スパークスのロン・メイル、ラッセル・メイル(Photo by Anna Webber)

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結成50周年を迎えたスパークスが、ニューアルバム『A STEADY DRIP, DRIP, DRIP』を発表した。バンドと親交の深い岸野雄一が、これまであまり語られてこなかった「歌詞」を解析することで彼らの本質に迫る。

オアシスやキリンジなど、実の兄弟によって活動していたバンドは世界中に数多くある。しかし肉親であっても一緒の活動が立ちいかなくなる事が起こるのだから、音楽を取り巻く表現の世界は過酷で不条理なものだろうと想像できる。そんな中にあって、兄のロンと弟のラッセルというメイル兄弟からなるバンド、スパークスは、1970年に結成された前身となるハーフネルソンから数えると、50年のキャリアを持つ息の長いバンドだ。前作の『Hippopotamus』(2017年)は全英チャートのトップテンにランクインするなど、かつてのファンだけでなく、アルバムを出すごとに若いファン層に再発見され続けており、コンサートは常に幅広い世代の音楽ファンが詰めかけている。活動期間の長さだけでなく、充分に現役のバンドなのだ。『ベイビー・ドライバー』の監督、エドガー・ライトによるスパークスのドキュメンタリー映画も、いよいよ完成したというニュースが入ってきた。また『ホーリー・モーターズ』でスパークスの楽曲を映画に使ったレオス・カラックス監督による、スパークスが音楽を手がけたミュージカル映画も進行中である。ともあれ、同時期にデビューしたバンドのほとんどが解散や活動停止してしまっている現在、これだけアクティブな活動を続けているだけでも貴重なのだが、スパークスの驚くべき点は、決して老成をせず、つまり音楽的にシブくなったりせずに、常にデビュー当時と同じ若々しさを保っているということだ。

彼らの1977年に発表された『Introducing Sparks』収録の「Forever Young」では、このように歌われている。「いま、この瞬間以外の自分を拒否する。僕は座ったまま、歴史の本がただブ厚くなっていくのを眺めていくことにするよ。僕は全てのルールを破ってきたけど、最後にこのルールも破るつもりだ。永遠に若く、永遠に正しい感性で」。つまり永遠に歳をとらないよ、というわけだ。このような視点は1971年のデビュー作から一貫している。

キャリアが長いバンドには、良い面と悪い面がある。悪い面のひとつとして、聴衆に聞かれるチャンスは多いけれど、ただ一曲を聞かれただけで、それが先入観となってしまい、バンドのイメージが固定されてしまうことだ。「ああ、知ってるよ。あのテのサウンドね。自分のテイストと違うから、もう聞かないよ」というわけだ。しかしちょっと待って欲しい。スパークスほど、時代によって作品のサウンドの傾向の違うバンドというのも珍しいのだ。むしろジャンルによって音楽を聞かない若いリスナーの方が、彼らの本質が掴み取りやすくなっているのではないかと思う。先ほど紹介した曲の2年後、1979年に発売されたアルバム『No.1 In Heaven』収録の「Beat The Clock」を聞いてみよう。

これが同じバンドだと思えるだろうか? サウンドだけ切り取ってみると全然、別なバンドのようだ。だが歌われている内容にはほとんど差がない。「僕は2歳で学校に入学して、その日の午後に博士号を取った。エリザベス・テイラー以外の全ての人間に会ったし、今や年老いたエリザベス・テイラーにさえ会った」といった具合だ。サウンドは変化しているが、バンドが扱うテーマ、コンセプトは一貫し続けている。しかしながら、このバンドの持つ一般的なイメージは「どこまでが本気か分からない、ひねくれポップ」といったものだ。そこで今回は、ニューアルバム『A STEADY DRIP, DRIP, DRIP』を聞くにあたって、これまであまり書かれたことのないこのバンドの歌詞とコンセプトにフォーカスをあてて、新旧を問わず重要な作品の訳詞とともに解析していきたいと思う。

間違ってこの世界に紛れ込んでしまったような違和感

今回発売となるニューアルバム『A STEADY DRIP, DRIP, DRIP』の一曲目を飾る「All That」は、スパークスが得意とするスロー・テンポの徐々に盛り上げるタイプの曲だ。

「All That」 (Live in Isolation)

1974年の傑作アルバム『Propaganda』B面の一曲目を飾る「家には帰れない(Never Turn Your Back on Mother Earth)」などが同様のスタイルだが、

こうした傾向の曲をアルバムの一曲目に持ってくることは珍しい。歌詞は「私たちの未来の行く末」について鼓舞するように歌われている。同様のテーマを扱い、また歌詞に「King and Queen」という言葉が出てくることから、1975年発表のアルバム『Indiscreet』収録の「Hospitality On Parade」を想起させる。

