新しい命をお腹に宿し、赤ちゃんとともに過ごす十月十日。

花冠をつけて、マリア様のようにやわらかく微笑むマタニティーフォトの裏側には、さまざまな物語がある。

たくさんの笑顔と涙に彩られるマタニティーライフ。

あなたに会える、その日まで。



市川優は、独立したばかりのテキスタイルデザイナー。結婚5年目の33歳だ。

不妊治療の末、念願の赤ちゃんを授かるも、早期の切迫流産で入院になってしまう。同じ病室で望まぬ妊娠をした妊婦と恋人との大げんかを目の当たりにして…




優がはじめて、不妊治療のために婦人科を訪れたのは1年半前。結婚5年目のときだ。

同い年の夫の亮介との出会いは、職場だ。同じ化学繊維メーカーに勤めていたが、優は美大出身のテキスタイルデザイナーで、亮介は化学繊維の研究員なので、まるで畑が違う。

芸術家肌の優と、理系人間の亮介は、思考回路が正反対だからこそ、お互いを尊重し合いうまくやっていた。

結婚自体は同世代の中では圧倒的に早かったが、「30歳までは子供は考えなくていいかな」というのは二人の意見だった。

しかし、二人が30歳を迎え「そろそろ…」と決意をしても、一向にコウノトリがやってくる気配はない。1年が経ち、2年が過ぎても妊娠には至らず、自己タイミングにも限界を感じ、不妊治療クリニックの門を叩いたのだった。

そんな中で、ようやく授かった命。そして切迫流産で入院。妊娠の喜びを実感するのもつかの間、安静の日々が続いた。

―不妊治療していた日が、なんだか遠い昔みたい…。

妊娠判明のつかの間の喜びは、急に押し寄せた危機で一気にかき消され、不安な気持ちはずっと続いていた。


いよいよ退院が決定し、“あの人”とも挨拶を交わすと…


そして、入院して3週間が過ぎようとしていた。

様々な境遇の妊婦と出会い、新生児室の赤ちゃんの姿を眺める日々の中で、少しずつ優の中に母親としての実感が芽生え始めていく。なんとか持ちこたえてくれた命に、言い知れない愛おしさがこみ上げるのだった。

「市川さん、もうすっかり数値も安定しましたね。まだまだいわゆる安定期は先ですが、退院したら、母子手帳をもらってきてくだい」

「え?!退院して良いんですか?」

「はい。大丈夫でしょう。ただし、無理は禁物ですよ」

担当の医師、玉木絵里子は笑顔で優にそう告げた。




入院生活が想像以上に長引いたせいもあり、退院を告げられた喜びは大きい。

早速夫の亮介に伝えようと思いつつも、まずはじめに優が報告したのは、入院生活を通じて仲良くなった隣のベッドの妊婦・夏実だ。

「おめでとう。頑張ったかいがあったね」

報告を受けた夏実は、そう笑顔で祝福してくれた。

「ありがとう」

そう答えながら優は、ちらりと横目で向かいのベッドを見る。

目線の先にいるのは、同じく同室の妊婦。優が入院してすぐの頃、病室で「シングルマザーとして育てる」とお腹の子の父親らしき男性に言い切っていた、明奈だった。

結局その彼氏とも和解せずに今に至っている様子の明奈とは、最後まで心から打ち解けることはできずにいた。

しかし、長い入院生活を同室で過ごしてきた妊婦同士だ。優は気を取り直して明奈の方へと足を進めると、にこりと微笑みながら声をかける。

「明奈さん。退院することになりました。もうすぐ正産期ですよね。どうか、元気な赤ちゃんを産んでくださいね」

明奈とお腹の赤ちゃんの健康を祈る気持ちに、偽りはない。お節介ながらに、あれ以来男性との目立った進展の見えない明奈の今後が気がかりでもあった。

優の心配そうな表情を見て、明奈はぽつりと口を開く。

「すみません…。彼氏とのやりとり、お見苦しいところお見せしてばかりで。…退院おめでとうございます」

「ありがとうございます。明奈さんはこのまま出産になるんですよね」

「はい。結局、入院の3ヶ月間、絶対安静。一度も帰宅できないまま出産です。まさか、こんなことになるなんて…」

「本当に大変だったんですね。じゃあ、赤ちゃんの準備とか…」

「もちろん、何もできていない状態での入院でした。でも今は、彼が張り切ってやってるみたいで…」

そう言いながら、明奈は少しだけ顔をほころばせた。

「いちいち買ったものの写真が送られてくるんですけど、ベビー服も何もかも全部ピンクやレースや花柄で、全然私の趣味じゃないんですけどね。女の子だから絶対にかわいいデザインの方がいいって、舞い上がっちゃって。なんだかおかしくて」

