「私、小学校から大学までずっと同じ学校なの」

周囲からうらやまれることの多い、名門一貫校出身者。

彼らは、大人になり子どもを持つと、必ずこんな声をかけられる。

「お子さんも、同じ学校に入れるんでしょう?」「合格間違いなしでいいね」

しかし今、小学校受験は様変わりしている。縁故も、古いしきたりも、もう通用しない。

これは、令和のお受験に挑む二世受験生親子の物語。

親の七光りは、吉か凶か―?




Vol.1 小学校受験か。考えてもみなかったけど…


オフィスにいる果奈は、自分がリーダーを務める広報チームの定例会を終えると、時計に目をやる。

― 17時か。あと1時間は仕事に集中できるわ。

今日は金曜日。

金曜は、夫の光弘(みつひろ)が一人息子・翼の保育園送迎をすることになっている。この日だけは夕飯までに帰宅すれば良い。

果奈は、今年で35歳。

産休・育休を挟んでの現在のポジションは、勤める大手電機メーカーの中では出世頭と言えるだろう。

― 今が、私のキャリアにとって、一番大事な時期だもの。もうひと頑張りしなくちゃ!

そう思った矢先に、スマホが震える。

光弘からの不吉なLINEのポップアップが見えた。

果奈は恐るおそるメッセージをタップしメッセージを確認する。

『光弘:仕事が長引いてお迎え行けない!お義母さんに頼めるかな?』

今日に限って、仕事が終わらないという。

ベビーシッターもファミリーサポートもマッチングできなかったので、吉祥寺に住む果奈の母にお迎えを頼めないかというのだ。

― こんな時間に言われても、遅すぎるわよ!

数店舗の美容院を経営する5歳上の光弘は、愛車のレンジローバーで通勤している。

公共交通機関だと車より移動に時間がかかるのに、どうしてもっと早く連絡をくれないのかと、果奈は不満を覚えた。

翼のお迎えは、18時。

― もう時間がないし、こんなギリギリにお願いされても、私のお母さんも困るよ。

果奈は、『お先に失礼します!』とバッグを慌ててつかんで、オフィスを飛び出した。

金曜日の夕方、幸いなことに勤め先の丸の内本社ビル入口前には、たくさんのタクシーが順番待ちをしていた。

「すみません!祐天寺方面までお願いします!」

行先を告げると、急いでタクシーに乗り込む。

道は比較的空いているので、翼のお迎えにも間に合いそうだ。

夫に怒りのLINEを返した後、後部座席に身を沈めてInstagramを開く。中学時代からの友人のストーリーズが更新されていた。


『引っ越しました!』

白い壁の戸建てをバックにした家族写真。

2台の外車が停まっているところを見ると、夫婦それぞれが1台ずつ車を所有しているのだろう。

― どこに引っ越したんだろう。

彼女の職場は渋谷、実家は確か中野だったはずだ。

果奈の自宅は目黒区東山。もし近所なら、ぜひ遊びに行きたいと果奈は思った。

『久しぶり、いい写真ね!どこに引っ越したの?』

果奈が思わずDMを送ると、すぐに返信が来た。

『果奈、久しぶり!横浜市青葉区よ』

― 青葉区…?余計なお世話かもしれないけど、なんで通勤するにも実家に行くにも不便な場所を選んだんだろう…?

『青葉区か!ホントに素敵なおうち。お引っ越しおめでとう!』

果奈が返信すると、しばらくして、長文のメッセージが届いた。

彼女からの返信を、スクロールしながら読み解くと、つまりは子どものお受験に失敗してしまったのがきっかけで、引っ越ししたということだった。




彼女は幼稚園、小学校と宝仙学園に通ったので、娘も同じように宝仙学園に通わせたく、受験させたらしい。

自分は卒業生なのだから楽勝だろうとタカをくくっていたが、満3歳、年少とまさかの2年連続不合格。

『仕事もお受験のためにやめたのに、もう東京で頑張る気力もなくなっちゃって、思い切って家を買ったの。

青葉台なら、横浜、川崎方面の私立校へのアクセスも良いし、引っ越したらまた頑張れそうな気がしてきた!』

友人からのメッセージはこう締めくくられていた。

『果奈も、お子さんそろそろ幼稚園だよね。もちろん小学校受験するんでしょ。がんばってね!』

― 小学校受験か。考えてもみなかったわ。

果奈は、自分の記憶をたどった。

果奈が通っていたのは、JR中央線の駅からバスで数分のところにある私立の一貫校。

2人の兄と同じ学校で、小学校から大学まで過ごした。

きれいに整備された広大なキャンパスでの、のびのびとした学校生活。

― 翼も同じ学校生活を送れたら…すごく素敵じゃない?