Hospitality On Parade

いつか新しい海岸線ができる、アトランティック(大西洋)にはもう飽きた
君たちの仲間とも、もう縁を切ろう
世界中に轟く銃声が、すぐにでも聞こえてくるだろう
すぐにでも銃声が
それまでの間、紅茶と煙草でもいかが?
さあ、ジェニーちゃん、ご主人様にご挨拶をおし
いい子できちんとお仕えするんだよ
僕たちのご主人様には、優しくしてあげなくてはいけないよ
でも僕たちにご主人様なんて本当に必要なのか?という気がしてくるね
だって僕たちはみんな、自分でご主人様にも、王様にもなれるんだから
(訳詞:鈴木亨)

そしてリフレインとなる部分は「僕は特別、きみも特別、彼は特別、彼女も特別、僕たちはみんな特別扱いされる人間なんだ」と歌われる。世界中に轟く銃声(A shot heard round the world)とは、1775年のアメリカ独立戦争のきっかけとなったレキシントン・コンコードの戦いについて書かれたエマーソンの詩の一節からとられた表現であり、その後の第一次世界大戦などの大きな戦争が始まるきっかけなどの表現として慣用句となっている言葉だ。日本で言えば満州事変といったところだろう。ともあれ、この歌詞は45年前に書かれたものでありながら、こんにちのアメリカのみならず、世界を取り巻く状況を言い当てていると思えないだろうか。先週作られた曲だと言っても信じる人は多いだろう。スパークスはことさら政治色を強く押し出すバンドではないが、時折、世界の方がスパークスの歌詞に近接する時がある。つまりそこに、普遍的に示唆するテーマが存在するということだ。これが彼らの表現が古びることのない理由だといえる。このように、現実世界に足をつけながら、生活圏を離れることなく、それでいながら舞台劇の音楽のように、我々を取り巻く状況や世界の有様を戯画化する。スパークスの音楽を聴いていると、まるで自分たちが暮らす日常的な光景が、舞台の書き割りの美術のように見えてくるという不思議な体験をすることになる。それでは彼らの初期の代表曲である「This Town Aint Big Enough For Both Of Us」を聞いてみよう。

This Town Aint Big Enough For Both Of Us

この街は僕たち二人には狭すぎる、だけど僕たちはこの街を見捨てはしない

このような感覚は世界中どこでも同じように感じ取れるものだろう。普遍的でありながら、ドメスティックな地元感覚に溢れた世界観である。映像の中で注目すべき点は、キーボーディストで兄弟の兄にあたるロン・メイルの挙動である。およそロック・ミュージシャンらしからぬ風貌で、まるで間違ってテレビ・ショウの収録に紛れ込んでしまったような強烈な違和感を残す。このイギリスのテレビ番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」の映像を観ていたジョン・レノンは、思わず「おい、テレビを見てみろ、ヒットラーがロックを演ってるぞ」と友人に電話をかけたという逸話が残されている。

ロン・メイルはインタビューで「今では素朴な人間などほとんど見かけられないが、それは別に自分を偽っているわけでもない。その事が私が曲を書く動機となっている」と発言しているが、このような「間違ってこの世界に紛れ込んでしまったような違和感」というのは、スパークスの作品世界を読み解くのに重要なキーワードとなる。

哲学的な領域にまで踏み込んだストーリーテリング

ところで最近はYouTubeで、リアクション動画というのが流行っている。初めてその曲を聞いたリスナーが、該当曲を聴きながらリアクションしたり感想を述べたりする様を映し撮った動画だ。大抵の場合は、およそその曲を好きだとは思えないような、イメージのかけ離れたリスナーが、予想外の反応を示すことが面白さとなっている。ここでは動画はリンクしないが、先ほどの「This Town」をコーンロウのヘアスタイルのアフリカン・アメリカン・リスナーなどが聞いた時の動画がいくつか上がっている。この曲は変拍子を使った複雑な構成の曲で、どちらかというとヨーロピアンなテイストを持った曲であるが、それでも彼らはノリノリのリアクションで、むしろ我々の持っている先入観の方が覆されるほどだ。ぜひ検索してご覧になってみてほしい。ここでは現代アメリカの郊外の様子を戯画化した「郊外暮らしのギャングスタ気取りの男の子(Suburban Homeboy)」を聞いてみよう。ヒップホップやラップの世界を描写しているが、音楽的にはミュージカルの劇伴のようなテイストなのが面白い。