思いがけない優しい表情を見せる明奈を見て、優はホッと胸をなでおろす。

「それは良かった。もうすっかりパパですね。赤ちゃんもきっと喜んでくれますよ。パパが選んだ、かわいいお洋服」

「女の子ってパパに似るっていうじゃないですか。あの眉毛が遺伝したら、とてもピンクが似合う子になるとはと思えない。まるで西郷隆盛みたいになっちゃうかも…」

思わず優が笑うと、明奈もつられて笑った。話を聞いていた向かいのベッドの夏実も一緒になって吹き出したので、3人で笑いあう。

きっと、明奈は結婚する決意をしたのだろう。それ以上詮索せずとも、表情や口ぶりから察することができた。

少し気がかりなままだった明奈のこともすっきりし、翌日、優は晴れて退院した。


無事退院した優に訪れる再びの・・・


予定日まであと6ヶ月。久しぶりに外の空気を吸いながら優はお腹に触れた。自然と手がいくことに、いつのまにか気恥ずかしさも感じなくなっていた。

「元気に、大きくなってね」

こみ上げる愛おしさで、胸が温かくなる。

―私もそろそろ、新生児グッズとか考え始めないと…。

ベビーベッドの大きさは?そもそも必要?ベビーカーは対面できた方がいい?外国製の頑丈なもの?それとも国内メーカーのコンパクトなタイプ?

考えることは山ほどあるが、カタログを見ながら夫婦で意見を交わしながら選ぶのは、すごく幸せな作業だろう。

亮介に意見を聞きながらも、きっと自分が主導権を握ってしまうのだ。「優が好きなのにすればいい」と呆れたように亮介は言うだろう。そんなことを想像することすら幸せで、思わず1人で笑顔になってしまう。

自宅についた優は、ソファにゆったりと腰掛けながら、久しぶりの自宅をぐるりと見回した。

テキスタイルデザイナーを生業としているだけあって、インテリアのこだわりは強い方だ。赤ちゃんのための空間も、とびきりおしゃれにかわいくしたい。そう思ってイメージを湧かせていたときに、インターホンが鳴った。何か注文をした心当たりもなかったが、荷物の宅配のようだった。

ー亮介が買い物をしたのかな…?

受け取るために玄関を開けた優は、あまりの景色に面食らった。

「え?これなんですか?」

玄関で愛想を振りまく配達員のすぐ側には、まるでベッドのマットレスのような大きさの荷物がそびえ立っていたのだ。

「重たいのでお部屋まで運びますね」

配達員はそう言うと、背後に立っていたもう一人の配達員と2人で荷物を運び込もうとする。重さはマットレスの比ではないのか、男性2人で持ち上げるのがやっとのようだ。

優が慌てて伝票を確認すると、そこに記されていたのは母の名前だった。

「お母さんから?」

嫌な予感に、体が硬直する。大荷物を汗だくで運んでくれている配達員を無下にもできないので、ひとまず、リビングまで運び入れてもらった。

―何これ…。

愕然としている優に、電話が掛かってくる。慌ててスマホを見るとそこに表示されていたのは、まさにこの状況を引き起こした張本人である母親の名前が表示されていた。



「もしもし、お母さん?」

眉をひそめながら優が電話を受けると、スマホ越しに聞こえてきたのは母の能天気な声だ。

『あ。優?荷物届いた?』

退院おめでとうの言葉も、体調をねぎらう言葉もない。そもそも、こんな荷物が送られてくることすら事前に聞かされてもいない。どこから苦言を呈すれば良いのかわからなくなった優は、ただ絶句することしかできない。

