「映画でここまで人間の葛藤を描けるのか!」高2の樋口真嗣を打ちのめし、池袋の街をさまよわせた『未知への飛行』。それを日本に持ち込んだ『シベ超』のマイク水野とは?

『シン・ウルトラマン』が絶賛配信中の樋口真嗣監督。1982年、17歳の頃に見て“爪痕”ともいうべき強烈な烙印をおされた、原点ともいうべきその映画たちについて、熱情を燃やしながら語るシリーズ連載。第2回は冷戦時代の核をめぐる傑作『未知への飛行』。

映画とはテレビの洋画番組で観るものであった

初めての映画との出会いは、映画館かというとそうでもなく、もっぱらテレビの洋画劇場とかでした。 大前提として映画を観る選択肢でビデオがまだ普及する前の時代。 料理で言うところの、チンすりゃなんでもあったまる電子レンジが登場する以前とでも言いましょうか。

このビデオがない時代感がわかってもらえないので、事細かに説明する機会が増えてきても、まるで石器時代について解説するようで、惨めな気持ちになってきます。最近一番の衝撃はレンタルで借りてきたテープを巻き戻す---“巻き“戻す習慣がすでになくなっている---だってメディアがディスクだから! 彼ら彼女たちにとっては生まれたときからずっと。なんということでしょう? さらにこれからは、どうしていちいちディスクをセットしてたの?という質問に答えなければならない時代が来るのです。間違いなく!

©Science Photo Library/amanaimages

すべての関係が目まぐるしく変わっていく…変化、進歩、発展。大好きだった新しいものはどこへいったのか。気がつけば進化という名の奔流から取り残されているのでしょう。

そんなロートルの戯言第2弾でございます。

映画評論家の強烈なパーソナリティ

かつて、高視聴率を稼げる目玉として、テレビ番組の形で映画をオンエアしていた時代がありました。各局ともゴールデンタイムに、劇場公開終了した映画を独自のキャスティングで日本語吹き替えにして、前後に解説者が見どころを解説して、と至れり尽くせりのパッケージングで、毎週放送していたのです。

基本的に午後9時から始まり11時ちょっと前で終了する枠なので、CMを抜くと正味1時間半弱。世にある映画はだいたい2時間前後だったから、20分近くはカットされた編集版。だけど劇場公開時観ていなかったら、比べようがないのでどう違うのかもわからない。似ても似つかない、というか最悪の場合、台詞も音楽も番組都合に合わせて変えられた、まったく別物を見せられていたと後で知って、愕然としたのも良い思い出で、むしろそんなバージョンが何度目かのパッケージ化の特典として珍重されてたりもするから、何がどう正しいのかさっぱりわかりません。

それでも家にいながらにして映画が観られる。しかも毎週、と言うより民放各局が各曜日のゴールデンタイムを洋画劇場に割いていたんだから、ある意味夢のようでもあるけど、なんでも配信で見放題の今のほうが絶対夢のような状況だと思うんだよね、みんな感謝してないけどさ。

月曜はTBSの「月曜ロードショー」。 火曜はなくて、水曜は日本テレビの「水曜ロードショー」、のちに金曜に移って今でも番組枠として残っている唯一の存在。木曜は東京12チャンネル改めテレビ東京の「木曜洋画劇場」。金曜がフジテレビの「ゴールデン洋画劇場」。土曜を飛ばして日曜がNET改めテレビ朝日の「日曜洋画劇場」。

それ以外にもイレギュラーな特番枠や野球中継が降雨で中止になると雨傘番組として映画をやったりするので油断も隙もなかった--っていうか、野球中継も今やほとんどの野球場がドーム球場で開催しているから中止とかないんだなあ。未来だよねえ。

もちろん、今だったら好きな映画を好きなタイミングで観る方法がいくらでもある。決まった時間にテレビの前に座らないと享受できないのは不便極まりない。でも、その一期一会のドキドキ感って実は映画館で初めて映画を観るときにちょっと似ていて、今思い出しても不便を感じることってそんなになかったのです。

しかも始まる前の解説、これがなければ本編がカットされるのも減るんじゃないかと思うんだけど、小さな親切であり大きなお世話ともいえるこのコーナー、各局それぞれに個性あふれる解説者を擁していました。

