友人の結婚式で受付を頼まれて、招待客リストに驚愕!ある人物の名前が…
東京のアッパー層。
その中でも、名家や政財界などの上流階級の世界は、驚くほど小さく閉じている。
例えば、ついうっかり“友人の結婚式”なんかに参加すると「元恋人」や「過ちを犯した相手」があちこちに坐っていて冷や汗をかくことになる。
まるで、いわく付きのパールのネックレスのように、連なる人間関係。
ここは、誰しもが繋がっている「東京の上流階級」という小さな世界。
そんな逃れられない因果な縁を生きる人々の、数珠繋ぎのストーリー。
Vol.1 A.M.10:30 挙式
新郎友人・野尻優斗(医師・35歳)
― うー、体が重い…。
昨日の緊急手術は思いのほか長引き、帰宅できたのは朝方の4時を回っていた。
自宅に戻り、シャワーを浴びて1時間ほど仮眠したあと、僕は、朝から慶應の医学部時代の友人の結婚式へと来ている。
疲れが抜けないのも仕方がない。
小児外科医としての仕事はやりがいのあるものだけれど、人並みに休みも取れないこの生活に全く嫌気がささないと言ったら、嘘になるだろう。
僕は、くさくさした気持ちが表に出てしまわないよう、日頃診察室で小さな子どもたちを相手にしているのと同じ笑顔を顔に張り付ける。
…本当は、わかっている。
体が重く、気分が優れないのは、ここが結婚式会場だからだ。
婚約を破棄されたばかりの僕に、今、他人の結婚を祝う心の余裕はない。
― ほの香。どうして…。
3ヶ月前に自分を捨てた婚約者の名前を、未練がましく心の中でつぶやく。
3ヶ月前に自分を捨てて───先月、違う男と結婚したという、元婚約者の名前を。
気を抜くとすぐにこうして、憎しみとも悲しみともつかない気持ちが溢れ出してくる。
ほの香の裏切りを知ってからというもの、僕は終始この調子だ。
ほの香の結婚式ではないものの、こんな気持ちで、人様の結婚を祝えるわけない。
結婚というものに何の希望も抱けなくなった今、この場にいることはある種の拷問のようだった。
張り付けた笑顔も、長くは持ちそうにない。
そう思ったその時、荘厳なオルガンの音がチャペルに鳴り響いた。
後方にそびえる重たい観音開きの扉が、うやうやしく開かれる。
美しい花嫁と、ぎこちない新婦父の姿が現れる…とあくびまぎれに思っていた僕は、次の瞬間、思わず目を見開いた。
― そんな、まさか…!?
チャペルの重たい扉が開かれると、そこに立っていたのは新婦でも新郎でもなく、小さなフラワーガールだった。
タンポポの綿毛みたいなふわふわのドレスを身にまとった、可憐な少女。年齢は、6、7歳といったところだろうか。
小さな体を子ウサギのように弾ませて、色とりどりの花びらを撒き、バージンロードを切り開いていく。
思いがけない可愛らしい主役の登場に式場じゅうが微笑ましく沸く中、僕だけが全く種類の違う驚きを感じていた。
「チー子…?」
思わず言葉が口をついて出た後、僕は、慌てて小さく首を振る。
チー子、なわけがない。彼女は僕と同い年。今は35歳になっているはずだ。
けれど今、僕の目の前を誇らしげに歩くフラワーガールは、どこからどう見てもあの頃のチー子にしか見えない。
僕は、フラワーガールの後をしずしずと歩く新婦の姿そっちのけで、当時のチー子のことを思い返した。
◆
28年前。
商社マンだった親父の駐在で、僕は小学校時代をシンガポールの日本人学校で過ごしていた。
そこでクラスメイトだったのが、チー子だ。
たしかチー子も、宝飾店かなにかを営む両親の海外進出でシンガポールに来ていたのだったと思う。今となっては、チー子の本名すら思い出せない。
だけどとにかく、僕はチー子が好きだった。
わたあめみたいに柔らかな栗色の髪、砂糖菓子みたいに白い指先、まばたきの度にそよ風でも起こしそうに長いまつ毛…。
その全てが胸にくすぐったくて、僕は、いつだって教室ではチー子を見ていた。
当時はそんな自覚はなかったけれど、思えばあれは、僕の初恋だったんだと思う。
だけど、小学生男子の愛情表現なんて、バカで粗野以外の何ものでもない。
「チー子のまつ毛、ラクダみたいだな!お前、ほんとはラクダなんじゃねーの?ラクダ女!」
チー子の関心を引きたいけれどやり方がわからなかった僕は、そんなふうにくだらないセリフで彼女をからかうことしかできなかったのだ。
「ゆうくん、どうしてそんなこと言うのっ」
おとなしくて優しいチー子だったけれど、他の女子みたいに簡単に泣いたりしないところも気に入っていた。
じっと黙り込んだまま、自分の耳たぶをぎゅっとつまむ。
涙を流して泣く代わりに、チー子はどうしてだか、自分の耳たぶを指先でつまむのだ。きっと、悲しさや悔しさを、ああいう形で堪えていたのだと思う。
チー子が日本に帰ってしまうと聞いた僕は、最後の日、いつもよりも酷く彼女をからかった。
その日、つまみすぎて真っ赤になったチー子の耳たぶを見て、さすがに心が痛んだ。
謝ろうと思って放課後に彼女の家に行ったけれど、もう家には誰もいなくて…。
それが、チー子にまつわる最後の思い出だった。
◆
20数年ぶりに思い出したチー子のことだったけれど、とにかく、その思い出の中の当時のチー子そのままの少女が、たった今、目の前バージンロードを横切っていったのだ。
気がつけば式はすっかり進行していて、新郎新婦が互いに見つめ合いながら永遠の愛を誓いあっている。
フラワーガールの姿は、どこに消えたのか。背丈の低い少女の姿を見つけられないまま、式は終わろうとしていた。
僕は、心ここにあらずで、新郎新婦の姿を拍手で見送る。
― ほの香のことがショックすぎて、ついに幻覚まで見え始めたか?
