感染症の流行により、私たちの生活は一変してしまった。

自粛生活、ソーシャルディスタンス、リモートワーク。

東京で生きる人々の価値観と意識は、どう変化していったのだろうか?

これは”今”を生きる男女の、あるストーリー。

▶前回:人気インスタグラマーなのに、誰からも誘われない…。自粛生活でわかった本当の自分の姿




Act10. 私の鎌倉ものがたり

2021年3月


鎌倉・材木座海岸まで、歩けば8分。

築50年は超えているが、手入れが行き届いた趣ある古民家を見て、森原美都は一目で運命を感じた。

三軒茶屋に住み、雑誌の挿絵や企業広告などを手掛ける28歳の新進イラストレーターとして活躍している彼女。

長引くコロナ禍で打ち合わせもリモートが中心となり、遊びも自由にできない状況に都会で暮らす意味をふと考えた。

― 引っ越すなら、海の近くの家がいいなぁ。

そんな思いつきで、鎌倉の海沿いで部屋探しをはじめたにもかかわらず、1軒目で理想通りの物件に巡り合えるとは思ってもみなかった。

「小さな庭もあって、ガーデニングも楽しめますよ。広いリビングはちょっとしたホームパーティーに最適ですし、バス通りも近いです」

笑顔で物件の説明をする不動産屋さんの言葉を聞きながら、頭の中にはこの家での想像が膨らむ。

― 朝は海岸を散歩。庭ではハーブを育てて、ぬか漬けにも挑戦したいな。海の音を静かに聞きながらヨガをして、縁側でシャンパンを楽しもうかしら

東京で生まれ育った美都は、郊外での、のびのびとした生活にずっと憧れていた。

だが、仕事が忙しく打ち合わせに便利な都会の生活に慣れきってしまい、きっかけもなかったので重い腰があがらなかったのだ。

しかし、当たり前の生活が一変した今、この素敵な物件との運命的な出会い…迷いはなかった。

「ここ、決めます。すぐに契約させてください」

住んでいる部屋とほぼ同じ家賃であるが、この雰囲気はそれ以上の価値がある。

― 憧れの鎌倉ライフ。いい出会いもあるといいけど。

実は美都、恋人と別れたばかりなのだ。住処を変えれば新しい出会いもあるはず。

そんな淡い期待も胸に抱きながら、引越しの準備を始めたのだった。


美都の元に訪れた、鎌倉での素敵な日常と出会い…


物件を決めてから1ヶ月後、美都は鎌倉へ引っ越してきた。

1週間かけて掃除し、お気に入りの北欧家具にあう内装にプチリノベーションをする。年季の入った和室にナチュラルテイストのソファやテーブルが程よくマッチし、さながら古民家カフェのような雰囲気となった。

周囲の環境も最高だ。

少し歩けば、海を見渡せる絶景のレストラン『アマンダンブルー鎌倉』もあるし、ハワイアンの『パシフィック ドライブイン』やお蕎麦の『鎌倉 松原庵』など、美味しいお店も充実している。

お酒が大好きで、三茶時代にはいくつか行きつけのバーがあった美都。この辺りにも昼から飲めるカフェバーがいくつかある。

美都は早速、開拓がてら近所で気になったバーの扉を開けた。




まだ18時前であるが、店内は地元の人たち数人でカウンターが占拠されていた。

年齢層は少々高めだったが、その分可愛がられるかもしれないと胸を躍らせる。その予感通り、最近引っ越してきたことを話しの足掛かりに輪に加わると、マスター含めみな歓迎してくれたのだった。

「へぇ。あの古民家、賃貸に出したんだ。僕、持ち主のこと知ってるよ」

「え、オーナーさんとお知り合いなんですか」

「うん。実は、リフォームを担当したのは僕なんだ」

そう話す男性は、地元で建築士をしている高梨。美都より8つほど年上で、サーフィンが趣味だという。

浅黒い肌に綺麗に整えられたあごひげが印象的な彼は、ワイルドながら紳士的な雰囲気を醸し出している。

バーに集まった人々の中で、指輪をしていない男性は彼だけ。

引っ越しの高揚感のなか、美都がときめくのも無理はない。しかもお互いの職業柄、クリエイター気質でセンスも合う。

コロナ禍ゆえ少々早めの20時の閉店まで、2人の楽しい会話が途切れることはなかった。

― よかった、鎌倉に引っ越してきて…!