老舗のテレビ朝日は「昭和を代表する映画評論家」というよりも「映画評論家のアイコン」というべき淀川長治さん。TBSは映画評論家であり食通でオーディオ評論家の荻昌弘さん。おっとりとした語り口で紳士的でなかなか素敵だったのに1988年に亡くなって、コメディアンの小堺一機さんが後を引き受けたものの、当時30代とまだ若い小堺さんにはその年輪の差は埋め難かった。なんか若造が偉そうに映画のこと語ってんじゃないよって感じに見えたわけですよ…自分なんかもっと若造のくせに!

元祖映画評論家・淀川長治氏は「ロードショー」でもおなじみの存在だった
©ロードショー2009年1月号/集英社

で、フジテレビは俳優の高島忠夫さん。テレビ東京は2~3年おきに変わって番組の顔として定着しなかったけど、1987年に洋画劇場解説者としては珍しく女性が起用される。映画評論家の木村奈保子さん。他局でも何かしら繰り返される、洋画劇場番組の特徴とも言える最後の決め台詞が、「あなたのハートには何が残りましたか?」という問いかけで、なんともいえない気分になったけど、17年間続いたんだからすごいモノですねえ。

映画&警察評論家で配給会社経営で映画監督!?

そして、日本テレビは映画評論家の水野晴郎さんでした。恰幅のいい体型に日焼けした顔、あまり知られてないけど、よく見るととんでもない大きさの福耳はクルーカットでより強調され、それまでの紳士然とした映画評論家像とは一線を画する、カジュアルでアメリカナイズされたキャラクターで現れたのです。

そもそもは20世紀フォックスの宣伝部出身で、日本ユナイト映画で宣伝総支配人になり、『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』(1964)『007/危機一発』(1963)や『夕陽のガンマン』(1965)などの邦題※の名づけ親から映画評論家に。

映画だけでなく、警察評論家として渡米してはアメリカンポリスの扮装をしてエビス顔をほころばせている様子をなぜか「水曜ロードショー」の解説の一部で紹介していて、それ映画と関係ないじゃん!そんなことしてるからカットしすぎで映画が訳わかんなくなってんだよ!と思ったけど誰にも言えずにいました。

※それぞれ原題は『A Hard Day’s Night』『From Russia with Love』『For a Few Dollars More』。あえて誤字を採用した『007/危機一発』は、その後『007/ロシアより愛をこめて』と改題された

その後、マイク水野を名乗り、自分で企画した映画『シベリア超特急』を監督し、世評も手伝ってヒット。シリーズ化までしたものの2008年、76歳でこの世を去りますが、あの内容はとてもじゃないけど、長年映画宣伝配給にかかわり評論家として名を馳せたお方の映画に対する知悉の結晶とはとても思えず。海外ではトリュフォーやゴダールのように映画批評から実作者に転身して大成功を収めたりするものの、その客観的な批評眼が誰でも実作に反映されるわけではなかったことは、私でさえ自分の映画作りで痛いほど実感するわけでございますが、それは別のお話。マイク水野監督を取り巻く事情としては、世相含めておおらかな晩年だったんだなと思い出せます。

『シベリア超特急』より。水野氏(左中央)が製作・監督・脚本・出演を務め、シリーズは7作作られた
©シネマパラダイス

でも、そんな水野晴郎さん。 映画評論家、警察評論家、映画監督だけでなく、インターナショナル・プロモーションという配給会社を経営していて、そこでなかなか日本で公開されないが映画通にはたまらない映画を買い付けては次々に配給していました。ヒッチコックの『バルカン超特急』(1938)や、クラーク・ゲーブル主演の『或る夜の出来事』(1934)、オーソン・ウェルズの『上海から来た女』(1947)といった知られざる旧作名画を買い付け、配給したのもまた水野晴郎さんだったのです。

埋もれた映画を発掘し、公開する…普段のエビス顔とは違う一面なのです。 そんな映画愛あふれる凄腕配給師としての水野さんが、『十二人の怒れる男』(1957)のシドニー・ルメット監督が1964年に製作したものの日本公開されなかった政治サスペンス映画『Fail Safe』を、『未知への飛行』という日本タイトルをつけて公開したのが1982年の6月でした。 スピルバーグの『未知との遭遇』(1977)が1978年の日本公開ですから、そのあからさまな目配せはサスガの元専門職と言えましょう。

