連載第3回

【一本足打法に挑戦した(させられた?)若き日々】

――前回に続いて、「名将」と謳われた三原脩さんについて伺います。三原さんは1971(昭和46)年から1973年までの3年間、ヤクルトの監督を務めました。この間、6位、4位、4位という成績でしたが、三原さんがヤクルトに遺したもの、与えた影響はなんでしょうか?

八重樫 三原さんはチームを大きく変えたと思いますよ。前回も言ったけど、それまでの別所(毅彦)監督時代は、いわゆる軍隊式のスパルタ指導。でも、三原さんは選手を大人扱いしたし、若い選手たちをのびのび育て、それが後の廣岡(達朗)監督時代に花開いたわけだから。

――確かに、1970年代序盤に三原監督の下で若手だった若松勉、杉浦享、大矢明彦、松岡弘、安田猛、そして八重樫さんらが、1978年の日本一の中心選手となるわけですからね。

八重樫 バッターで言えば、三原監督時代にヤクルト入りした中西(太)さんの指導を受けて、次々と多くの若手選手たちが開花していったのは間違いないからね。

―― 一方で、三原監督時代に(巨人コーチ時代に王貞治を見出し、一本足打法を伝授したことで知られる)荒川博さんが打撃コーチに就任したことで、当時のヤクルトの若手打者たちも「荒川道場」で一本足打法の練習に励んだそうですね。八重樫さんも一本足打法習得に向けて、練習をしたとのことですが……。

八重樫 確か、義理の息子(荒川堯)が入団した時に荒川さんが臨時打撃コーチに呼ばれて、その後、正式な打撃コーチとしてヤクルト入りしたんだよね。その時に、僕と杉浦(享)と渡辺(進)の若手3人が、「荒川道場に来い」と指示されたんだよ。


三原脩の後を受け、ヤクルトの監督を務めた荒川博 photo by Kyodo News

――前回話に出たファームの試合で大活躍し、三原さんに「本物になったな」と言われた時期に、すでに荒川道場に通っていたんですか?

八重樫 いやいや、三原さんに褒められた後に、荒川さんに「うちに来い」って言われて、杉浦と渡辺と3人で通うことになったんだけど……正直に言えば乗り気じゃなかったし、結果的に遠回りになってしまった気がするね。

――そもそも、三原監督からの指示で、「荒川道場」に通うことになったんですか?

八重樫 いや、三原さんからは特に何も言われた記憶はないなぁ。詳しい事情はわからないけど、気がつけば荒川さんに指導を受けることになっていて、猛練習をしたわけです。たとえば、神宮でナイターがある場合、普通なら3時くらいから打撃練習が始まるんだけど、僕たちはお昼12時には球場入りして、1時間素振り、その後はひたすらマシンで打撃練習。そして、3時から本体と合流して、夜は試合という毎日だったな。

【「調子を取り戻すのに10年以上かかったよ(笑)」】

――いくら体力のある若手とはいえ、かなり過酷な練習量ですね。

八重樫 本拠地・神宮のケースだけじゃなくて、遠征先でも猛練習は続いていたから、本当に大変だったよね。当時の遠征は、たいてい和室の旅館なんだけど、広めの部屋に荒川さんに呼ばれて、パンツ一丁で打撃指導の始まり。いろいろ指導を受けたけど、今でも覚えているのは「左足が着く前に振れ!」って言われたことかな。

――右打者なので、左足を上げてタイミングを計るというのは理解できるのですが、その左足が着地する前にスイングするというのは、意味がわからないのですが……。

八重樫 ねっ、そうでしょう。僕らも当時、まったく理解できなかった(笑)。実際に左足を着地しないとスイングなんかできないんだから。それでも、自分なりに「着地前に振ろう」と意識して素振りをするんだけど、荒川さんにはいつも「まだ遅い!」って叱られっぱなし。当時はよくわからなかったけど、今なら意味もわかるけどね。

――僕にはまったく意味がわからないんですが、どういうことなんですか?

八重樫 「スピードボールに負けないためには、左足が着地する前にスイングを終えているくらいの意識を持っていないと差し込まれるよ」という意味だったんだと思いますね。でも、その説明が何もないまま「着地前に振れ」とだけしか言われていないので、当時はまったく意味がわからなかった。でも、僕らは若手だったので、「これも修行だ」と思いながら続けていたんだけどね。

――結局、八重樫さんにとって、「荒川道場」の成果はあったのですか?

