冬四夜「事実は小説より奇なり」


「というわけで、この最低男の話、明莉さんが連載している『怪談』にぴったりのネタですよね?ぜひ使ってください!」

きらきらと輝く、まだ二十歳の読者モデルの子。一通り話をして、ひらひらと手を振り去っていった。

青山通りから1本入ったところにあるこのカフェは、一軒家を改築した広々とした造りで居心地がよい。Wi-Fiも繋がるから、ライターの私が打ち合わせや、短時間の執筆に使う隠れ家だ。

平日の午前中に出入りしているのは、周辺にオフィスを持つ若いクリエイター、近隣の裕福なマダム。そして青山に憧れて観光気分でやってくる主婦など…意外にもバリエーションがある。

私は、都会にまつわる怖い短編小説をWEBで連載している。

ここで頻繁に仕事をしていることは仲間内に知れていて、今みたいに知り合いがふらりとやってきては、楽しいネタを提供してくれる。

でも、実際に聞いた話を小説にそのまま盛り込めることは、ほとんどない。

港区界隈のちょっとした面白い話は、たちどころに誰の話なのかがわかってしまう。だいたい2人くらい介せば、知り合いに行きつくから仕方がない。

だから怪談の大方は、実話のエッセンスを生かしながら、細部を一生懸命工夫してアレンジしている。

だけどそろそろ、それも終わり。まもなく連載は休止に入る。

今週の原稿を推敲していると、シルバーヘアが上品なマダムがふらりとやってきた。優雅な動作で革手袋を外すと、はす向かいのソファ席に座った。


マダムが語り始めた、衝撃の物語とは?


東京奇譚


「こんにちは。もしかして明莉さん?私は前川志野と申します。百合さんから、あなたのお話を聞いて…」

「あ、はい、明莉です。百合さんにはいつもお世話になっています」

PCを睨んでいたところを、急に話しかけられた私は、慌てて頭を下げた。

「都会の怪談、面白く読んでますよ。『あの小説が好き』って言ったら百合さんが、作者がよくここにいらっしゃるわよって、教えてくれたの」

「そうなんですか!すごく嬉しいです」

小説はコツコツ一人で書くもの。だから、コメント欄で面白くないと言われると、かなりヘコむ。でも、直接面白いと言ってもらえると、心から嬉しくなる。

私は浮かれて、名刺を差し出した。

「怪談はしばらくお休み予定ですが、また機会があれば読んでください」

「え?しばらくお休みなの?残念」

「ありがとうございます。書くのが面白くて、人の人生のキラキラ、ドロドロネタばっかり集めていたら、自分の相手も見つからないまま歳を取ってしまいました。少し仕事をセーブして、婚活でもしようかと思っています」

自虐を交えながら話すと、志野さんはさも可笑しそうに笑った。

「あら、明莉さん、まだ30代でしょ?私、主人と出会ったのは36歳の時。しかもね、それまでただの一人もお付き合いしたことがなかったのよ」

志野さんは、茶目っ気たっぷりに、「これも小説のネタになるかしら」と紅茶を一口飲んでから、ゆるゆると話しはじめた。



雨の夜の惨劇


私、美大を出ているんだけど、両親は当初、美大受験に反対していたの。しかも、油絵専攻なんて、就職しづらいから、心配したんでしょう。

それでも、なんだかんだ希望を叶えてもらったわ。一人娘だし親に恩返しもしたくて、卒業後は、出身の私立女子校の美術教師になったのよ。もともと画家になんてなれないことは、わかっていたの。

私は小学校から女子校だったし、美大も女の子が多くてね。就職したのも女子校だったから、まあ男の人に縁がなかった。

結構楽しくやってたから、気にしてなかったけど…。

さすがに30歳手前くらいになると「ここまでちっとも縁がないってことは、私って恋愛や男の人が苦手なのかな?」と思ったわ。

積極的に動けば、なんとかなっただろうけど…傷つきたくなくて「私は恋愛に興味がない。男の子もガサツで苦手」みたいな顔して、一番いい時期を逃したのよね。

そんな私に、運命の出会いが訪れたのは、もうすっかり結婚なんて諦めていた36歳のときだったわ。

教師って、夏休みは少しまとまって休めるから、そこで旅行に行くのが私の楽しみだったの。その年は、北海道を1週間かけて車で周っていたの。

あら、私が車を自分で運転するのが意外かしら?車って便利よ、遠くに行けるし自由になるのよ。あなたもぜひ、運転したほうがいいわ。

とにかくその日、私は小樽にいてね。あいにくの雨のなか、美味しいものでも食べようと、車を降りて傘をさして歩いていた。

大きな横断歩道を渡ろうとしたとき、道の向こうから真っすぐに歩いてくる男の人と目が合ったのよ。

その瞬間、雷に打たれたような衝撃をうけたわ。そして、すぐにわかった。

この人は、私の夫になる人だってね。


志野の物語は、あまりにも予想外な方向に…?そのとき明莉が気づいた違和感とは?


