結婚1年目から夫に愛情をもてなくなった女。満たされない思いを、こっそりあるモノで埋めていたが…
女医の世界には「3分の1の法則」というものが存在する。
「生涯未婚」「結婚した後、離婚」「結婚生活を全うする」それぞれの割合が、ほぼ3分の1ずつとなるというものだ。
男性は「仕事で成功すれば、恋愛・結婚がついてくる」傾向にある。
しかし、女性の場合、仕事での成功は、しばしば幸せな恋愛・結婚を遠ざけることもある。
彼女たちを取り巻く一種異様な環境は、独特の生活スタイルを生み出し、オリジナリティーに富んだ生き方を肯定する。
◆これまでのあらすじ
優香は、幼い頃から家族同士ぐるみで仲がよかった許婚・春馬と26歳で結婚をする。しかし、次第に春馬に、物足りなさを感じるようになる。
そして、結婚式の二次会で再会した、同じ医学部出身の翔平と関係を持ってしまうが…。
▶前回：親が勧める相手と結婚したものの…。女は満たされず、つい元彼に連絡してしまい…
Vol.2 耳鼻咽喉科・優香（32歳）の場合【後編】
「今日も楽しかった。次はいつ会える…？」
優香は靴を履き終えると、翔平と向き合い、まっすぐに見つめる。
翔平との再会後、夫である春馬の当直日に合わせて、赤坂にあるマンションを訪ねるようになって早5年。
当初の頻度ではないものの、今も2週間に1度はこうして密かに会っては心と体を満たし合う仲だ。
夫婦共に、当直や緊急外来などがあり、不規則な生活を送っているからこそ、浮気がバレにくいという側面もあるが、こんなに長く翔平と続くとは、と優香は自分でも驚いている。
その間に、優香は後期研修期間を終え、耳鼻咽喉科の専門医となった。翔平も総合診療医として順調にキャリアを重ねている。
「そうだな。来週末とかは？」
翔平の提案にすぐに答えようとしたが、予定が入っていたことを思い出す。
「来週末は、お父さんとの食事会があるの…」
「ああ、そんなこと言ってたね。お母さんの命日だっけ？なら仕方ないね。じゃあ、次のあいつの当直日にでも」
「うん、また連絡する」
優香はそう言うと、翔平に体を寄せて軽く唇を重ね、ドアを開けて部屋をあとにした。
マンションの前で翔平が呼んでくれていたタクシーに乗り込む。
「白金台の方にお願いします」
ドライバーに行き先を告げると、優香はシートに深く腰掛け、ひとつ息をつく。
― あ〜、親が勧めるからって、簡単に結婚なんてしなきゃよかったな。
もし、今独身に戻れたら、お互い心から求めあっている相手と一緒になったのに…と優香は春馬と結婚したことを、ここ最近後悔している。
翔平との関係は、最初のうちは火遊び程度の感覚だった。
でも、2人の時間を重ねる中で、仕事の悩みを打ち明け、乗り越えていくうちに、お互いに存在の大きさが増してきた。
― 翔平とどうなるかはわからないけど、こんな状態ずっと続けられないよね…。
優香が夫に抱く感情は、罪悪感というよりはむしろ、早めに事実を伝え離婚しなければいけないという焦燥感となっている。
子どもがいないうえに経済的に自立している優香に、離婚を躊躇する理由はまったくない。
医師の離婚率が高いとされる理由には、そういった事情も関わっているのではないかと優香は思っている。
◆
「お義父さん、すごく楽しそうだったね」
春馬はダイニングチェアに腰をおろすと、満足げに息をついた。
南青山にある『青山 仁』で食事をした帰り、高輪台交差点近くにあるマンションの前で、優香の父親をおろして自宅に戻ってきた。
「お義父さん、優香を見ておばさんに似てきたって言ってたね」
「言ってた。お母さんに似てるなんて、前まではそんなこと言われなかったのに…。歳をとったってことでしょう？やんなっちゃう」
「見た目だけじゃなくて、内面も似てきたってことじゃないかな。ほら、いろいろ気遣いするところとかさ…」
ふて腐れる優香に、春馬が優しくフォローを入れる。
「私はお母さんほど立派じゃないよ…」
優香の口から思わず本音が出る。
「だって不倫してるし…」
…とまでは言わなかったが、今が切り出すタイミングなのではと思った。
「あのさ、春馬。ちょっと話があるんだけど…」
「え、なに？」
優香が言い淀んでいると、春馬の口から意外な言葉が飛び出す。
「翔平のことかな？」
春馬はテーブルの上の一輪挿しを見つめたまま、サラッと翔平の名を口にした。
「……知っていたの？」
動揺を抑え、優香が尋ねる。
「だって、もう結構長いだろう？いくら鈍い僕でも、それくらい気づくよ」
「そう…。じゃあ、話は早いわね。別れましょう」
優香は、単刀直入に切り出した。
「僕に、もう気持ちはないの？」
優香はうなずく。
もともと親が決めた相手であり、そこに愛があったかというと、優香は確信がもてない。
