「彼以外を、好きになってはいけない」

そう思えば思うほど、彼以外に目を向けてしまう。

人は危険とわかっていながら、なぜ“甘い果実”に手を伸ばしてしまうのか。

これは結婚を控えた女が、甘い罠に落ちていく悲劇である。

◆これまでのあらすじ

クリスマスイブの夜、美津は彼氏の大介に嘘をついて、バー『onogi』で出会ったマスターの弟・守に会いに行った。守が切り盛りする横浜の店舗で飲んだあと、帰りたくなくなった美津は守を誘う。

▶前回:「イブの夜に1人で帰れない…」バーで酔った女が男についた最低の嘘




「あの人とは別れたの。だからクリスマスイブに、1人で飲みに来たのよ」

聖なる夜に、美津の嘘が響く。

守は静止して考え込んでいた。女性から帰れないと言われた上に、突然キスをされたのだ。状況が読めなくて当然だろう。

しかし守は少しの間考え込んだあと、真顔になり恐る恐る口を開くのだった。

「…うちでちょっと休みますか?」

その言葉に、美津は沸き立つような喜びを感じながらうなずいた。

タクシーの中で、美津はLINEを開いた。大介に連絡を入れておかなくてはいけない。

「大ちゃん、今日は泊まりになるわ。入稿にミスがあって」

コソコソと文字を打って送信した途端、タクシーはゆっくりと止まった。みなとみらいから、ほんの数分の距離。綺麗なタワーマンションの前だ。

「わあ、素敵」

部屋に入ると、美津は歓声をあげる。

海と夜景が見下ろせる贅沢な雰囲気の部屋は、1人で暮らすには十分な広さだ。

「美津さん」

守は、赤いトレーナーを差し出しながら言った。

「僕のでよかったらこれに着替えて、寝室使ってください。あ、シーツ新しいのに替えてきますね」

「え、守くんは?」

「ん?僕はソファで寝ますから」

「ええ、寂しいな。1人で寝るの?」

不満げな声が、ひどく甘く響いた。


積極的な美津の言動に守が見せた、意外な反応


「…だ、だめですよ」

守は照れた表情で、首を横に振る。

「…だめです、そんなの」

確かめるようにもう一度言って立ち上がると、守はいいことを思いついたかのように美津に提案した。

「なら美津さん。眠くなるまで話しませんか?」

それからふたりは1時間ほど、夜の横浜を見ながら話をした。

「…僕、美津さんみたいな綺麗でかっこいい人、初めてだな」

少し浮かれた様子の守に、美津はかすかに笑う。

― この子、私に惚れかけているわ。

先ほどカウンターの中にいた彼の頼もしい姿と、今目の前にいる彼の可愛らしい姿。ギャップが心をくすぐる。

「守くんはさ、彼女いないの?」

ごく普通の質問として、美津は聞いた。しかし守は、目をパチパチさせながら首をかしげる。

「え…?いたらこんなふうに女の人と泊まったりしないでしょ」

ハッとした。自分の貞操観念は、どうかしているかもしれない。

「それもそうね」

1人苦笑いが漏れる美津に、守はかしこまって言うのだった。

「もし、美津さんが適当な気持ちじゃなかったらさ」

「ん?」

「大晦日、一緒に過ごしませんか?」




朝だ。

みなとみらいから神泉にタクシーを走らせ、ようやく玄関ドアの前に立ったのは9時少し前だった。

― 仕事での朝帰りにしては、遅い時間になっちゃった。

ドアの前で2回深呼吸をする。守の部屋の空気が、身体中に満ちている気がしたのだ。

昨晩は、本当に別々の部屋で眠った。…その事実だけが、美津の罪悪感を軽減させている。

ドアを開けると、大介が嬉しそうに歩いてきて笑った。

「美津おかえり!お仕事、お疲れさま」

「疲れた〜」

伸びをしてみせて、美津はテーブルにつく。

「だろうね。疲労回復には、甘いものが1番だ」

そう言うと大介は、熱々の手作りフレンチトーストをテーブルの上に置いた。テーブルの端には、式場のパンフレットが何部か重ねて置いてある。

「ありがとう。美味しそうね」

パンフレットにはコメントをせず、ナイフを手に取った。本当は少し二日酔いで、フレンチトーストはキツい。しかし、そんなことは言えるはずがなかった。

「ねえ」

「ん?」

「申し訳ないんだけど、大晦日も仕事になりそうなの。お花見特集で取材してるって言ったじゃない?その関係で、旅館から招待されて」

言いながらも、美津は自問する。

― …わざわざ大晦日に出版社の人を招待する旅館なんて、あるかしら?