『未知への飛行』主演のヘンリー・フォンダ
©Everett Collection/amanaimages

冷戦の時代、北極海上空を哨戒中のアメリカ戦略空軍爆撃機B58が、ソ連本土への攻撃命令を受信する。それはコンピューターの誤作動による間違いの命令だったが、それを知ることのない爆撃機は編隊を組んでモスクワへと目指す。このままだと誰も望まぬ全面核戦争が起きてしまう。アメリカ合衆国大統領はソ連とホットラインを繋ぎ事態の収拾を試みるが…。

高2で知ってしまった映画の深み

と、ここまで書いて、全く同じ年に製作された同じアメリカの同じコロムビア映画を思い出さざるを得ません。正式タイトルは長すぎるので省略しますが、スタンリー・キューブリック監督の『博士の異常な愛情』(1964)※です。ほぼ同じシチュエーションだけど、『未知への飛行』はシリアスなポリティカル・フィクション・ドラマで、『博士の異常な愛情』はブラックコメディなのです。冷戦下での些細なミスやトラブルが、命令を遵守すべきシステムの呪縛によって最悪の結末を迎えるという、あの時代に空想できる悪夢が見る角度によってこうも違う映画になるのか?という、映画という表現の奥深さを垣間見られる対比。

※『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(原題:Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb)

『博士の異常な愛情』主演のピーター・セラーズ
©Capital Pictures/amanaimages

実は、後年発売された『博士の異常な愛情』のBlu-rayの特典映像によれば、当初は密室を舞台にしたシリアスな作品を想定していたが、脚本を推敲していくうちにおそらくゲシュタルト崩壊を起こしたのでしょう、これをクソ真面目にやっても意味がないから思いっきり滑稽に描いて、この人類最大の悲劇を喜劇にしちゃえ!という大方針転換に至ったようなのです。そんなわけで、さすがにそれはやりすぎだと本編からカットされたクライマックスでは、地下最高作戦室で繰り広げられるアメリカ政府首脳部によるパイ投げ合戦という、風刺を超えた悪ふざけに至るのです。

一方で『未知~』においては、とてつもないスケールの物語のほとんどを、ホットラインの置かれた大統領執務室と会議室と爆撃機のコクピットという限定された密室の中だけで描ききる手腕は、シドニー・ルメット監督の『十二人の怒れる男』や後年『狼たちの午後』(1975)での緊張感あふれる演出と同軸といえるでしょう。そして、あくまでも真摯に、その悪夢のような事態に向き合った結果、合衆国大統領は想像を絶する選択をするのです。

この一点は、競合する類似主題の映画とまったく違う映画作家のスタンスを感じるわけです。高校2年でこの結末を映画館で知ってしまうと、映画でここまで人間の葛藤を描けるのか、もうどうすることもできない気分に打ちのめされて、正しさとは一体なんなのか、そんな気持ちを抱えて池袋の街をさまようことになるのです。

『未知への飛行』中央はウォルター・マッソー
©Mary Evans/amanaimages

そんな素晴らしい映画を見出し、独自に買い付け、配給していた水野晴郎さんの慧眼に対して、晩年の『シベリア超特急』を嘲り笑う世の風潮はどうしても同調できなかったのですが、それは21世紀に入ってからの話です。

文/樋口真嗣

『未知への飛行』(1964)Fale Safe 上映時間:1時間52分 アメリカ

監督:シドニー・ルメット

出演:ヘンリー・フォンダ、ウォルター・マッソー、フリッツ・ウィーヴァー他

©Mary Evans/amanaimages

冷戦時代、コンピューターの誤作動などにより、アメリカ空軍爆撃機にモスクワ核攻撃の指令が下ってしまう。フェイル・セイフ(原題。ミスに備えて設けられる安全装置・仕組みのこと)地点を越える飛ぶ爆撃機、止めようと必死で策をこらすアメリカ政府。緊迫の事態の行方は…。

1964年の製作だが、日本で初公開されたのは1982年。