あら、明莉さん、もしかして引いてる?そうよね、信じられないわよね。

でもね、あの雨の夜、私は本当に思ったのよ。これまで男の人に全然興味が持てなかったのは、この人に出会うためだったと。

その証拠に、なんとその彼、今の夫の蒼馬も、私から目が離せない様子だったの。

私たちは、惹かれあうように傘をさしたまま、50cmの距離まで近づいた。何か言わなくちゃ、と思ったけど、一体何を言えばいいのかわからなくて、途方にくれたわ。

「私はあなたと結婚するみたい」なんて言ったら、頭のおかしな女だと思われるに決まってるものね。

でも、彼はまったく臆する様子もなく、こう言ったの。

「やあ。僕は、あなたと結婚するような気がするんです」って。

え?そんな話、小説にもできないって?

誰だって嘘だと思うわよね。

でもね、お互い東京に住んでいることがわかって、連絡先を交換したの。

東京に戻ってからすぐにお付き合いを始めて、半年後に結婚した。

それから10年、私は一生分の恋愛をしたと胸を張れるわね。大好きな人と、毎日同じ夕飯を食べて、時々けんかして、それでも並んで眠る幸福を知った。

私は36歳まで、こんな幸せがあること知らずに、生きていたんだなあと思ったわ。

…うかない顔ね、明莉さん。さすが小説家、気がついた?

私は今、56歳。36で結婚したとして、10年の幸せな生活って言われても計算が合わないわよね。

この話には、まだ続きがあるの。

46歳の、あれも雨の日のことだったわ。




週末は、2人で1時間くらい近所の青山霊園の周りをランニングするのが私たちの習慣だった。でも、12月のその夜は、小雨が降っていて、しんしんと冷えていた。

「少し頭が痛いの、今日は家で休もうかな」と私が言うと、彼は心配そうに「それがいいよ、帰りになにか夜オヤツ買ってくるから、2人でゆっくりお茶しよう」と言って出て行った。

1時間半後、1本の電話があって、彼が横断歩道でひき逃げ事故にあったと知らされたわ。頭を強く打っていて、発見が遅れたから、厳しいかもしれない。急いで病院に来てほしいって。

それから、いろんなことがあったんだけども、悲しいところは端折りましょうね。

もうすぐ、私は56歳。あの雨の夜から10年が経つけど、彼はまだ眠ったままなの。

新婚生活の10年と同じくらいの時間、彼は眠って過ごしていて、私は介護しているというわけなのよ。




明莉の決意


私は言葉を失って、志野さんが穏やかな笑顔で紅茶を飲むのを見ていた。

いろいろな感情が渦巻き、うまく言葉にできない。

安っぽい言葉で共感を伝えるのは嫌だった。

志野さんの話しぶりから、彼女が今でも夫を深く愛しているということが伝わってきた。

「…志野さんのお話をうかがっていると、現実の前では、小説なんてしょせん作り事なんだと痛感します」

私は、なんとか言葉を振り絞った。

友人知人から生生しい話を聞くたびに、結局、小説は現実にはかなわないということを実感していた。

すると志野さんは、ふふふ、とまるで少女のように明るく笑った。

「そんな大層な話じゃないのよ。ただ、人より少し遅く大恋愛をして、結婚して、10年で夫は事故にあっちゃったけど、一命をとりとめた、っていうこと。まあちょっと波乱万丈かもしれないけどね。

この東京で生きる一人ひとりの人生も、一見平凡だけど、苦しいことも楽しいことも、涙に暮れる夜も、忘れられないような別れもあって、小説みたいにドラマチックなんじゃないかと思うのよ」

志野さんはにっこりと笑った。

「でもそういうのって、皆、口に出して言わないから。キラキラして、幸せそうなところだけ、見せるでしょう?だから明莉さんの小説が“ちょうどいい”のよ」

「ちょうどいい、ですか?」

「そう。ほんとかな、嘘かな、あの人のことかな?って思いながら、ちょっとだけ他の人生を疑似体験できる。それから、東京でもう少し頑張ってみようって思うんじゃないかしら?」

私は、ちょっと泣きそうになりながら、なんとか一口、紅茶を飲んだ。

「それにね」

志野さんは、いたずらっぽく笑った。

「私は案外、10年目の奇跡を信じてるのよ。あの人が明日、目を覚ますんじゃないかな?って、結構本気で思ってるの」

「…そうしたら、私、その話を小説にします。怪談にたまに泣ける話があってもいいですよね?」

「そうね、楽しみ。じゃあ夫が目を覚ましたら、ぜひそうしてね」

それから私たちは、いつまでも話しこんだ。カフェの外は、冬とは思えないほどに暖かく、柔らかい陽の光が差し始めていた。

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