あまりに傷ついた心を修復するために、自らの防衛本能が初恋の幻を見せたのかもしれない。
自虐的に笑いながら、そう自分を無理矢理に納得させる。
けれど、式場を後にした僕は、そのあとすぐに真実を知ることになるのだった。
披露宴の受付
式場を出た僕は、誰よりも早く披露宴会場へと向かった。
相変わらず重たい体と混乱する頭を引きずって、芳名帳の前に立つ。新郎からの希望で、披露宴の受付を頼まれているのだ。
あまりに招待客が多いため、新郎側・新婦側を気にせずとにかく受付に立ってほしいというリクエスト。新婦は相当な名家だと聞いていたけれど、その噂はどうやら事実のようだ。
“皇帝”の名を冠した由緒正しいホテルで、一番大きな披露宴会場。
結局、担当することになった目の前の新婦側の芳名帳には、政財界や医学会の大物の名前が次々と書き込まれていく。
「この度はおめでとうございます」
「ありがとうございます」
祝福の言葉を、代理として受け続ける。
思ったよりも痛みが軽いのは、もしかしたら、チー子の幻を見たせいなのだろうか?
― しかし思い返してみると、僕って、チー子に本当に酷いことしてたよな。
女の子を酷い目に遭わせていた自分が、女性から酷い目に遭わされるのは当然のことなのかもしれない。
因果応報。
ぼんやりとそんなことを考えていると、ふと、透き通った声が聞こえた。
「あの…書いてもいいですか?」
「あっ、はい」
慌てて現実に戻ってくると、伏し目にしていた僕の目に飛び込んできたのは、あの頃のチー子…先ほどのフラワーガールだ。不安げな表情で、母親と思しき女性のドレスの裾を掴んでいる。
僕は、ゆっくりと視線を上げて、その女性をさりげなく観察する。
女性の胸元に飾られた、淡い光を放ちながら連なるパールのネックレス。
まるで、ラクダみたいに長いまつ毛。
砂糖細工のように白く繊細な指先。
その指先が芳名帳に書き込んだ名前を見て、僕は思わず息をのんだ。
『高山千紗子』。
ちさこ。
…チー子だ。
間違いない。チー子だ。まさか、こんな所で繋がるなんて。
すっかり成長した35歳のチー子は、あの頃と変わらない長いまつ毛に縁取られた瞳を細めながら、ご祝儀袋を僕に向かって差し出した。
「この度はおめでとうございます」
どうやら、僕が「ゆうくん」であることには気がついていないらしい。ご祝儀袋に手をかけたまま動けないでいる僕を、不思議そうに見つめている。
「あっ、ありがとうございます。えーと、こちらが席次表でございます」
席次表を手渡すと、チー子はもう一度微笑みを浮かべた。
その途端、僕の胸には、さまざまな感情が溢れ出してくるのだった。
元気?
僕のこと、覚えてる?
あれからどうしてたの?
幸せにしてるの?
かけたい言葉が一気に押し寄せて、頭の中が渋滞している。
けれどその中でも、一番チー子に言いたいのは、この一言だった。
「あの…」
― あの頃は、本当にごめん。
あの時言えなかった「ごめん」の一言を伝えることで、くだらないかもしれないけれど…。
今の地獄みたいな状況が、因果が、断ち切れるような気がしたのだ。
「あの、僕…」
けれど、その時だった。
「おーい、千紗子。ひなこ」
背後から、人の良さそうな男性がチー子に駆け寄ってくる。その男性に、「ひなこ」と呼ばれたチー子そっくりの女の子が飛びついて、言った。
「パパァっ」
「千紗子、どうかした?大丈夫?」
飛びついてきた娘を足元にじゃれつかせながら、男性が心配そうにチー子に尋ねる。
「ううん、大丈夫よ。パパ、ひなちゃん、お席に行こうか。じゃあ…失礼いたします」
そう言うとチー子は、家族3人手を取り合ってあっけなく僕の前から立ち去ってしまった。
遠ざかっていくチー子たち家族の後ろ姿を、なすすべもなく見送る。
そんな僕の胸の中に湧き起こってきたのは、憎しみでも悲しみでも、後悔でもない、憧憬のような気持ちだった。
絵に描いたような、幸福な家族。美しく微笑む、チー子の姿。
― 結婚って、やっぱりいいものなのかもしれないな。
シンプルにそう思えたのは、いつぶりだろう。けれど、初恋の女の子の幸福を目にした僕は、久しぶりにそう感じられたのだ。
ほの香とチー子は、全く関係ない。僕が今さらチー子に謝ったところで、何が変わるわけでもない。
けれど、人の幸福まで憎らしく感じられるようになったら、本当に終わりだ。
チー子たちの姿には、なぜだか不思議と素直にそう思わせる力があったのだ。
体が軽い。
後ろ姿は、ぐんぐんと遠ざかっていく。最後にもう一度だけ、チー子の長いまつ毛が見たかった。
披露宴会場に入ろうとするチー子の横顔を、受付から必死で目で追う。
母親になったチー子の美しいまつ毛が幸福そうに瞬いたのが、遠くからでもどうにか見ることができた。
その耳たぶが、さっきまで力一杯つままれていたように真っ赤になっていることには…。
気づくことが、できなかったけれど。
【スモールワールド相関図】
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新郎新婦入場:幸福な母親に見えるチー子こと、千紗子。彼女の隠した悲しみとは