「こんな生活送ってる女と、付き合える男いないよ…」25歳の女が、恋人から全否定されたワケ
-ありのままの自分を、好きな男に知られたくない。だってきっと、また引かれてしまうから…。
高杉えりか、25歳。プライベートはほぼ皆無、男社会に揉まれ、明け方から深夜まで拘束される報道記者。しかも担当は、血なまぐさい事件ばかりだ。
だけど、恋愛も結婚もしたい。そんな普通の女の子としての人生も願う彼女は、幸せを手に入れられるのかー?
◆これまでのあらすじ
えりかは激務に追われる一方で、創太との関係を少しずつ深める。ところが出張の帰りに、トラウマの原因となった元カレと会ってしまい…。
2年前のその日は、東京で季節外れの大雪が降った日だから、よく覚えている。
「1時間ほど前までは粉雪だったんですが、先ほどから傘に当たるとビシビシ音が上がるくらいに激しく降り始め…」
えりかは朝5時から八王子に行き、中継と街頭インタビューを行い続けた。
ハンドマイクの持ち手は凍てつく外気に氷のように冷やされ、握りしめていた手のひらがしびれるようにピリピリと痛む。
雪もやみ、帰宅するために乗った中央線の特急に揺られながら、えりかは膝に乗せたマーク・ジェイコブスのリュックに目を落とした。
「…あ」
キルトの縫い目をなぞると、ところどころで黒い糸がぴょんと飛び出ている。
大学2年生の時、付き合って1年目の記念日に慎二からもらって以来、ずっと大切に使ってきたリュックだ。
ー大学生の時はよかったな…。
えりかは、慎二の家での出来事を思い出していた。彼のスーツから匂ったクロエの甘い香りが蘇り、胸が苦しくなる。
―就活のときだって、ESの添削してくれて、面接の練習も付き合ってくれて、優しかったな。
試験前に一緒に勉強したり、沖縄に旅行したり。何度も思い出すのは、付き合う前日、蒸し暑い夏の夜。
合宿最終日の飲み会でみんなはぐてんぐてんに酔っ払い、えりかも酔いをさまそうと古びた施設の外に出た。そこで慎二は、満天の星空を見上げながらひとりで煙草を吸っていたのだ。
屈託のない話で盛り上がったあと、ふたりは静寂に身を委ねて唇を重ねた。
初めてのキスだった。
人目を引く明るい笑顔、えりかをからかう声。大学生活の思い出すべてに、慎二がいた。
『仕事終わったんだけど、今から家行っていい?』
突き動かされるように指が動き、メッセージを送っていた。息を吐き、スマホをリュックに入れて目を閉じる。がたんがたん。電車の揺れが心地よい。
彼氏の家に行こうとするえりかだが、思わぬ人物に遭遇する
ブー、ブー。抱きしめていたリュックの振動で、はっと目を覚ました。
慌ててLINEを開くが、メッセージには既読もついていない。肩を落として社用のスマホを取り出し、ため息をつく。着信履歴1件、『社会部』。
「高杉です、お電話頂きました」
新宿駅の雑踏をかき分け、駅アナウンスや電車の音にかき消されないよう、えりかは声を張り上げた。
「お、新宿戻ってきた?」
「今着いたところです」
「お疲れのところ悪いんだけどさ、医療事故の謝罪会見が20時半からあるんだよ。それだけ行ってくれない?」
電光掲示板を見上げる。19時25分。会見に行けば、終わるのは早くて21時半。それから田町にある慎二の家に行っても、22時過ぎには着く。遅すぎることはないだろう。
「…わかりました」
電話を切ってすぐ、プライベート用のスマホの電源ボタンを押した。やはりLINEは来ていない。たった1時間既読がつかないだけなのに、言いようのない不安が募る。
『ごめん、1件仕事が入ったから、終わったら行くね。22時過ぎには行けると思う』
来ていいと言われたわけじゃない。だが今行かなければ、この関係が終わってしまう気がした。
◆
はぁ、はぁ。息を切らしながら『5』『0』『6』と数字を選び、インターフォンを押す。
記者会見は煮え切らない病院側と詰め続ける記者たちの応酬がたっぷりと行われ、司会が強制的に終了するまで続いてしまった。
呼び出し音がエントランスに響き、えりかはもう一度LINEを開く。最後に送ったメッセージは、22時37分。
『ほんとごめん、今終わった、、、タクシー乗ってくから23時ちょい過ぎにはつく!』
その前に送っていたメッセージにも、やはり既読はついていない。もう一度インターフォンを押そうと指を伸ばした時、自動ドアが開いた。
こつ、こつ。ハイヒールの音が反響する。マスカラに縁どられた瞳が、えりかのほうを向いた。
ふわり。脳裏で何度も蘇ったあの甘い匂いが、今度はリアルに立ち込める。
えりかは震える手でリュックからキーケースを取り出し、合鍵を差し込んだ。
2年前にもらったが、彼にあらかじめ使用すると伝えたとき以外に使ったことはない。もらった時は、本当に慎二の特別になれたんだとすごく嬉しかった。
心臓が痛いほど脈打っている。
