オーストラリアの情報があれば勝てると語るオシム監督<br>【photo by Kiminori SAWADA】

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 準々決勝を前に、選手宿舎で公式会見が行なわれた。いつもの会見では、記者の質問に対して、ナーバスで過敏でシニカルな反応を繰り返していたオシム監督だったが(それもわざとそう反応しているように見える)、この日の会見では、話をはぐらかすこともわずかで、いわゆるノーマルな会見という印象が残った。

 オーストラリアに対しては、「今まで戦った中でもっとも難しい相手であり、困難な試合になる。フィジカルやスキルの差をどう克服するかが課題になる」と話した。

「昨年のワールドカップでのオーストラリア戦は衝撃的な負け方だったが、そのショックが今回の試合にどう影響するのか?」という質問には、「1年もの長い間、ショックが続いていることがショックだ。対戦相手の情報をちゃんと入手していれば、昨年のワールドカップでもショックを受ける必要はなかった」とオシム節を披露した。

 2006年ドイツワールドカップ初戦、対オーストラリア戦を前に、“簡単に勝てる試合”だと考えていたのかどうかを、ここ数日思い出している。確かに親善試合のドイツ戦で結果内容ともに、素晴らしい戦いをしたジーコジャパンへの期待は小さくはなかった。欧州でプレーしている選手の数を比べておびえることもなかった。確かに勝てない相手ではないというイメージを持っていたのは事実だが、その思いと、試合後の落胆とは別のものだったように思う。

 試合会場からボンへの帰路、私は大きな駅で特急に乗り換えるのではなく、山をひとつ越えるような乗り換えを選んだ。時間はかかるが車内が空いていたからだ。山間を走る列車の中で思ったのは、チーム内にあった亀裂が、ボタンの掛け違いのような形でズレを産み、チームをそして試合を台無しにしてしまったことだった。

 失点シーンよりも、前へ攻め急ぐ選手と、ゴール前にへばりつく選手たちが生み出したスペースの大きさを思った。広大なスペースの真ん中で右往左往しているボランチの福西の姿。一人でふたりの選手をケアしきれない状況が悲しかった。小野や中田(英)はゴールへと向かっていたのだ。そのスペースを面白いように使われ、こぼれ球を拾われ、オーストラリアの波状攻撃が続いた。

 ジーコのチーム内では、前への意識の高い欧州組の代表としての中田(英)と福西の対立があった。「確かにボランチが高い位置でプレーして、そこでボールを奪えれば、大きなチャンスになる。しかし、僕は攻守の間に立つ人間として、後ろの声も聞かなくてはいけない」と福西は、ワールドカップ最終予選中から、何度となくそう語っていた。“後ろの選手”である、ディフェンスラインの人間は、福西が近くでプレーすることを望んだいたのだった。ジーコは何も言わなかった。

 結局、その問題は選手間の多数決のような状態で、“後ろの声”にあわせることになったようだが、大事な試合でそれが、崩壊した。オーストラリア戦での敗戦で、大会も終わったようなものだった。

 ゴールデンエイジと呼ばれる世代がいる。1979年生まれの小野、高原、稲本、中田(浩)、遠藤、小笠原、坪井らのことを指す。彼らが大きく成長した理由は幾つもあるが、そのひとつには、彼らが高校に上がる頃、日本サッカー協会が若年層育成のためのシステムを改善したことだった。そして、ちょうどその頃、2002年ワールドカップ招致活動もあり、彼らが中学、高校時代には海外遠征も頻繁に行なわれた。

 特に、U−17代表だった小野、稲本、高原は子どもの頃から、海外に出て鍛えられた。そして、同世代の選手たちも刺激を受けた。当然、彼らにとって、Jリーグ開幕も大きなモチベーションとなり、クラブ育ちの選手が力をつけた時代でもあった。ゴールデンエイジは偶然生まれたのではなく、日本サッカー界が時間をかけて育て上げた世代なのだ。ゴールデンエイジが25歳前後という、選手として最も油にのったときに、迎えたのがドイツ大会だった。それが、あっけなく幕を閉じたことが、ショックだった。