2002年日韓W杯、ベルギー戦。コンディションを不安視する雑音を一蹴し、稲本は圧巻のパフォーマンスを披露した。(C)REUTERS/AFLO

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 日本中がサムライブルーに染まっていた。
 
 フィリップ・トルシエ監督率いる日本代表の面々は、その喧騒とフィーバーをもちろん体感していたが、基本的に試合日以外は外に出ない日々。普段は静岡・袋井にある「葛城北の丸」を根城に静かな毎日を過ごし、来る決戦に備えていた。
 
 2002年日韓ワールドカップ。グループリーグ第3戦、チュニジア戦の会場は、過去2試合の関東から離れ、大阪・長居スタジアムで開催された。稲本潤一にしてみれば故郷に錦を飾るではないが、かつてサッカー不毛の地と揶揄された地での大一番。当然、気合いが入ったという。
 
 そして2-0で勝利し、静岡へ戻るバスの中で信じられない光景を目の当たりにする。
 
「当時の代表の人気ってスゴかったやないですか。それこそ五輪代表のアジア予選でも、国立で徹夜組まで出て満員にしてくれる。それにずっと慣れてたから、ワールドカップでも驚きというのはなかった。でも、大阪はさすがにビックリしたかな。阪神が優勝してミナミがあんな風になるのはよく見てたけど、サッカーで、しかも代表の青一色になってたやないですか。感動しましたね。大阪でさえここまでなるんやと(笑)。誰も彼もがこっちを見て手を振ってくれた。なんかね、しみじみと嬉しかったですよ」
 
 トルシエジャパンでのレギュラーが確約されていた稲本だったが、大会前はコンディションを不安視する声が上がっていた。2001-02シーズンのアーセナルではもっぱらリザーブリーグが主戦場で、公式戦の出場はカップ戦の2試合のみ。試合勘がさすがに鈍っているのではないか。そんな見方が大勢を占めていた。
 
 だが稲本は、グループリーグ第1戦のベルギー戦で、驚異的なパフォーマンスを披露する。1-1で迎えた67分、相手ボールをカットして強引に持ち込み、左足で逆転弾を蹴り込んだ。じつに稲本らしい躍動感ある、ダイナミックなプレーだった。
 
「もう思いっきり行ってやろうって大会前から思ってた。後ろに戸田(和幸)くんがいましたからね。僕は戻るのは超遅いくせに、前に行くのだけはやたらと速かったりしたから、ある程度はチームの戦術の中でそこを活かしてもらえてた。イナは前に行くもんやという前提があって、チームが動いてくれてましたからね。すごく動きやすかったし、僕自身の調子も良かったから、ゴールを決めれたんやと思います。僕の持ち味が出たゴールやったし、あの左足の感触はいまでも残ってる。あれで逆転したわけやから、喜びすぎたかも。ホンマ、無我夢中でしたよ」
 筋金入りのエリートだ。15歳で世代別代表に初めて選ばれ、ワールドユース(現・U-20ワールドカップ)、シドニーオリンピック、アジアカップ、コンフェデレーションズ・カップなど名だたる国際大会をすべて経験してきた。だからだろう、ワールドカップに対しても特別な思い入れはなかったという。
 
 常人には考えもつかない領域の話だ。
 
「正直、ワールドカップってものに対してそんな強い想いはなかったかもしれない。出たことがなかったんでね。アーセナルで練習しながら、『来年のワールドカップのためにも腐らずに一生懸命やろう』とは思ってましたけど、ひとつの世界大会でしかなかった。自分で言うのもなんですけど、とんとん拍子ですべての大会に出てた。ある程度の結果も出してるし、その延長線上にあった感じですね。シドニーが終わって、よし次は2002年やなと。
 
 いま思えば、もっと楽しんでおけば良かったんかな。生きてる間に日本でワールドカップが開催されるなんてないやろうから。ただ、そんな想いでやってたからこそ、リラックスしてプレーできたんですよ。トルシエとの間で信頼関係はあったし、大会前にコンディションを上げていける自信もあった。いま? どうやろ、いまのほうが緊張するんじゃないですかね(笑)」