Suburban Homeboy

僕は郊外のギャングスタ気取り
郊外暮らしの彼女といつも一緒
僕は郊外のイカしたギャングスタ気取り
うちのプールの清掃人に「YO!犬コロ!」と呼びかける
僕のブカブカのバギーパンツ、キマってる?
僕のかけてるシャギーはちゃんと聞こえてる?
GAPのショップでどっかのボンクラに銃をぶっぱなすのさ
だって僕は郊外のイカしたギャングスタ気取りなんだ

僕は郊外のイカしたギャングスタ気取り
車の装飾屋に「YO!犬コロ!」と呼びかける
アマゾンの通販でコーンロウのカツラを買ったんだ
ファラカンのスピーチも聞き始めたんだ
ジェイ・Zそっくりのゴルフ・キャディーと一緒にね
というわけで、だって僕は郊外のイカしたギャングスタ気取りなんだ

彼女がYOYOと呼べば、僕はYOYOと応える
というわけで、だって僕は郊外のイカしたギャングスタ気取りなんだ

僕らは郊外のイカしたギャングスタ仲間
「YO!犬コロ」と声をかけるのは神に誓って本気だぜ
僕らの気分はやっぱオールドスクール
オックスフォードやケンブリッジ並みのお堅い守旧派なのさ
仲間はリスペクト、でも、領収書(レシプト)はもらっておけ
そうさ、僕らは郊外のイカしたギャングスタ気取りなのさ
(訳詞:鈴木亨)

かなりシリアスで辛辣なアメリカの郊外都市の状況も、このように歌われると赤塚不二夫の漫画のひとコマのように見えてくる。ユーモアを交えた表現はスパークスの真骨頂であるが、彼らの持ち味はそれだけではない。人間存在の根源的な孤独感や、関係の不条理にフォーカスした作品も数多くある。そこでは抜群のストーリーテリングと描写力、人間観察の洞察力を見せつけてくれる。2002年のアルバム『ちびっこ ベートーヴェン(Lil Beethoven)』から「醜い野郎と綺麗な娘(Ugly Guys With Beautiful Girls)」をきいてみよう。

Ugly Guys With Beautiful Girls

醜い野郎と綺麗な娘
誰でも知ってる分かりきったお話
醜い野郎と綺麗な娘
それがいったい私たちに、どういう関係があるのか?
それがいったい私たちに、どういう関係があるのか?

醜い野郎と綺麗な娘 可愛い女の子を連れた不細工な男
かれらが腕を組み街を歩いているのを目にすると
つい考えさせられてしまう
最近、心に重くのしかかってくる問題なんだ
いったいどうしてあんなに外見のレベルが違う
お互いの魅力が全くかけ離れた男と女が
それにも関わらず
男女のお付き合いをしているように見えるのは、なぜなのか?

ケムリや鏡を使ったトリックなんかじゃない
ケムリや鏡を使ったトリックなんかじゃない
ケムリや鏡を使ったトリックなんかじゃない

醜い野郎と綺麗な娘
醜い野郎と綺麗な娘
醜い野郎と綺麗な娘
(中略)
ここまでお聞きになってくれた皆さん
正直なところこの問題の答えが分からないなんて
フリをしてきた私をお許し願いたい
というのも、私は大切な人を失ったばかりなのです
とても美しかったあの人を
あの男のような奴に奪われてしまったのです
(中略)
可愛い女の子を連れた不細工な男
誰でも知っている分かりきった話なのです。
(訳詞:鈴木亨)

スパークスの歌詞には、一面では捉えきれない感情の重層化、極端な振れ幅の差異の両立といった傾向が見受けられる。悲しい感情を面白く語ったり、面白い情景を物悲しく描写したり、だ。それがキッチュやキャンプ、ポップ・アートといった表層的なスタイルにとどまらず、哲学的な示唆を含んだ領域にまで踏み込んでいる。逆にいうと、そのことについて音楽評論の側が気がついて取り上げるようになるまで、50年の年月が必要だったということだ。1982年のアルバム『パンツの中の用心棒(Angst in my pants)』収録の「愛の化け物に喰われちまった(Eaten By The Monster Of Love)」を聞いてみよう。

Eaten By The Monster Of Love

土曜の晩 まだ一人で なんの予定も入れてない
愛という化け物との 死闘が待っている
世界最強の難敵だ 今もドアの向こうで うなり声がする
化け物が通った後には 草木も生えない
噛み潰された残留が 粘着物となって吐き出されて
ニタニタと笑って 光る

親父は言う「大丈夫だ」
と、見る間に餌食にされて…
戦争よりも悪く 死よりも惨たらしい
ほとんど全滅に近い
さぁ かかってこいよ
めそめそするのは大嫌いさ

味方がまだ残ってはいる
けど彼らも 少しづつ 確実に
削られてる 削られていく
ボクはまだ すばしっこく逃げてる途中だ、けど
(訳詞:山崎春美)

