。

別の道を歩む分身のような存在として、「この道を選んだ自分が正しい」と思いたい──彼女に対し、そんな思い込みの鎧で心を守っていることにゆかりは気づいた。

もしかしたら、皆実も自分に対して、そんな感情を持っているかもしれない。だから無意識に対抗してしまっているのか。

かつてゆかりは、彼女から「仕事をやめたい」と相談を受けたことがある。

それなのに、自分の方が先にドロップアウトしてしまったのだが…。

「おまたせ。ごめんね。会社に顔を出さなきゃいけなくなっちゃった」

20分ほどして、彼女はリビングに帰ってきた。

申し訳ない表情の中に、どこか堂々とした使命感が溢れていた。

「お仕事、忙しそうね」

「まぁね。でも、それだけ必要とされていることに感謝しないと」

自分の気持ちに正直に開き直ると、皆実の言葉が、不思議と嫌味や自慢と聞こえない。

「がんばってね。遠くから応援してる」

この言葉は、彼女にどういう印象で聞こえているだろうか。

「自家焙煎のコーヒー、美味しかった。私も時間があればやってみたい」

去り際にニッコリ笑う彼女。ゆかりはその言葉をそのまま受け取った。




皆実の颯爽とした後姿を見送りながら、ゆかりは今の暮らしの幸せをかみしめた。

― 私は、私の幸せを生きていかなきゃ。

もうすぐ子どもの幼稚園のお迎えの時間だ。

ゆかりはリビングで後片付けをしながら、愛しい我が娘と夫の顔を思い浮かべて、やわらかに微笑むのだった。

▶前回:義母からの執拗な「子どもはまだ?」攻撃。守ってくれない夫にも限界を感じた女はついに…

▶1話目はこちら:同期入社の男女が過ごした一度きりの熱い夜。いまだ友人同士ふたりが数年後に再び……

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