果奈は続けて、小学校受験のときの記憶をたどる。

当時は、幼稚園を早退し、母と一緒に幼児教室に通っていた。

― 翼は朝から晩まで保育園だし、私は働いているし、お受験なんてうちには無理か。でも…。

『息子を自分と同じ学校に通わせる』という思いつきを、果奈はどうしても捨て去ることができなかった。

ふと気がつくと、時刻は17時55分。

外を見ると、翼の保育園まであと数百メートルというところで、タクシーは渋滞に巻き込まれていた。

「すみません、ここで降ります!」

急いでスマホで支払いを済ませると、果奈は残り数百メートルを全速力で走りだした。

「東出翼の母です。お迎えに来ました!」

時間ぴったりに保育園に着き、汗だくで担当の保育士に向かって叫ぶ。

その声で果奈に気づいた翼は、遊んでいたおもちゃを持ったまま笑顔で走ってきた。

「ママみてー!トーマスと、しーぱー!」

「機関車トーマスとパーシーで遊んでたのね…」

全力疾走で体力を使い果たした果奈は、翼の柔らかい髪をなでると、園児用着替えスペースでがっくりと膝をついた。


光弘は今朝、車で翼を保育園に送ってくれた。だから、果奈の電動自転車は自宅に置いたままだ。

翼と2人、家までの遠い道のりを歩いて帰ることを考えると、果奈はうんざりした。

自宅に帰れば、朝セットした電気圧力鍋が肉と野菜を煮込んでくれているはずだ。

後は味を調えればシチューが完成するのだが、今日はその気力も残されていない。

「今日はタクシーで帰ろう。途中でお弁当買って帰ろうか」

保育園を出た果奈は、再びタクシーを拾うと、近くのオーガニックスーパーに向かった。



21時過ぎ、翼を寝かしつけたあとになって、ようやく光弘が帰宅した。

「あのさあ、お迎え間に合わないんなら、せめてお昼前までに言ってよ」

リビングで、終わらなかった仕事を片付けていた果奈は、思わず声を荒らげる。

光弘は、ただいまも言わずに言葉を返した。

「延長保育料払えば19時まで預かってもらえるんだろ?」

「今日は延長保育の枠がなかったのよ。もう少し想像力を働かせてよ」

「ああ、そう。大体、なんで家と保育園がこんなに遠いんだよ。朝渋滞に巻き込まれたじゃないか」

保育園申し込みの時、自営業の夫は『シフト調整可』とみなされ、近所の認可保育園に落ちた。祐天寺にある認可外のモンテッソーリ園に入れたのは、たまたま入園辞退者が出たからだ。

何度説明すれば覚えるのだろうかと、果奈はあきれる。

「何回も言ったよね?もう一度説明したほうが良い?」

そうでしたねー、と返事をしてバスルームに向かう夫を見て、果奈は怒りのあまりぐっとこぶしを握りしめた。




しばらくすると、光弘が気まずそうに、小皿を片手にリビングへ戻ってきた。

「電気圧力鍋で作ってたシチュー、味調えたからちょっと食べてみて」

「…すごくおいしい」

果奈が答えると、光弘は安心したようにうなずいて、再びキッチンへと消えた。

果奈がキッチンへ向かうと、光弘はシチューを小分けにして冷凍する準備をしながら言った。

「さっきはごめん。今日は、お迎え行ってくれてありがとう」

「わかってくれたら良いのよ。…ワイン飲む?」

果奈はワインセラーから白ワインを取り出すと、光弘を誘ってリビングのソファに座った。

「ねえ、翼のことで相談なんだけど…うちも小学校受験してみない?」

果奈は昼間の思いつきを光弘に話した。

「小学校受験?翼が小学校になる前に、ここを売って、文京区の3S1Kの学区にもっと広いマンション買いたいって言ってたじゃない」

光弘は、翼が生まれる前に夫婦共同名義で買った、65平米のマンションのリビングを見渡しながら言った。

誠之小学校(S)、千駄木小学校(S)、昭和小学校(S)、窪町小学校(K)。

文京区にある名門公立小学校4校のイニシャルをとって、通称「3S1K」だ。

「そうなんだけど、私が卒業した学校に、翼も通えたら素敵だなってちょっと思ったのよ」

果奈はそう言いながら、タブレットで母校のWebサイトを開いた。




「さっき、子どもを初等部に通わせている友達に聞いたんだけど、今はお母さんが働いていても、お受験するご家庭がたくさんあるんだって…ってなにこれ!?」

母校のウェブサイトの『学校生活』の箇所をタップすると、果奈は思わず叫んだ。

『夏は受験の天王山!算数合宿を制して合格を勝ち取ろう!』

果奈の学校は、ほとんどの生徒が内部進学で大学まで進むはずだ。

しかし、これはどう見ても中学受験を視野に入れた夏休み特訓ではないか。

「あれ、なんか私が通ってた頃と雰囲気が違う…」

果奈がしどろもどろになると、光弘が笑いながら言った。

「果奈から聞いてたのと違って、すごい勉強激しめじゃん。いいかもな。翼も社会の厳しさを早めに知ったほうが良いからな」

果奈が小学校を卒業してから二十数年の時が経つ。その間に母校は中学での外部受験を見据えた進学校へと変貌を遂げていた。

「ええ!?ああ、どうしよう」

思わぬ形で夫の賛成は得られたが、のびのびした学生生活を夢見て翼のお受験を考え始めた果奈は、ただただ困惑していた。

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