社内チャットで上司に誘われた！職場恋愛の沼にハマった32歳女は、同僚の忠告を無視して…
「30過ぎてまで、何やってるの？」と、時に人は言う。
東京における平均初婚年齢30.5歳を境にして、身を落ち着かせる女性が多い一方で、どうしようもない恋愛から抜け出せない人がいるのも事実。
他人には言えない心の葛藤、男女の関係――。
30歳を過ぎた。でも私は、やめられない。
少し痛いけれど、これが東京で生きる女のリアルなのだから。
▶前回：「夫がキモい！」お金目当てで13歳上の男と結婚した女が、結婚9年目に見た恐ろしい光景
Vol.5 杏奈、32歳。紹介もアプリでの出会いもお断り
「ねぇ、杏奈。颯太と別れた話、もう社内で話題になってるよ。大丈夫？」
今度は誰が話を漏らしたのだろうと、別れ話を打ち明けた同僚たちの顔を、思い浮かべた。
私と、同期の早織は、食品メーカーの同じマーケティング部で働いている。
休憩中にカフェスペースでコーヒーを飲む時間が好きで、たまに早織とふたりで息抜きをしているのだ。
「そういえば、この前美容室で聞いちゃったんだよね。お客さんが、アシスタントの男の子を誘ってるのを」
「ふ〜ん。別にいいんじゃないの」
「私さ、やっぱり月1とかしか会えない距離感、いやだなぁ。職場で毎日会えた方がよくない？」
月1〜2回の美容室に行くタイミングでしか会えないなんて、私には絶対無理。
美容室での会話を聞いていて、私は身近な環境で恋愛をするのが好きなんだと、実感した。
元カレの颯太も、営業部にいる同期。2年弱付き合ったのだが、先週、私は彼にフラれたのだ。
だけど「他にも好きな子ができた」と言われたのは、正直都合がよかったと思う。
なぜなら、私にもちょうど気になる人ができてしまったところだったから。
「じゃぁ、私、企画書仕上げたいから戻るね」
飲みきれなかったコーヒーをお供に、デスクに戻って企画書を作成していると、チャットアプリにメッセージが届く。
『今日は出社してる？』
― 吉沢部長だ！
『はい。会社にいます』
私は、簡単な内容ですぐに返信して、パワポに目線を戻す。
しかし、チャットの画面が入力中になっているので、ついそちらを注視してしまう。
『営業部に新人が入ったんだけど、歓迎会してあげられなかったから、今日軽く飲みに行こうかと』
『よかったら』
― よかったら…？
『来ませんか？』
私はチャット画面を見て、思わずニヤニヤしてしまった。
参加の旨をすぐに返信すると、吉沢部長が絵文字で答えてくれる。
― やった〜〜！
私は両手で顔を覆い、浮かれた感情をそこに吐き出した。
吉沢隆弘は、営業部の部長で37歳。私より5歳上で、颯太の上司にあたる。
物腰が柔らかいのに、仕事が早くて頼れる人だ。
颯太も優秀な方だとは思うが、部長に比べると頭の回転も遅いし知識不足。
もちろん経験値が違うのもあるだろうが、話し方ひとつとっても、男としての魅力に差が出てしまう。
そんな吉沢部長と距離が縮まったのは、マーケと営業部の懇親会だった。
たまたま同じテーブルにいた吉沢部長。大人の落ち着いた佇まいに心を奪われ、食い気味でアレコレ質問してしまった。
社内で軽食とビールが用意されただけの、簡素な会。まさかそこで恋に落ちるとは思わなかった。
その懇親会を機に、颯太への気持ちは日に日に冷めていくことになる。
そして、結果的に、私の素っ気ない態度も相まってか、別れることになってしまったのだ。
― よし。今夜の楽しみもできたし、残りの仕事頑張ろ！
私はコーヒーを飲みきると、背筋をピンと伸ばしてPCに向き合った。
◆
「営業部の飲み会に行くの、久しぶり。部長もいるんだよね？緊張するな〜」
定時後の化粧室。早織が、メイクポーチの中をガサゴソしながら言った。
「大丈夫、大丈夫！他にも、営業部の若手が何人かいるし。あ、でも颯太はいないって」
私は、吉沢部長に誘われた会に、早織と行くことにしたのだ。
さすがにひとりではアウェイすぎるし、早織がいたほうが楽しいだろう。
「しょうがないな〜。っていうか、若手よりおじさんがいいな。うちの会社にはいないけど」
文句を言いながらも、早織はまぶたにアイシャドウを丁寧に塗り直している。
「吉沢部長が一番年上だよ。でも早織、部長のことは狙わないでね」
「え！まさか。狙うもなにも既婚者じゃん。しかも私、社内恋愛は勘弁だわ」
― よかった…。
私は安心して、食事をしても落ちにくいティントを唇に塗り始めたが、鏡越しに早織と目が合う。
彼女は、眉間にシワを寄せて私を見ている。
「杏奈、もしかして…。いや、ないとは思うけど、部長と…？」