しかし大介は違和感を抱いていない様子で、心配そうな表情を浮かべた。

「大変だね。代休は取れるの?…さすがに身体壊しちゃうよ」


嘘にまみれた美津。守との大晦日は、まさかの展開に


大晦日。

美津は守と、ランドマークタワー69階の展望フロアにいた。2021年最後の夕日が、街をオレンジ色に染めている。

大介には「箱根の旅館に行く」と嘘をついてきた。

― 横浜も箱根も同じようなものよね。

うっとりしながら守を見る。

「綺麗ね」

すると彼は返事の代わりに美津の手を捉え、無言でギュッと握った。大きくてしっとりした手だった。

「今日はね、部屋にごちそうと最高のお酒を用意しました。来てくれますか?」

「もちろんよ」

「…嬉しいな」

手を繋いだまま景色を堪能したあと、タクシーに乗り込んだ。

一週間ぶりの守の部屋。ワインのボトルやフルーツが、広いテーブルに置かれている。

「これからお寿司とか、色々届きますよ。嬉しいなあ。1人の年越しの予定だったのに」

スピーカーを手にとってBGMを再生しながら、守は独り言のように言った。

「私もよ。1人で寂しいところだったわ」

…守の前では、もう美津はすっかり「恋人と別れた直後の女」になっている。

「ねえ、美津さん」

「え?」

「ちょっと、ソファに座って。僕、ちゃんとしないと」

「んー?」

美津をソファに座らせると、守はしゃがみ込んで顔を覗き込んだ。

「本当は、さっきの場所で言いたかったんだけど、勇気が出ませんでした。でも…」

ひとつ呼吸を置き、守は言う。

「僕と付き合ってくれませんか?」

「え?」

「…別れてすぐの女性にこんなこと言うなんて、良くないかもしれないですね。でも、絶対に幸せにする」

美津は固まった。こんなに早く告白されるとは思わなかったのだ。しかし、うなずいてしまった。

「嬉しい」

微笑んだ美津を、守は愛おしそうに見つめた。




大介と守に愛される日々は、楽しくて仕方がなかった。

大介は、安心感。守は、高揚感。

感情が大きく異なるからなのか、「二股をしている」という感覚はない。純粋に幸せが2倍になったような感覚が、美津の心を満たしていた。

― でも、早いことどっちかに決めないとな。バレてしまう前に、私から言わないと。

仕事始めの1月4日。

取材の原稿確認のために、夕方『onogi』に向かった。

― 守くんは、誠司さんに私とのことを話したかしら。

守のことだ。仲のいい兄に「美津さんと付き合った」と話していてもおかしくない。

― でも、知らないかもしれないし。わざわざ自分から言い出すのは嫌だな。

本当はこのタイミングで誠司には会いたくはなかった。重い扉を開ける。

「ああ、掛川さん」

柔らかい黄色の物が、誠司の前のまな板の上に乗っていた。

「お世話になっております。へえ…伊達巻ですか?」

「そう。娘がおせちで食べてから、ハマってしまって。…作り過ぎてしまったので、よかったらいくつかお持ち帰りになりますか?」

「え、いいんですか?」

「もちろんです。大介さんの分も」

「大介さんの分も」。その言葉で、美津は胸をなで下ろした。

― 守くんは、誠司さんに何も話してないのね。

「ありがとうございます。喜びます」

実際、伊達巻は大介の好物だった。

美津は原稿に関する事務的な確認を済ませ、丁寧に頭を下げる。

「では、また」

帰ろうと、扉に触れたそのときだった。

背中越しに誠司の低い声が響いた――。

「あの。…ひとつ、聞いてもいいですか?」

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誠司が美津に聞いたこととは?