春になると、日本を彩る桜の花。

大都会・東京も例外ではない。

だが寒い冬を乗り越えて咲き誇ると、桜はあっという間に散ってしまう。

そんな美しく儚い桜のもとで、様々な恋が実ったり、また散ったりもする。

あなたには、桜の季節になると思い出す出会いや別れがありますか?

これは桜の下で繰り広げられる、小さな恋の物語。




多部沙織(29)「春は、まだまだこれからだから」


22時すぎの、アークヒルズの下。

沙織は、今にも咲きそうな桜の蕾を見つめ、涙をぬぐった。



―4日前―

17時半。

いつものように定時できっちり仕事を終えた沙織は、パタンとPCを閉じる。

そしてデスクチェアの背にかけていた春物の薄手のコートを手にとり、「お先に失礼します」と六本木のオフィスをあとにした。

『沙織:今仕事終わったよ。今日は何食べたい?』

新卒で入った大手メーカーに勤務して、7年目。

ずっと仕事を第一優先で生きてきた沙織が、定時帰宅を徹底して守るように変わったのは、今からちょうど1年前のことだ。

きっかけは、6歳上の不動産経営者・大聖と付き合い始めたこと。

大聖とは、食事会で出会った。そして「一目惚れした」と言われてすぐに交際に発展し、もうすぐで1年になる。

付き合ってすぐの頃から沙織は、週に何度も大聖の部屋に通うようになった。

大聖はいつも多忙で、深夜の打ち合わせや会食が多い。しかし週に数日は自宅で夕食をとるので、その日に沙織は毎度呼ばれるのだ。

最高の料理を用意して待っていたい──沙織はその一心で、大聖と会う日は定時帰りを徹底。

仕事が忙しい時期は、出社を早めてまで、退社時間を守ることにしていた。

『大聖:なんか、さっぱりしたものがいいなー』

大聖から来た夕食のリクエストを胸に、いつものように成城石井で買い出しをする。

そしてアークヒルズのタワーマンションに1人であがり、大聖の帰宅を待ちながら料理を始めた。

今日のメニューは、鶏肉とネギの味噌炒め、さわらの塩焼き、ナスの煮浸し、お吸い物。

広々としたキッチンで、沙織は手際よく調理を進める。

「そうだ。だし巻き卵もつけよう」

大聖の好物である、だし巻き卵を焼いていたとき…。

LINEの通知が鳴った。


『大聖:今日むりになったわ。お客さんと飲みにいく』

― またこのパターンか。

『沙織:了解。いってらっしゃい!』

気丈に返事を打ちながらも、ため息をもらした。

付き合いはじめた頃は、こんなふうではなかったと沙織は思う。

急な予定変更で帰りが遅くなったり、今日のように手料理が不要になったりすることは確かにあった。

しかし、前の大聖なら「ごめん」の3文字は欠かさずに送ってくれたし、丁寧に電話でフォローもしてくれていたはずだ。

― 一体、いつから…。

たった1年の間に、大聖からの扱いが雑になっていることを認めざるを得ない。

しかし沙織は、こう解釈するようにしていた。

対応が雑になったのは、大聖が自分に気を許した証拠だ、と。

― 1年も一緒にいたら、家族みたいになるもん。別にそれは、悪いことじゃないよね。

「いただきます」

広い部屋に、沙織だけの声が響いた。



翌日のランチタイム。

沙織は、デスクで昨晩と全く同じ料理を食べていた。

ドタキャンされた翌日は大聖の分の料理を、翌日のランチとして持参するのが恒例なのだ。

「ごめん、多部さん。ちょといい?」

そのとき突然、上司から声をかけられた。

「お昼休みに悪いんだけど…食べ終えたら、声かけてくれませんか?」

「は、はい」

掻き込むようにランチを終えて上司に声をかけると、会議室へと連れていかれる。




「多部さんに、話があるんだけど」

上司は、眼鏡の奥で柔和に微笑む。

「なんでしょう?」

沙織は、背筋を伸ばした。

「多部さんって、入社してからずっと『グローバルな仕事がしたい』って言ってたよね?

ちょうど今ね、会社の方針で、入社10年目くらいの社員数名をシンガポールに赴任させようって話があるんだ」

確かに沙織は「いつかは海外を舞台に働きたい」と、上司に幾度となく伝えてきた。

「多部さんは優秀だし、シンガポールでもっと経験を積んでもらえればと思うんだけど…どうかな」

上司は、穏やかな口調で付け加える。

「でも多部さん、最近は忙しいのかな?事情もあるだろうから断ってくれても構わないけど…検討してみて」

定時退社を厳守するようになった沙織を、上司も不思議に思っていたに違いない。

上司は「1週間くらい考えてみてください」と言って、会議室を去っていく。




― どうしよう…。

デスクに戻った沙織は、思い悩んだ。

念願だった、海外赴任のチャンス。

ありがたいことに、上司が背中を押してくれている。本来なら喜んで受けるべきだろう。

迷っているのは、大聖がいるからだ。

― 私が海外に行ったら…大聖はさみしがるよね?

