義母から嫁へのしかかる“お受験合格”への圧力。そのナーバスな気持ちを逆なでしたママ友の一言

2022年9月5日 5時5分

「この子のためなら、何だってしてみせる…」

公園に集う港区の母たちは、そんな呪文を心の中で唱え続ける。

そして、子どもに最高の環境を求めた結果、気づき始めるのだ。

──港区は、小学校受験では遅すぎる…、と。

これは、知られざる幼稚園受験の世界。母…いや受験に取り憑かれた“魔女”たちが織りなす、恐ろしい愛の物語である。

◆これまでのあらすじ

娘の華（2）の幼稚園受験のため、お受験塾「ほうが会」に入会した葉月。ママ友である敦子とマリエと共に、ストレス発散のためホタル狩りに来ていたが…。

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Vol.7 誕生月のライバル

「信じられない…っ」

幻想的なホタルの光が飛び交う中、敦子さんの悲痛な声が響いた。

非難の声を浴びせられているのは、マリエさんだ。怪訝な面持ちを浮かべたまま、息の荒い敦子さんに反論している。

「だって。アトリエの方も、よく似合いそうって褒めてくれたし…」

「だからって！うちのデザインは、事前にお伝えしてあったじゃない！」

「それは聞いてたよ。見せてもらったし。だから、色味は全然違うのにしたってば」

静かなトーンではありながらも言い合いが収まらないふたりの間に、私はようやく割って入った。

「ちょっと、二人とも。一体どうしちゃったの？」

私の問いかけに、敦子さんは目線を返しすらしなかった。一方のマリエさんは、困り果てた様子でおずおずと答える。

「いや、お試験用の子どものワンピースの話をしてたら…」

話の途中であるにもかかわらず、敦子さんが興奮した様子で加わる。

「うちの子のワンピースがどんなデザインかは、お伝えしてあったでしょ？胸元に百合の花の刺繍って！

わざわざ春前から、個人の仕立て屋さんにオーダーしていたのよ。どうして同じデザインになんてするのよ。もう願書用の写真だって撮っちゃったのよ…っ」

その言葉を聞いて、私は思わずゴクリとつばを飲んだ。

◆

お受験用の、子どものワンピース。

いわゆる“本番ワンピース”は、私も先月の5月、華のものを仕立てに行ったところだった。

「ファミリアとかで、それっぽいのを買えばいいんじゃないの？」

そう話す大樹に、心の中では半ば同調していた私だったけれど…。

宝川先生から紹介されたアトリエに足を踏み入れると、すぐにそんな考えは撤回せざるを得ないことを理解した。

お受験用のオーダーワンピース専門店…。そこは、お教室に勝るとも劣らない、独特の異世界だったのだ。

ヨーロピアン調の室内にズラリとならんだ、コンサバティブな色合いの小さな襟付きスモッキングワンピースたち。そのどれしもの胸元に、繊細な草花の刺繍が施してある。

ワンピース工房──いわゆる“アトリエ”のオーナーらしき気品のある老婦人もまた、宝川先生のような魔力じみた眼力で、じっと華を観察する。

「早生まれちゃんでいらっしゃるわね。赤ちゃんっぽさを軽減するために、パフスリーブは避けた方がよろしいかと思うわ。

第一志望の園のカラー的には、ネイビー、ブルー、グレーね。お刺繍はどんなパターンになさる？」

そう言いながら渡された分厚いファイルには、気が遠くなりそうな程たくさんの、刺繍のサンプルが並んでいる。

悩んだ末、私が「じゃあ、この黄色の小花の刺繍で…」と伝えた途端。何も照らし合わせることのないまま、こう即答されたのだった。

「ごめんなさい。とってもお似合いになるとは思うけれど…そのお刺繍はもう、同じ志望園でのオーダーが入ってますの。あと、このお刺繍と、このお刺繍も。

お試験の会場でデザインが被ってしまうのは厳禁よ。お嬢様だけの魅力を輝かせる、一点ものであることが大切なの。

申し訳ないけれど、他のパターンから選びましょう」

◆

そんな経緯で、華は結局ネイビーの地に白襟、胸元のスモッキングに白いデイジーの刺繍が散りばめられたワンピースを、綿密な打ち合わせの末にオーダーしたのだ。

選び抜いたワンピースは、市販のものとは比べ物にならないほど華にぴったり似合っていて、驚くほどお姉さんらしく見せてくれた。

幼受において、細心の注意と敬意が払われる本番ワンピースだ。