「ん？まだ何もないよ」
「“まだ”って、どういうこと？絶対だめだよ。奥さんいるんだから」
「わかってるって。純粋に憧れてるだけ」
早織は「本当かな〜？」と言いながら、手を洗いスマホをいじりはじめた。
私は、身近な人しか好きになれない。
高校の頃は、同じクラスの男子。大学では、同じサークルの先輩。そして今は、社内の人。
それが一番自然なことだし、一緒にいる時間が長いから安心できる。
だから、紹介だの食事会だのマッチングアプリだので出会ってる男女を見ると、不思議でならないのだ。
「どうして見ず知らずの人を、好きになれるの？」と。
早織はもう一度、「部長は、憧れてるだけだよね？ほんと？」とあやしんだが、私は「ほんとだってば」と笑いながら言い、早織と化粧室を出た。
わかっている。いくら社内恋愛が好きな私でも、吉沢部長とは深い関係になってはいけないことを。
◆
営業部の食事会は、会社から近い恵比寿の『くおん』で行われた。
結局、吉沢部長を含めた営業部の男性の4人、それから私と早織の6人の会になった。
― これなら、部長と絶対、仲良くなれる！
予想していたよりも少人数だったので、私は心の中でガッツポーズをした。
マーケから参加した私と早織は、軽く自己紹介をして、和気藹々と食事を楽しんだ。
料理が美味しくて、お酒がスイスイ進む。
「日本酒飲むひと？」
「は〜い！」
吉沢部長が皆に聞くが、返事をしたのは私だけだった。
「杏奈さんだけ？じゃあ、ふたりで飲みやすいように、こっちにおいで」
― うそ。隣に行けるの？わ〜い！
私は嬉しさを素直に顔に出して移動したが、早織の視線を感じ、真顔に戻した。
「部長、どうして杏奈のこと、下の名前で呼んでるんですか？」
早織が、焼酎片手に吉沢部長に聞く。
「どうしてって、うちの会社に鈴木が5人くらいいるから…もしかして嫌だった？」
部長が、私の顔を心配そうに見た。
「いえいえ！むしろ嬉しいです。杏奈って呼び捨てでもいいくらいです！」
― あ…やばっ。
私は調子に乗りすぎたと思い、訂正しようとしたが、彼は笑っている。
そして、これを機に私たちの距離はまた縮まった。
「杏奈、ちょっと。酔いをさましに外出たいから付き合って」
私は早織に言われ、渋々彼女の後をついて行く。
涼しい風がほてった頬を冷まして、とても気持ちがいい。
早織は、私の肩に手を置いて真剣な顔で言う。
「ねぇ杏奈、すごく酔ってるよね？それに部長との距離近すぎない？」
「だって、楽しいんだもん〜！」
「はぁ…」
早織が言いたいことは、わかっている。
これ以上親密になるのは危険だ、と友人であり同期として、忠告してくれているのだ。
私も理解はしている。吉沢部長は既婚者で、元彼の上司であることを。
ただ、話せば話すほど、彼への気持ちが大きくなる。
それに、部長も私のことを気にしている気がするのだ。それは社内恋愛を何度もしている経験というか、ただの勘なのだが…。
彼が自分のものにならなくていい。
ただ、もっと仲良くなって、他の社員とはちがう特別な存在になりたいと願ってしまう。
そんなこと、早織には口が裂けても言えないが。
「心配してくれてありがとう。私も大人だし、会社に迷惑をかけるようなことはしない」
早織は「それなら、わかった」と言って、先に席へ戻っていった。
それからしばらくして、食事会はお開きとなった。
「ふたりとも今日はありがとう。気をつけて帰ってね」
吉沢部長が皆に言う。
早織は、行くところがあると言い、すぐにタクシーに乗っていった。
他の人も、それぞれ駅に向かって歩き始めている。
「あの、よければ日本酒がおいしいお店、もう1軒行きませんか？飲み足りなくて…」
私は、吉沢部長が歩き出す前に声をかけた。
― どうか、断ってください。
もし、このままふたりで2軒目に行ってしまったら、私はこの想いをセーブできる自信がない。
「今日、金曜か…」
吉沢部長は、スマホで何かを確認しながら、迷っている様子だ。
本心は、まだ一緒にいたい。だから、祈るような気持ちで彼を見つめた。
「うん。行こうか。杏奈ちゃん、行きたいお店ある？」
― 杏奈…“ちゃん”。
“杏奈さん”より、さらに近くに行けた気がして、思考が一瞬停止する。
彼は元彼である颯太の上司だ。ただ、そんなことはもうどうでもいい。
「部長と飲めるならどこでも」
「じゃあ、ちょっと静かなところに行こうか」
「はい。お任せします」
さて、私の本能と理性の戦いは、どちらが勝つだろうか。
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