これは男と女の思惑が交差する、ある夜の物語だ。

デートの後、男の誘いに乗って一夜を共にした日。一方で、あえて抱かれなかった夜。

女たちはなぜ、その決断に至ったのだろうか。

実は男の前で“従順なフリ”をしていても、腹の底では全く別のことを考えているのだ。

彼女たちは今日も「こうやって口説かれ、抱かれたい…」と思いを巡らせていて…?

▶前回:妊娠検査薬に、うっすら赤い線が入って…。33歳で子どもを授かったことに気づいた女が、狼狽した理由




ケース7:偽物に抱かれた女・夏木雅(30歳)


「絵画、お好きなんですか?」

カルティエ 銀座の入場待ちの間に立ち寄ったアートギャラリーで、ふと目に留まった絵画を眺めていた私は、うしろからいきなり声をかけられた。

振り返るとブルーのスーツに身を包んだ男性が、私を見つめていたのだ。

身長は、180cmはあるだろうか。かきあげた長髪の間から見える切れ長の目が、ディスプレイライトを反射して琥珀のように光っている。

「いえ…。ちょっと見てただけです」

「これは、あまり価値のあるものではないですね。盗作に近い」

― 新手のナンパかな、変な人だわ。

不躾に声をかけてきた男性にイラッとしてしまった私は、その場を逃げるように立ち去り、カルティエへと向かった。

「申し訳ありません。トリニティネックレスですが、ただいま在庫を切らしておりまして…」

「そうですか…」

大手航空会社のCAとして働いていた私は、20代後半で転職。現在は不動産会社の広報部に勤務している。

そんな30歳の節目に、三連リングのネックレスを購入しようと思っていたのだ。しかし在庫がないのであれば、仕方がない。

今日は踏んだり蹴ったりだな…と思いながら店を出ると、みゆき通り沿いに停まっていたシルバーのアストンマーチンの中から声が聞こえた。

「先ほどは急に声をかけて、すみませんでした。どこかでコーヒーでも飲みませんか?」

…この男との出会いが、私を恐怖に陥れたのだ。


急に声をかけてきた男の正体は…


しつこい彼をうまくかわせず、連れてこられたのは『マーサー ブランチ ギンザ テラス』。

「改めまして、水川です」

彼は偉そうに長い脚を組みながら、そう名乗った。

ついでに渡された名刺に視線を落とすと、そこには「ファインアーツ&テクノロジー 代表取締役社長/アートコレクター 水川利春」と書かれている。

「アートコレクターと言っても絵画や彫刻を扱っていたのは昔の話で、今は現代アートやイーサリアムを始めとした、暗号通貨で取引されるNFTが主なビジネスです」

彼の口から飛び出す単語の半分も理解できなかったが、今後の展望をイキイキと語る利春の言葉に、自分の心がほどけてゆくのを感じた。

「雅さんはカルティエで、なにか探していたんですか?」

「トリニティネックレスを。でも在庫がなくて、買えなかったんです」

その日から頻繁に連絡がくるようになり、彼と食事を共にするようになった。

そして出会いから3ヶ月後の、クリスマス。銀座『ル・シーニュ』でシャンパンを開けると、利春は、真っ赤なカルティエの紙袋をテーブルの上に置いた。

「えっ、なにこれ…」

「いいから。開けてみて」

箱を開くと、そこにはトリニティネックレスが、シャンデリアの光を浴びてキラキラと輝いていたのだ。

「ダメです…。こんな高いもの、貰えません」

そう遠慮したにもかかわらず、ワイングラスをかかげる利春のペースに飲み込まれてしまい、そのまま彼に抱かれてしまったのである。

それからというもの、私の生活はガラリと変わった。

利春はアストンマーチンのハンドルを握り、美術館や一般の人が立ち入ることのできない旧跡、会員制ホテルのラウンジなどに、私をいざなってくれたのだ。

「僕と結婚してほしい」

そして迎えた、交際1年の記念日。利春は軽井沢にある大きな別荘で、カルティエのリングを私の薬指にはめてくれた。

― やっと、本物の男性に出会えた…。

彼からプロポーズされたそのとき、自分が幸せの絶頂にいることを実感した。

だが、そんな喜びもつかの間。事件は起きたのだ。




ある日の早朝。インターホンの音で目覚めると、玄関先にグレーのスーツを着た3人の男性が立っていた。

「三田警察署の者です。夏木雅さんですね?水川利春さんをご存知ですか」

「は、はい…。利春が、なにかしたんでしょうか?」

私は彼らを部屋にあげると、ソファに腰掛けて、拳を強く握りしめた。薬指にはめた婚約指輪が、手のひらに食い込む。