「今、届いたけど、何これ?」

懸命に言葉を絞り出すと、母・悦子は浮かれた調子で話しだした。

『なにって、ベビーベッドよ。あなたとお兄ちゃんが使ってたのだから、もう40年前のだけど。当時良いもの買ったから、まだまだ十分使えるわよ』

「ちょっと待ってよ。いきなり送ってこられても困る。ベビーベッドを置くかどうかも決めてなかったし、必要だったら自分たちで用意するから」

『ベビーベッドは必要に決まってるでしょう。それに、あなたに赤ちゃんができたときのために、ずっと取っておいたのよ。当時何十万もした最高級のものなの。今その辺で売ってる安っぽいのとは大違い。作りもしっかりしてるし、サイズも大きいし』

うっすら記憶が蘇る。昔の写真に写るベビーベッドは、まさにサイズが大きく、かなり存在感がある。

「大きくない方がいいのよ。いらないと思ってたくらい。うちがマンションで狭いのわかってるでしょ?それに、いたずら書きもした記憶があるし、シールがベタベタはってあるよね」

『落書きだって思い出なんだからいいじゃない。それに、今どきの安っぽいのはダメよ』

「お母さん、はじめての赤ちゃんなんだよ。新品を買ってあげたい。不妊治療でなんとかできた子なんだから、最初で最後の子育てかもしれないの。好きにさせて」

受け答えする声に、苛立ちが滲んでしまう。しかし、母からの答えはさらに優の苛立ちを加速させるものだった。

『え?まさか、一人っ子のつもり?!そんなのダメに決まってるでしょ!』


止まらない母の暴走…


そうすっとんきょうな声をあげる母。古いベビーベッドを送りつけてきた上に、まだ生まれてもいない子のきょうだいにまで口出ししてくるその無神経さに、優は気が遠くなりそうだった。

「とにかく、また連絡する…」

これ以上話していてもラチがあかない。経験からそう知っている優は、適当なことを言って電話を切ると、その後の悦子からの着信を無視した。

そして、リビングにどん、と置かれた巨大な塊を目の前に絶望する。これを勝手に送りつけた上に、この大物の家具を組み立てろという強引さにも、とことん嫌気がした。

40年前の高級家具などこの部屋には合わないし、おそらくボロボロなのだ。母にとっては思い出深い大切なものなのかもしれないが、優には迷惑でしかない。

送り返すにも、配達員の人に申し訳ないという気持ちにすらなってしまうし、それに関する母とのやりとりで心をすり減らすのも辛い。

―あー…、涙が出そう。

母を責めるばかりの自分にもうんざりする。私のためを思って用意してくれたのに、どうしても、「ありがとう」の言葉は言えそうになかった。

―お母さん、ショックで落ち込んでるかな。でも、迷惑なのは間違いないし…どうすればよかったの。

優は、巨大な荷物の前で、ただ途方に暮れていた。

その時だった。

今しがた電話を切ったばかりのスマホが、優の手の中で震えた。電話ではなく、LINEの通知だ。悦子からだったら引き続き無視しようと決めていたが、受信相手の名前を確認した優は、驚きで「えっ」と声をあげる。

LINEの相手は、退院間際に連絡先を交換した明奈だったのだ。

ーどうしたんだろう?何かあったのかな…

不思議に思った優は、メッセージを開いた。そして、今上げた驚きの声よりも、さらに大きな声を上げる。

「ええっ?!」




LINEのトーク画面にあらわれたのは、なんと、生まれたての赤ちゃんの画像だった。

【急に陣痛が来て、あっという間に産まれちゃいました!眉毛の凛々しい女の子です。自分に似ちゃった、とパパは嘆いていますが、とってもかわいい!】

続いて送られて来た写真は、明奈と新米パパ、そして赤ちゃんの3ショットだ。

【婚姻届け、ギリギリ間に合いました。セーフ!初めての家族写真です。優さんと、ママ友になれる日が楽しみです】

言葉からも表情からも、すっかり明奈が“お母さん”になった様子が伝わる。つい先ほどまで悦子とのやりとりで荒れていた心が、ふいに訪れた幸せな報告のおかげで、ゆっくりと落ち着いていくのを感じた。

ー明奈さん、本当に、本当に良かった…!!

言葉にならないほど胸がいっぱいになり、返事をする手が震えた。

「おめでとうございます、明奈さ、ん…」

一文字一文字ていねいに、心を込めて祝福の言葉を打ち込んでいく。

興奮気味の状態で明奈とのトーク画面を開きっぱなしにしていた優は、この時、もう一人の意外な人物からLINEが届いていたことに、まだ気づいていなかった。

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優のスマホに届いていた、もう一通のLINE。その意外な相手とは