部屋の前で息を吐き、背伸びをした。電気メーターは、ぐるぐると回っている。事件で張り込みをするときに、居留守をされていそうなら真っ先に確認しろと桑原から教えられた。
「これは事件だよ…」
思わず乾いた笑いが漏れ、ぽつりと呟いた。ためらいなく鍵を突っ込んで回す。
「慎二―。来たよー」
やっぱり、明かりがついている。スニーカーを脱いで揃え、リビングのドアを開けた。
「おー」
グレーのスウェットを着た慎二は予想に反して、こちらを見ようともしなかった。
ティファールの電気ケトルが、蒸気を噴いている。屈んでシンク下の戸棚をごそごそと漁っていた慎二は、あったあった、と声を上げた。手にはカップ麺を持っている。
えりかはリュックを下ろすこともできず、立ち尽くす。
焦るとか、怒るとか、そういう彼の反応を予想していたのだ。だが現実はどうだろう。視線すら絡まない。
「…慎二、遅くなってごめんね」
発した声は、弱々しく震えた。こんなことを言おうとしたんじゃないのに。嫌悪感にさいなまれる。
「別に。ていうか、来るって言ってたっけ」
カチッと音を立て、ケトルの電源が切れた。同時に、えりかは理解した。この人のなかに、もう自分はいない。
「…あのさ、さっきまでこの部屋…誰かいた?」
「なんで?」
否定もしてくれない。ロビーですれ違った女の値踏みするような視線を思い出す。まるで首を絞められているように息苦しい。
「…私のこと、好き?」
縋るえりかに、慎二が言い放った言葉は
ー好きと言ってくれれば…。
えりかは、慎二を見つめる。ようやく視線が交差した。好きと言ってくれれば、まだやり直せる。
ベッドに腰掛けた慎二は、ぺりぺりとカップ麺の蓋をはがしながら、口を開いた。
「…えりかさぁ、お前、プライベートなさすぎてもう付き合えないわ」
その声は、あまりにも普段と変わらない調子だった。
「約束したってほとんど毎回ドタキャン。食事行っても途中で仕事行くし、泊まりに来ても電話鳴りっぱなしで、朝4時とか5時に出てく。映画観に行っても、何度も何度も席立って」
「それは」
「社畜すぎんだよ。そんな働き方する女と、付き合える男いねーよ」
指先が、ひんやりと冷えてくのを感じる。
ーだから浮気したの?
そう聞くのは簡単だ。だがそれ以上に、もっと傷つくことが怖かった。唇が紡いだのは、「わかった」の3文字だった。
「鍵、置いてくね」
「…」
「今までごめんね。ありがとね」
そのあとのことは、あんまり覚えていない。浮気されていたことを追及できず、それどころか謝ってしまい、あまりにも情けなくてみじめで。いろんな感情が、大きな瞳から溢れ出た。
慎二の言葉は、あのときから呪いのようにえりかを締め付け続けていた。それなのに…。
◆
「で、最近どーなの」
2年前に田町のマンションで言い放った“呪いの言葉”と全く同じ声のトーンで、慎二は言った。まさか今頃になって、こうして再会してしまうなんて。
「最近?」
「仕事が忙しいのはわかったから、プライベートは?」
「別に、普通だよ」
えりかは居心地の悪さに、もぞもぞと姿勢を直す。どうして彼は、こんなに普通にしていられるんだろう。
「…いい感じのひとはいるけど」
言うつもりのなかったことを、悔しさに任せて付け足した。へえ、と慎二の唇が弧を描く。
「よかったじゃん。仕事を受け入れてくれる人がいて」
「いや…まだ、仕事のことは言ってない」
「まじか」
オリーブをつつきながら、慎二は軽い調子で相槌を打った。
「じゃあ、そのまま言わないほうがいんじゃね」
「え」
「だってキー局の記者って肩書だけで、あー俺の手には負えないなーって思われるし。適当にごまかして、とっとと異動することをおススメするね」
慎二は、えりかが記者を夢見て大学に入ったのを知っているし、就職活動をしていたのも一番近くで見ていた、はずだった。
頭を殴られたような衝撃に、めまいを覚える。
「…ごめん、このあと仕事行かなきゃいけないの思い出した。もう行くね」
「おー、久々だな。店に置き去りにされるの」
けらけらと慎二が笑う。
えりかは震える手で財布を開くが、千円札がない。勢いに任せ、五千円札をテーブルに叩きつける。ビール一杯しか飲んでいないけれど、もういい。
小走りで京急線の改札を抜け、階段を駆け降りた。
言い返せなかったのは、全部事実だからだ。大好きだった慎二は、忙しく働くえりかのことがイヤで浮気した。創太には、引かれるのが怖くて職業を言えていない。
夢を追いかけ、一生懸命働くのはそんなに悪いことなのか。じわりと涙がにじむ。
タラランタン。そのときスマホが振動し、画面を見ると桑原からだった。えりかは、すばやく通話ボタンをスライドする。
「出張お疲れ、八丈島どうだった?」
温かな声に、ぽろりと涙が頬を伝った。
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傷ついたえりかの元に駆け付けたのは、先輩である桑原だった。そこで思わぬ出来事が起こり…