善良そうに見えて、タブーを破ってくれる痛快さ

さらにスパークスの特徴として、ロック・ミュージックにありがちな「反抗のポーズ」が見受けられないということがある。今でこそそんな雰囲気に惑わされる聴衆はいないが、60年代以降のカウンター・カルチャーとしてのロックの特徴として、不良っぽく見えるファッションやならず者的なたたずまいは、聴衆の共感を集め魅了するための大きな条件であった。しかしながら、スパークスにはそれらの要素が見受けられない。品の良さやファッショナブルな要素は彼らのヴィジュアルを目にすれば一目瞭然であるが、このような一般的なロック・ミュージックのイメージから乖離して距離を置いていることは、どんな意味を持っているのだろうか? 見るからに善良そうに見える佇まいとは裏腹に、スパークスの音楽にはタブーを破ってくれる痛快さがある。ロックの初期衝動が内在しているのである。ザ・フーのピート・タウンジェントはステージでギターを叩き壊し、キース・ムーンはドラム・セットを叩き壊した。ではピアノ奏者はどうするか?「ボクはビックリしたいんだ。あのヤンキーお得意の、ボーイ・ミーツ・ガールの物語はどこにいってしまったんだ」と歌う「Big Surprise 」の1977年のテレビ・ショウの映像を観てみよう。

タブー破りというと、いまアメリカの音楽家が最も言ってはいけないと思われる言葉を、あえてタイトルに持ってきたラブ・ソング「ベイビー、ベイビー、君の国を侵略してもいいかな?((Baby Baby) Can I Invade Your Country)」を聞いてみよう。

このようにシリアスな題材をユーモア溢れるやり方で表現する一方で、スパークスの歌詞には、一見するとナンセンスに捉えられかねない、意味の解読の困難なスタイルのものもある。1982年のアルバム『パンツの中の用心棒(Angst in My Pants)』には特に顕著であるが、誰もが知っているポップ・アイコンから、執拗なリフレインによって別な意味を引き出そうとする試み、「Micky Mouse」や「Tazan and Jane」「ヒゲ(Moustache)」などがある。世界中のどのバンドが「即席減量法(Instant weight loss)」というタイトルとテーマで、一曲を仕上げようと発想できるだろうか? 2008年のアルバム『Exotic Creatures Of The Deep』収録の「Photoshop」 もそうである。ニューアルバムには「そのクソッタレiPhoneを置いて、僕の話を聞いてくれ」と歌う「iPhone」という曲もある。アダムとイブの物語まで遡って、ヘビのような存在としてiPhoneを扱っているのが彼ららしい。

ロン・メイル「僕たちはスタイルの信奉者なんだ。鈴木清順の映画に似ているかもしれない。それはある種のポップ感覚のようなものだ。表現の内実をスタイル(形式)が押さえ込むという」

一見すると意味のない言葉、例えば「B.C」という曲では、Aaron、Betty、Charlie、という3人の家族の頭文字から発想された曲であるが、一度、ABCと言ってしまったら、もうあとは意味や物語を超えて、ABCを成立させる言葉の連なりが疾走していくという作りになっている。家族をめぐる別離の物語、という枠(フレーム)はかろうじて残るが、そこには早口でまくし立てるスパークス特有のスタイルのみが浮かび上がる。

B.C.

僕はアーロン、彼女はベティ、僕たちの息子はチャーリー、だから近所の人はこう言う、「フレー!ABC」と。

およそロック・ミュージックの歌詞とは思えない世界観と叙述である。とにかく早口でまくし立て、言葉の情報量が多い。彼らのレコードの歌詞カードは常に小さい文字でもビッシリで、一枚の紙に収まりきれないものだった。

さて、今回は彼らの歌詞にフォーカスをあてて、バンドが扱うテーマやコンセプトを解析してきたが、もちろんサウンドや楽曲の面白さも特別なものだ。それは別な機会に譲りたいが、今回のニューアルバム『A STEADY DRIP, DRIP, DRIP』では、さらに音作りの斬新さを推し進めて、彼らのキャリアの中でもポップと実験性がとても良いバランスで両立している。おそらく今年中か来年のはじめには、上記で触れた映画が公開となり、それがきっかけとなってまた新たなファン層を獲得することになるだろう。常に新作が楽しみであるバンドというのも珍しいが、初めて彼らのことを知った方々は、50年分のキャリアが丸々と新作のように楽しめるわけで、それは古くからのファンにとっては羨ましいことではある。


Photo by Anna Webber


スパークス
『A STEADY DRIP, DRIP, DRIP』
配信中
※CD/アナログレコードは2020年7月3日リリース
https://silentrade.lnk.to/drip

日本公式ページ:
https://wmg.jp/sparks/
https://magniph.com/sparks