「春馬は優しいし、真面目だし、感謝もしているけど…」
彼はただ黙って耳を傾けている。
「一緒にいて楽しくないの…。
あなたは、親の敷いたレールの上を歩いてきただけでしょう？医者の世界しか知らないから、私には退屈なの…」
優香がこれまで春馬に対して感じていたことを、包み隠さず述べる。
「でも、君もアイツも、ずっと医者の世界にいるじゃないか。同じだろう？」
「そうね…。世間知らずだったからこそ、私はあなたと結婚したのかもしれない。親が勧める相手と結婚するのが当然だと思っていたし、幸せになれると思っていたわ。
でも、社会に出て気づいたの。私は、好奇心旺盛なタイプだから、もっと色々な世界を見たいわ」
春馬はぐっと口をつぐみ、「そうか…」と呟くように言う。
「僕が、何も知らないし、見てきていないってこと？」
「まあ、そうかな…」
優香は否定せず、突き放す。
だが、春馬がすぐに言葉を返す。
「でも、僕は知ってるよ」
優香が顔をあげると、春馬もしっかりと目を合わせ見つめ返す。
「君の知らないことを、僕は知っている」
そう言うと春馬は、とつとつと過去のある事実を語り始めた。
◆
「中学3年生になったばかりのころだったかな。塾の帰り、夜の10時ごろ、用事があって少し回り道をして帰ったんだ。
うちのクリニックの前を通ったとき、室内に電気がついていて…。父親が、まだ仕事をしているんだろうなと思って、寄ってみることにした」
春馬は、言葉を選びながらゆっくりと語り始めた。
入り口の扉に手をかけると、鍵が開いていて入ることができた。受付と待合室は薄暗かったが、春馬はそのまま中に入った。
「そうしたら、奥のほうから声が聞こえてきたんだ。男性と女性の声だった…」
優香は自分の鼓動が速くなっていくのを感じる。
春馬は奥に進んで、院長室のほうに近付く。ドアの隙間から明かりが漏れていて、そこに誰かいるのがわかった。
男性と女性の親し気な声が聞こえてくる。愛を囁くような、そんな会話だ。
「男性の声は、うちの父親だったよ。それで、もうひとりの、女性の声は…」
優香は息をのむ。知りたくない事実であることは、間違いない。だが、もう後には引けない…。
「もうひとりの女性の声は…。君の母親、雅子さんだった」
春馬の言葉に、優香は一瞬、強いめまいを覚えた。
「そうしたら、おばさんが言ったんだ。『ちょっとトイレに行ってくる』って。
僕はすぐに立ち去ろうとしたけど、間に合わなかった。ドアを開けて出てきたおばさんと鉢合わせてしまった…」
春馬が、右手の人差し指を立て、唇の中央に添えた。
「おばさんは、僕を見て、こうやったんだ。『しーっ』って…。そして、何も言わずにトイレに行ってしまったよ。僕はそのあと、すぐにクリニックを出た…」
話を終えた春馬の呼吸が乱れている。
信じがたい話ではあるが、春馬が嘘をつくとは思えない。
優香はその話を事実として受け止めた。
「だから僕はね。おばさんが亡くなったとき、バチが当たったと思ったんだ。あんなことをして…」
尊敬していた母親を侮辱され、優香は言い返したい思いもよぎる。
しかし、春馬にとっても自分の父親の不貞行為であり、同じようにつらいのだろうと口を結ぶ。
むしろ、今まで打ち明けられずにいた苦しみはどれほどのものかと、同情を寄せた。
「だからね…。君の母親はそんなに立派な人じゃないから、安心しなよ。君が、ほかの男と…そういうことになるのも、仕方のないことなんだ…」
そう訴える春馬の目には、涙が浮かんでいる。
しばらく沈黙が流れた後、優香が口を開く。
「そっか、わかった」
優香は、以前より抱いていたある違和感が頭をよぎった。
「春馬が、私のお母さんのことを、ずっと“おばさん”って言ってたのは、そういう理由があったんだね。お父さんことは、“お義父さん”って呼ぶのに。ちょっと変だなって思ってたんだ」
きっと、「お義母さん」と言うのには、抵抗を感じたに違いないと優香は思った。
春馬が顔をあげて、テーブルの上を眺める。
「その花…」
視線の先には、コスモスの一輪挿しがあった。
「僕があの日、クリニックに寄ったとき、受付にその花が飾ってあった…」
春馬はそのまま遠くを見るようにして、言葉を続ける。
「だから僕は、その花が嫌いなんだよ…」
そこで優香は、“ブツッ”と何かが音を立てて切れたような感覚をおぼえた。
お互いに内に秘めた思いを打ち明け、積年の思いを吐き出したにもかかわらず、清々しさなどは一切感じられない。
周囲に漂う、どんよりとした重苦しい空気なかで、もうこの関係が修復することはないと、お互い悟ったのを優香は感じた。
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