そしてなにより、この年齢で海外赴任などしたら、婚期を逃しかねない。それが本音だった。

今の大聖からの扱いに、不満がないとは言い難い。

それでも、仕事ができて、身に余るような贅沢をさせてくれる彼は、どこまでも魅力的だった。

― 私、大聖と結婚したいと思ってる…。

そう強く思うけれど、この1年、2人の間で結婚というワードが話に出たことはない。

だからこそ、沙織は決意する。

東京に残ろう。そして大聖に、「大聖との未来のために東京に残ると決めた」と話そう。

― そしたら大聖だって、真剣に将来の話をしてくれるよね?


2日後。

今日はドタキャンせずに帰宅してくれた大聖と、食卓で向かい合う。

ビールで乾杯してしばらく経ってから、沙織はさっそく切り出した。

「あのね。一昨日、シンガポールに赴任しないかって、打診されたの」

「へえ」

大聖はそう言って、だし巻き卵をつついている。

― なんだか、全然興味なさそう。

不満に思いながらも沙織が、「でも大聖とのこれからを優先したいから、断るつもり」と言いかけた、そのとき。

大聖は、テレビをじっと見たまま言った。

「シンガポールの外食って、最近すごくレベル上がってるらしいよ。よかったじゃん」

― よかったじゃん?

沙織は、箸を持ったまま固まる。

「でも断ったんでしょう?」とか「俺と一緒にいてほしい」とか、そういう言葉を期待していたのだ。

「あの街は過ごしやすいよ。いい赴任先じゃん」

そう言うと大聖は、ようやく目を合わせてくれる。

「…で、でも、行くってなったら私、いつ帰ってくるかもわからないよ?さみしくない?私が海外に行っちゃったら」

― 遠距離恋愛なんて、私たちにできる?それとも…別れてもいいと思ってる?

心の中にあふれる疑問は、次の大聖の一言ですべて解決された。

「まあ、帰ってきて、お互いにタイミングがよかったら、また付き合おうよ」

大聖は軽く笑って言った。

そして更には、「じゃあ、この美味しい卵焼きともお別れか」と冗談めかしたのだった。

沙織は、全然笑えない。

「もういいよ」

立ち上がり、バッグを抱える。

「なに急に」と、大聖は驚いた表情だ。




パンプスを鳴らして部屋を飛び出し、マンションのエレベーターに乗り込む。

大聖は、追いかけてこない。

夜風にあたりながらアークヒルズの坂道を下っていると、悲しみが一気に押し寄せてきた。

― 私だけだったんだ。

歯をくいしばる。

沙織は思った。

― 結婚したいとか、ずっと一緒にいたいとか、思ってくれてなかったんだな。

自分だけが、人生設計に彼を入れていたわけだ。大聖にとって自分は、単なる便利な女にすぎなかったのだ。

なんだか力が抜けて、道沿いにあった木製のベンチに腰掛ける。

煌々と光るタワーマンションを見上げると、大聖と過ごした、たくさんの楽しかった思い出が蘇った。

涙が止まらない。実らなかった思いが、たくさんありすぎる。




22時すぎの、アークヒルズの下。 沙織は、今にも咲きそうな桜の蕾を見つめ、涙をぬぐった。

どれだけ泣いただろうか。

人通りも随分と減って、ようやく涙が引いてきた頃。ようやく、桜の木の枝々をじっくりと見つめることができた。

目を凝らすと、枝にはたくさんの蕾がついている。

若々しい蕾。

ひとつひとつが、ぷっくりと膨らんでいる。

「これから、咲くんだね…」

沙織は濡れたまぶたをハンカチでおさえながら、蕾に見入る。そして、その姿を、今の自分自身に重ねた。

「私だって…」

29歳なんて、まだまだ、これからだ。

ここで折れるのではなく、自分らしく咲かなくては。そう思ったのだ。

― 明日、上司に返事をしよう。シンガポールに行かせてくださいって。

彼を支えるだけの人生は、終わりだ。ここからは、自分が主人公になる。そう決意した沙織は、心のうちにみなぎるものを感じ始めた。

いまにも咲きそうなぷっくりとした蕾が、笑いかけてくれているように思えた。

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