八重樫 今思えば、「荒川道場」で厳しい練習をしたおかげで、ベテランになっても投手の球に力負けしないスイングができたのかな、とは思うよ。ただ、その当時は効果を実感できなかったなぁ。荒川さんの指導を受けながら試合に出て、指導通りに打って、ヒットが出ても打っている気がしないんですよ。「捉えた!」っていう実感がないまま、結果としてヒットになっているだけ。全然、実感がないまま打席に入る日々だったな。

 正直、せっかく「バッティングのコツをつかみかけた」と思っていたのに、その後、バッティングの調子はずっと上がらなかったから。でも、後に自分がコーチになってからは、ようやく荒川さんの言いたいこと、伝えたいことが理解できるようになって、自分が打撃コーチになるときには、とても役に立ったんだけどね。

――つかみかけたバッティングの極意を見失ってから、あらためて調子を取り戻すのはいつ頃のことだったんですか?

八重樫 アマチュア時代も、プロに入ってからも、バッティングで迷うことはなかったのに、一本足打法に挑戦してからは迷いっぱなし(笑)。ようやくコツをつかんだのは、すごく後のこと。現役晩年が近づいてきて、中西さんの指導でオーブンスタンスで打つようになってからのことだから、10年以上も後のことだね(笑)。

 でも、荒川さんの指導は、杉浦には大きな効果があったと思うよ。当時の杉浦は普通に打っても、センターからレフトへの打球が多くて、ライトに引っ張ることができなかったんだ。でも、引きつけて打つ僕とは違って、前でさばくバッティングフォームは杉浦には合っていたと思うし、実際にライトへの弾丸ライナーも増えたしね。本人は認めたくないようだけど(笑)。


取材時に、現役時代の姿がプリントされたタオルを持って微笑む八重樫氏 photo by Hasegawa Shoichi

【三原監督はヤクルトに大きな財産を残した】

――在籍はわずか3年間でしたが、三原さんがヤクルトに遺したものとは何でしょうか?

八重樫 根底にあるのは「審判がゲームセットと言うまでは、絶対にあきらめるな」ということかな? たとえどんな状況であっても、勝負をあきらめない、手を抜かないということは徹底されていたから。僕はまだ若手だったけど、とくに何かを注意されたり、日常生活についても口やかましく言われたりすることもないので、のびのび野球ができたことも大きかったと思いますね。

――前回も話に出ましたけど、「選手たちを大人扱いする」という姿勢は徹底されていたようですね。

八重樫 そうだね。だから、選手たちからの尊敬も集めていたと思いますよ。若松さんにしても、大矢さんにしても、三原さんのことは今でも尊敬していると思います。僕がもう少し大人だったら、もっと三原さんのすごさも理解できたと思うけどね。ただ、自分で言うのもなんだけど、とにかく懸命に練習をしていたので、そういう部分を三原さんは評価していてくれた気がしますね。

――三原さんが亡くなり、八重樫さんが現役を引退し、しばらく経った後、中西さん経由で「三原ノート」を与えられたと聞きました。それはどういう経緯で入手したのですか?

八重樫 僕がコーチになってからのことだから、もう平成になってからのことですよ。中西さんには、現役時代からずっとお世話になっていたけど、このとき初めて「これを読んでおけ」って言われて、ノートを渡されたんだよね。そのときは、「ようやく中西さんにも認められたのかな?」って、嬉しかったね。

――このノートの存在を知っているのは、限られた人だけなんですね。

八重樫 (野村監督政権下のヤクルトで2度の日本一に貢献するなど、名打撃コーチとして名を馳せた)伊勢孝夫さんは、このノートを見せてもらったって言ってましたね。あとは、若松さんも当然、目にしていると思うけど、あとはわからないな。僕は、野村(克也)監督の下で、「野村ノート」を経験しているけど、「野村ノート」が話題になる20年以上も前から、野球選手としての心構え、細かいフォーメーションプレーについてまとめられていたのを見て、「三原さん、さすがだな」って、あらためて感じたよね。

――さて、気になる中身ですが……。

八重樫 それは企業秘密ということで(笑)。自分で書いたメモじゃないし、中西さんが僕を信頼して見せてくれたものなので、ここで紹介するのは勘弁してほしいな。ゴメンね。

――では最後に、「三原監督の3年間」を総括していただけますか?

八重樫 三原さんの監督時代、一度もAクラスにはなれなかったけど、それでも「強くなっているな」という実感はあったよね。その前の別所監督時代、僕はまだ1年目で一軍経験がなかったから、客観的に見ていただけだけど、あの頃は試合が淡白だった。相手に1点取られると、「あぁ、今日も負けだな」っていうムードになるんだよね。でも、三原監督時代はたとえ負けでも、最後まで粘るチームに変わったし、変な言い方だけど、「後々に役立つ負け方」だったから。そういう意味では、ヤクルトに大きな財産を残した監督だと思うな。

(第4回につづく)