夜が明けたばかりの、港区六本木。

ほんの少し前までの喧騒とは打って変わり、静寂が街を包み込むこの時間。

愛犬の散歩をする主婦や、ランニングに勤しむサラリーマン。さらには、昨晩何かがあったのであろう男女が気だるく歩いている。

そしてここは、六本木駅から少し離れた場所にあるカフェ。

AM9時。この店では、港区で生きる人々の“裏側の姿”があらわになる…。




Vol.1:由里子(30)「夫が突然、朝ご飯はいらないと言ってきて…」


「なあ、由里子。明日からしばらくは早めに出るから、朝食はいいや」

「えっ、なに?忙しいの?」

東南向きのベランダに日の光が差し込む、朝9時。夫の将也はいつもこの時間にのそりと起きてきて、経済新聞を片手に朝食を食べるのが日課だ。

夫の起きる時間に合わせてコーヒーをいれ、厳選したオーガニックサラダを出すも、将也がそれに全く興味を示さないことにももう慣れていた。

なのに、今日はその“いつもの朝”と少し様子が違ったのだ。

「んん、まぁ。というより今度担当する新規案件の市場リサーチを、仕事前にしておきたくてね」

敏腕の経営コンサルタントとして、業界内では少しずつ名が知れ始めている将也は、24時間のほとんどが仕事に侵されている。

なるほど、そういうことなら…。と納得した私は、夫を快く送り出した。それに朝寝坊できるのは、自分にとってもありがたいことだから。

それもあって玄関でトントンと靴のつま先を鳴らす将也の後ろ姿が、どことなく浮かれ気分であることすら特段気にも留めなかった。



こうして朝食を作らない生活が始まって、2週間。最初の2、3日は朝寝坊を堪能していたけど、最近はそれにも飽きてきた。

― あ、そうだ。気になっていたカフェのパン、食べに行こうかな。

家の近所にある、カフェ。自家製クロワッサンが美味しいと有名な店だが、近くにあるからいつでも行けると思い、一度も足を運んだことはなかったのだ。

白シャツにスキニーパンツ、上からマックスマーラのコートをサッと羽織ると、ミッドタウン方面へと向かう。

…しかし、入り口のドアに手をかけようとした瞬間。

ある光景が目に入り、私はその場から動けなくなってしまった。


― 将也が、知らない女と一緒にいる…。

窓際の席で、見知らぬ女と向かい合わせに座っている男。それはどう見ても将也だった。

向かい側の席に座る女の顔は見えないが、黒髪を1つに結んでいてなんだか地味そうに見える。

― これは、浮気?それとも単に同僚と朝食をとっているだけ?

カフェの中に入る勇気もなければ、爽やかな早朝から修羅場を持ちかける胆力もなかった私は、そのままドアを開けずに自宅へと引き返したのだった。





その夜。帰宅した将也に、私はこう問い詰めた。

「最近、家を出るのが早いのは仕事だって言ってたけど…。まさか女の人と会ってるとは思わなかったわ。あんな朝早い時間に、わざわざ私が作った朝食を抜いてまであの人と会う理由は何!?」

冷静に話し合うつもりだったのに…。夫の顔を見ると責めずにはいられなくなった。

「いや、ごめん。違うんだ!嘘をついたのは悪かったけど、浮気じゃない」

「じゃあ何?」

「真奈に、相談してたんだ。その…。由里子との夜のことを」

どうやらカフェにいた女は、将也の学生時代の同級生らしい。今は心理カウンセラーをしているそうで、数週間前に偶然再会した際、ついレスであることを吐露してしまったそうだ。

「そろそろ子ども、ほしいなと思ってたから。だけど、なんていうか俺自身がそんな気分になれなくて。…ごめん、由里子のことは大事に思ってるんだけど」

まるで頭を殴られたかのような衝撃だった。




家事だってそつなくこなすし、何年一緒に住んだってスッピンさえ晒さないように気をつけてきた。少々気の強いところはあるけれど、ほかの魅力を考えればそんなもの取るに足らない欠点だと思う。

…それなのに。何かにつけて私を拒む将也が、いつも許せなかった。

そのうえ、夫婦の事情をほかの女に話すなんて。

― しかもあんな、地味そうな女に!!