「ちょっと、リモコンお借りします」

刑事の1人がリビングのテレビをつけると、高層ビルの正面玄関から、段ボールの箱を次々と運び出す警察官の姿が映し出された。

画面の左上には、テロップで「ファインアーツ&テクノロジー社、800億円にのぼる巨額詐欺の疑い」と書かれている。

「どういうこと…?」

「代表取締役社長の水川利春とは、どのようなご関係ですか?」

「えっ…。あの、婚約者です」

私は足元が崩れ落ちそうになるのをこらえながら、淡々と状況説明をする刑事の言葉に耳を傾けた。

利春は暗号通貨を介した詐欺行為を、会社ぐるみで行っていたようだ。価値のないアートを購入させ、多額の利益を得ていたらしい。

そして彼はすでに逮捕され、三田警察署に勾留中だという。

あの夢のような日々はすべて、詐欺行為によって得たお金で叶えられていたと思うと、私は胃の奥底から、鉛のようなものがせり上がってくる感覚をおぼえた。

「何もご存じなかった、ということですね」

言葉なく頷くしかない私を、彼らは憐れむような目で見たあと「まだ結婚していなくて幸運だった」と機械的に励ましてきた。

…だが、それだけではなかったのだ。

「水川容疑者が、三田警察署から警視庁に移送されます!」

アナウンサーの甲高い声に、ふとテレビの方を見上げた瞬間。私は凍りついた。


雅がテレビを見つめて、凍り付いたワケ


「この人…。利春じゃ、ありません」

手錠をかけられ、両脇を固められた「ファインアーツ&テクノロジー社 代表取締役社長・水川利春」は、50代くらいの背の低い太った男で、私が愛し合い、何度もその腕に抱かれた男とは別人だった。

「水川ではない?どういうことですか?」

身を乗り出す刑事を前に私は混乱し、安堵なのか悲しみなのか判然としない気持ちで、ただ「この人は利春じゃありません」と繰り返した。



ファインアーツ&テクノロジー社の巨額詐欺事件は、被害額の大きさと話題性もあいまって、しばらくは世間を賑わせていた。

しかし大衆の興味も次第に薄れていき、いつしか別のスキャンダルへと関心が逸れていった。

それなのに事件から半年経っても、彼とは連絡が取れないままなのだ。

― 私が抱かれた水川利春は、いったい誰だったの?

もう彼のことは忘れよう。そう思った私は、利春から貰ったジュエリーや時計を抱え、質屋へ向かった。




「お客さん。これ、全部偽物ですよ」

「えっ…?」

「袋と箱はまぁ、本物ですけどね。中身は全部フェイク。申し訳ないですが、買い取れませんねぇ」

謎を残したまま、事件後に忽然と姿を消した利春。でも2人で過ごした幸せな時間だけは、嘘じゃないと思っていた。

だが彼が残した思い出は、完全に偽物だったのだ。それを理解した瞬間、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。

呆然としながら質屋を出た私は、フラフラと銀座の街を歩き出した。…そのとき。

「雅!」

聞き覚えのある声が、背後から聞こえる。振り返ると、そこには私が抱かれた“水川利春”が立っていた。

「会いたかった…」

驚いて立ち尽くす私を、彼が抱きしめてくる。ホコリと汗が染みついたコートからはすえた匂いがし、無精髭の間から膿のたまった吹き出物が見えた。

「あなたはいったい、誰なの?」

「…許してくれ。俺はあの事件には何も関わっていないんだ。俺は水川の秘書で、永山亮。雅に隠していたことは謝る。でも、どうしても雅に振り向いてもらいたかった」

彼は水川の所有する車や別荘、会社の経費、そして名刺を使って“水川利春”を演じていたと、その場で打ち明けてきた。

関係者として事情聴取を受けていたが、詐欺事件への直接の関わりはないことで立件されず、今は日雇いの仕事を転々としながら暮らしているという。

「一目惚れだったんだ。もう一度、雅とやり直したい。今度こそ本物の俺として、君と一緒にいたい」

金や地位、華やかな世界に目がくらんだ私は“偽物”に抱かれた。

ならば目の前にいる“本物”の永山という男に、私はまた抱かれることができるのだろうか。

まるで別人のような永山亮を前に、私はただ、立ち尽くすばかりだった。

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次回・表参道編。彼氏が“別の女”と会っているところを、尾行してみたら…?