美都は新居に帰り、心も体もほろ酔いの体温のまま布団に入る。

― 明日は庭にハーブを植えて、辻堂へホットドッグを買いに行こう。ぬか床も手入れをして、もちろん仕事もして、編集さんとリモート打ち合わせも…。

明日の予定を考えるだけで楽しかった。

風が運んでくる海の匂い。開放的な空気感。

大人が最後にたどり着く、等身大の自由な場所…。ここにはそれがある。

まだ住み始めて1週間ほどだが、美都の心は都会にいた頃より浄化されているような気がした。怖気づいて賃貸の家にしたが、もう少しお金が貯まったら購入を考えてもいいと思う。

― でも、もしかしたら近い将来、結婚するかもしれないし…。

何気なく、高梨と生活をする未来を思い浮かべてしまう。

彼は仕事終わり、たびたびあのバーに顔を出すという。店の人とも仲良くなったし、夕飯代わりに通うのもいい。

これから毎日続くであろうバラ色の生活に思いをはせながら、美都は夢の中へ旅立つのだった。


鎌倉での丁寧な暮らしを満喫する美都だったが…


2021年6月


「ねぇ、市役所の近くに『GARDEN HOUSE』っていう店があるんだけど、今度ランチに行かない?美都ちゃんに会いたいって人がいるんだ」

高梨からそんな誘いがあったのは、バーで何度か顔を合わせて少し経った頃だった。

「ぜひ!私、東京に住んでいたとき、代官山店にパンをよく買いに行っていたんです」

人を紹介するということに少々引っかかったが、もちろん美都はOKする。

― 高梨さんの男友達、かしら?

しかし…。

約束の時間に少し遅れていくと、店内で待っていた彼の隣には40代ほどの見知らぬ女性が座っていたのだ。

「はじめまして。お話はかねがね伺っております」

ぼう然とする美都に、高梨は笑顔で紹介する。

「紹介するね。妻だよ」

「え…」

左手の薬指だけで独身だと判断していた自分の浅はかさ。

結婚指輪は以前、サーフィンの際に紛失したせいで、普段はしていないのだという。

「夫から、東京から移住してきたお嬢さんがいると聞いて、ぜひ会いたいとお願いしたの。私も結婚前は、青山に住んでいたのよ」

にっこりと穏やかに笑う彼女だったが、表情や言葉の端々に牽制の心情が垣間見えた。

「もし、この辺りでわからないことがあったら何でも相談してね」

笑うと皺がはっきり浮かぶ、余裕を感じるナチュラルメイク。

ゆったりとした麻のワンピースを着た彼女は、緑豊かでナチュラルなテイストに溢れる店内で、違和感なく馴染んでいる。

そして、隣の高梨さんともお似合いだった。






「え、もう帰っちゃうの?」

「ええ…東京の友人から連絡があったので」

食事後、会話もそこそこに美都はすぐその場を立ち去った。

そして、美都の足は駅の構内へと向かう。気がつけば湘南新宿ラインに乗っていた。

渋谷で降り、中目黒に住む友人・麻梨のマンションへ向かう。三茶のバーでよく飲んでいた仲間の1人だ。

「へぇ…そんなことがあったんだ」

「そうなの!近所の人たちは、イイ人なんだけどね。都内じゃ普通にあるようなお店を珍しがったり、妙に落ち着いていて微妙に感覚がズレているっていうか…。年齢層が高いから仕方ないんだけどね」

久々にリアルで会う麻梨に、今日のショックな出来事をぶちまける。マンションの1階にあるコンビニでビールを買い、デリバリーのフードに舌鼓をうちながら…。

鎌倉にもデリバリーはあるが、お店はチェーンばかり。その上、配達パートナーの数が少ないので頼んだことはない。最寄りのコンビニは、歩くと10分もかかる。

話は尽きなかったが、気がつけば22時を回っていた。

「あ、もうすぐ終電の時間…」

「じゃあ、泊っていけば?」

「それが、ゴミを何日もためているの…。明日こそは出さないと」



23時前の早すぎる終電に揺られながら、美都は東京での暮らしを思い出す。

前に住んでいたマンションは、ディスポーザーもあり、他のゴミも24時間いつでも捨てられた。タクシーもすぐにつかまったし、電車やバスも5分おきに走っている。

「そういえば…ぬか床、ここ数日手入れしていないな…」

暑い日が続いたので、おそらく腐っているだろう。ハーブの水やりも忘れている。

同じ年代の友達がたくさんいて、平日でも声をかければすぐに会えるのが、東京。

― もしかして、私が自分らしくいられる場所、って…。

1時間以上かけて江ノ電の最寄り駅に降り立つと、そこには暗闇しかなかった。

バーで出会った地元の人によると、このご時世でなくても、この街の夜は静かなのだという。海の音と、海沿いを走るバイクのエンジン音しか聞こえない。

その瞬間、わかってしまった。美都にとっては今の生活がひどくつまらなく、寂しい。

「帰ろう、っと…」

134号線を歩きながら、美都は静かにつぶやいたのだった。

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