「そう。…今日はこれ以上、話したくない。もう寝る!」

叫び出しそうになる気持ちをこらえて、寝室にこもる。そして夫が寝静まった頃を見計らって、こっそり将也の携帯を盗み見た。

パスワードも初期設定の頃から変えていないようだ。あっさり解除ができたところを見ると、彼女と浮気はしていないのかもしれない。

ただLINEのトーク履歴をさかのぼると、やはり毎朝あのカフェで会っていることがわかった。

『遅くにごめん、明日は少し早めに会えない?8時集合で』

そこで将也を装って、待ち合わせ時間を早めるLINEを送りつける。するとこんな時間まで起きているのか、彼女はすぐに返信してきた。

『いいよ!寝坊しないでね(笑)おやすみ!』

明日になれば、勝手にLINEを送ったことはバレるだろうが、もうどうでもいい。私は直接、彼女と対決することに決めたのだった。


「おはようございます」

「えっ!?…おはよう、ございます」

待ち合わせに突如訪れた私を見て、戸惑いながらも状況を察した彼女は、気まずそうに挨拶をしてきた。化粧っ気のない彼女は見た目こそ地味だが、端正な顔立ちをしている。

「将也の妻の、由里子です。最近、夫があなたにお世話になっているそうで」

挨拶をしつつ、スモークサーモンのオムレツとコーヒーを注文する。まさかこんな形で、気になっていたお店のモーニングにありつくとは…。

だけど余裕ある姿で、この場に臨みたかったのだ。

「誤解を招くような行動をとってしまった私にも責任があるのですが、本当に将也さんとの間には何もありません。…それどころか、将也さんは奥様のことを心から愛しています」

「だからって夫婦間の問題を、あなたに相談するのは…」

「いい気はしませんよね。でも、ほかに相談できる人がいなかったって。将也さんが由里子さんを抱けなくなってしまったのは、恐らく由里子さんへの劣等感によるところが大きいかもしれません」

妻としての矜持を見せつけるつもりが、逆に彼女から指摘をされて言葉に詰まってしまう。同時に、思いもよらなかった意見に戸惑った。

「…劣等感?どういうことかしら」

「実際にお会いして確信しましたけど、由里子さんはしっかりされてますよね。容姿はもちろん、生き方が自信に満ち溢れている感じ。だからかな、その完璧さにずっと気負いしているみたいです。

ガッカリされないようにしなくちゃ、って肩肘張ってしまうというか。すると、夜の生活も義務的なものに感じると言っていました」




正直、ギクッとした。

将也に恥じない妻になりたい。そう思って、若々しさを保つために美容に力を入れてみたり、手料理を頑張ってみたりしてきたこと。

そんな努力がいき過ぎて、夫にキツく当たることもあった。

ちゃんとしなくてはいけない。その気持ちが、目には見えない緊張状態を作っていたのだと。

癪だけど、彼女から伝えられたことには身に覚えがあったのだ。

彼女が将也をどう思っているのか、本当のところはわからない。だけど彼女は純粋に、私たちがいい方向へ進むような解決策を模索してくれたのだった。





帰宅すると出社時間をとうに過ぎているにもかかわらず、将也が自宅で待ち構えていた。

私が勝手にスマホを盗み見たこと。そして内緒で、彼女に会っていたこと。そのすべてを夫は責めることなく、むしろ謝ってきた。

「ごめん。本当に話さなくちゃいけない相手は由里子だってわかってた。でも、向き合うのが怖くて他人に相談したんだ」

「そうね、最初に話してほしかったわ。…でも、私も気軽に弱音を吐けないような雰囲気を作ってたよね」

そのままソファに腰かけている将也に近づき、正面からギュッと彼のことを抱きしめてみた。

「…私ね、本当は不健康なジャンクフードも大好きだし、できることならスッピンで1日ダラダラ過ごしたい」

「えっ!?何、急に」

「だからね、お互い頑張り過ぎずに楽しく暮らそう。将也が多少カッコ悪くても、全然いい。本当は、将也の笑顔が見られればなんでもいいんだ」

それから私たちは、2人の関係をより良いものにするために3つのルールを作った。

それは、毎日の一緒に朝ごはんを食べること。その時間は2人の会話を大事にすること。

そして悩みがあったら、包み隠さず正直に話すこと。

レスを解消するとかじゃなくて、まずはそこから。もう一度やり直してみようと思ったのだ。

リビングに、春を知らせる暖かい日の光が差し込んでくる。これから毎日どんな朝を過ごそうかと考えて、私はワクワクするのだった。

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