エミリちゃんと翔子ちゃんのデザインが似ているのだとしたら…。敦子さんの戸惑いも当然だろう。

目の前では、まだマリエさんが反論を続けている。

「だって、百合は結婚式でふんだんに使った思い出の花なんだもの。敦子さんと翔子ちゃんしか使っちゃいけない花なの？そんなことないよね？

だからせめて、同じ色味のブルーグレーは避けたの。上半身は白、スカート部分はネイビー。デザインがかぶってる風には見えないと思う」

ふと気がつけば、エミリちゃんと翔子ちゃんが不安そうな顔で、それぞれのママを見つめていた。一方の華は、すでに私の腕の中でスヤスヤと寝息を立てている。

「とにかく、今日はもう遅いし、解散にしましょ。子どもたちも早く寝なくっちゃ。健康がいちばん、ねっ」

私はどうにかこの場をお開きにすると、マリエさんに目線だけで別れを告げる。

そして、白金の我が家と同じ方面──白金台に住む敦子さんをタクシーに押し込み、同じタクシーに乗り込んだのだった。

しばらく無言のままタクシーに揺られていた私たちだったけれど、華だけでなく翔子ちゃんも寝てしまって、ようやく敦子さんが口を開いた。

「取り乱しちゃって、ごめんなさい」

「いいのいいの。私たちきっと、すごくストレスが溜まってるのよ」

慌てて相槌を打つ私に、敦子さんはポツリポツリと話し出す。

「本当にそうね…。実はね、今日は日中、主人の母がうちに来てたの。それで、すごく疲れてて…」

敦子さんによると、幼稚園受験に対する義母からの圧力がものすごいそうだ。

書いた願書を見せろと言われるのはもちろん、ご主人が志望園に通っていた頃の制服を、「お守り」と称して飾るなどの行動も日常茶飯事。

百合の刺繍のワンピースも、ご主人の二人のお姉さんが幼稚園受験の時に着たデザインを、翔子ちゃんにも同じように仕立てるよう言われたのだという。

「だから私…マリエさんの今回のことは、どうしても受け入れられなくて」

噛み締めるようなくぐもった声でそう呟く敦子さんの目には、うっすらと涙が滲んでいるように見えた。

あまりの痛々しさに、私は励ましの声をかける。

「だ、大丈夫だよ。いつもお利口な翔子ちゃんだもの。ワンピースの刺繍がかぶってるくらい…」

けれどそこまで言って、自分の軽はずみな発言をすぐに後悔した。

「本当にそう思う？」

そう言って、ゆっくりと敦子さんがこちらへ振り向き、私の目をまっすぐ見つめて続ける。

「そりゃ、何百人も受ける伝統的な園だもの。似たようなデザインの服装の子が一人もいないなんて思ってないわ。

でも…翔子がお試験を受けるその隣に、そっくりなワンピースを着たエミリちゃんが居たら？

ねえ、葉月さん。分かってるかしら？翔子もエミリちゃんも、同じ9月生まれなのよ。幼稚園の募集人数は、たった4、50人。同じ誕生月同士は、少ない少ない枠の奪い合いなの。

お試験の日…そして、考査の時間が同じかもしれない。もう友達じゃなくてライバルなのよ」

タクシーの窓を過ぎゆく街灯の明かりと闇が、敦子さんの姿を、交互に照らしては暗くする。

「主人の家系的にも、この園への合格は絶対なの。小学校受験を見据えても、最低ラインのあたりまえなの。

普通のご近所園に行くなんてことになったら、翔子が一族からどんな目で見られるか…。この園にだけは落ちるわけにはいかないの」

慶應幼稚舎へのチャレンジを目指す我が家。

ご主人が幼稚舎卒の敦子さん一家。

志望校をまだ模索しつつあるからこそ、小受を確度の高いものにしたいマリエさん一家。

私たちの志望園は、3人とも同じ園だ。

― ああ、やっと分かった…。

私は、宝川先生のあの意味深な態度の意味を…、敦子さんとマリエさんがこんなにも私と華に親切にしてくれる意味を…、ようやく理解した。

― ふたりは、ライバル。我が家は、同格としてすら扱われていなかったんだ。

脱力するように、私はまぶたを閉じる。つい先ほどまで温かな想いとともに目に焼き付いていたホタルの光は、もうすっかり消え去っていた。

漆黒の闇。

今、自分の立っている世界…幼受の世界がどれだけ異様な場所であるかを、私はいよいよ噛み締める。

楽しかった友情は、いつの間にか終わっていた。

先ほど飲んだスパークリングは、戦いの前の食前酒だったのだ。

そう…幼稚園受験は、愛する我が子の幸せという、大義を賭けた戦いなのだ。