―私、もしかして不妊...?ー

結婚相談所に助けられながら、気が遠くなるほど壮絶な婚活を経て、晴れて結婚ゴールインを果たした女・杏子。

一風変わったファットで温和な夫・松本タケシ(マツタケ)と平和な結婚生活を送り、はや2年。

34歳になった彼女は、キャリアも美貌もさらに磨きがかかり、順風満帆な人生を歩む一方、心の隅に不妊の不安を抱えていた。

藤木というスパルタ婦人科医の診察に憤慨し、患者をVIP待遇する病院に転院した杏子。

女子会マウンティングにもめげずに治療に励むが成果は出ず、藤木の元に舞い戻り、とうとう社内に治療についてカミングアウトした。




「きょ、杏子さん...。今日は、会社は休んだ方が良かったんじゃないですか...?」

午後出勤で会社に現れた杏子の姿を見て、後輩の奈美はギョッと目を剥いた。

だが、それも仕方がない。

とうとう体外受精を決意し、午前中に藤木の元で“恐怖の採卵”を終えたばかりの杏子の顔は青白く、また下腹部にわずかに残る痛みが気になり、老婆のように腰を折り曲げて歩いているのだ。

「だ、大丈夫...、特に問題ないから...」

杏子はまだクラクラする頭を抱えながら返事をした。たしかに、今日くらい会社は休んでも良かったかもしれない。

だが、杏子はこれまで有休以外の休みを取ったことがほとんどないのだ。

激務だったジュニア時代は、風邪をひこうが高熱を出そうが出社する以外に選択肢がなかったし、むしろ一度でも休んでしまえば、心に甘えが生じて“休み癖”がついてしまうのが恐かった。

そんな社会人生活を10年以上も送っていたら、病院通いの許可は取ったとはいえ、多少無理をしても日頃の癖で会社にきてしまうのだ。

「そ、そうですか...。無理しないでくださいね。何かあったら、気軽に言ってください...」

チームの後輩である奈美には、杏子の事情は伝えていた。

それ以来、彼女はまるで腫れ物に触るかのように杏子に接したが、それをフォローする余裕は、少なくとも今はなかった。


とうとう体外受精に臨んだ杏子。その悪夢が蘇る...!


悪夢で蘇る、麻酔ナシの拷問的施術


「ひぃぃい!!!」

その日、真夜中のベッドの上で、杏子は自分の叫び声で目を覚ました。

全身にじっとりとした冷や汗をかいており、心臓はバクバクと大きな音を立てている。

―ゆ、夢だった...。

杏子は眠りの中で、今朝の恐ろしい採卵の悪夢を思い出していたのだ。

「卵巣にも卵胞にも特に問題はないので、麻酔はナシで採卵します」

採卵の施術直前の診察で藤木がそう言い放ったとき、杏子はまるで死刑宣告にも似た恐怖を覚えた。

藤木は涼しい顔で簡単に“採卵”というが、それは膣内から卵巣に針を刺して卵子を採取するという、聞いただけでも目眩がしそうな拷問的施術なのである。

「あの...、お恥ずかしいですけど、私は人一倍痛がりだし、注射だって苦手なんです。どうか麻酔を......」

最後の最後まで悪あがきを続けた杏子に、藤木は始終氷のように冷たい目を向け続けた。

「...貴方もしつこい方ですね。ちなみに当院では、痛みに耐えられず採卵を中断した患者はおりません。そんなに麻酔がしたいなら、他の病院に行ったら良かったでしょう。

私はね、この仕事に人生を賭けて挑んでます。よって、少しでも成功率を上げるための判断は私がします。だから松本さんもそのつもりで、我慢してください」

だが、最終的には藤木にそう一蹴され、杏子はとうとう無麻酔の採卵に臨んだのだ。




両脚はマジックテープのようなものでガッチリと固定され、まるで母親を思わせる恰幅の良い看護師に手を握られ「大丈夫ですよ」と何度も励まされながらの採卵は、後から思えば恥辱と滑稽そのものだ。

だが実際、針を刺される痛みはそれほど大袈裟なものではなかったと思う。気が遠くなるほど長く思えたが、施術時間も10分にも満たなかった。

「藤木先生の腕は日本一と言っても過言じゃないです。だから安心してください」

と看護師が囁いてくれていたが、それはきっと事実なのだろう。

しかし、“内臓に無麻酔で針を刺されている”という事実は、こうして悪夢で再現されるほど、杏子に精神的な痛みと恐怖を与えていたのだ。

―私のタマゴ、大丈夫かな...。

“採卵”が体外受精の最大の山場であると杏子は思っていたが、これからもいくつもの難関が待ち受けている。

うまく行けば数日後には受精卵を子宮に戻せるが、もしも採取した卵子に問題があれば、治療はさらに複雑になるだろう。

杏子は隣で大きなイビキを立てて眠るマツタケの膨らんだ頰に、そっと触れた。ナゼだが分からないが、夫の脂肪に触れると安心するのだ。

杏子が疲れているからと、今日の夕飯は、マツタケが大量のコロッケを作ってくれた。

彼も彼なりに色々と思うことはあるだろうに、大好きなファストフードやラーメンを控え、いつでも治療に協力的で、時に情緒不安定になる自分を明るく支えてくれる夫を心から愛しいと思う。

そして杏子は、そんなマツタケとの子どもを本気で欲しているのだ。痛みに弱く、病院嫌いという苦手意識を乗り越え、拷問のような採卵を決意するほどに。

そんな自分をどこか可笑しくも思いながら、マツタケのプニプニした身体にピタリと寄り添うと、今度は朝までぐっすりと眠りに就くことができた。

その翌日、杏子は病院から2つの受精卵ができたことを知らされ、無事にそれを子宮に戻すことができたのだった。


妊娠判定を待つ杏子に、“あの女”がエールを送る...!


モテ女が、モテ女たる所以


「とりあえず今のところ順調なんだね。よかった」

六本木アークヒルズ内のステーキハウス『ルビージャックス ステーキハウス アンド バー』のテラス席にて、由香は赤ん坊の頭を撫でながら微笑んだ。




先日、お互いの家庭の裏事情を明かして以来、二人はよく会うようになっていた。

“妊娠中に夫が浮気”なんて事件がもしも杏子の身に起きたならば、恐らくそれこそ絶望的な気分に打ちのめされ、再起不能状態に陥っていたと思う。

だが、由香は相変わらず飄々としていて、悲観することも焦ることもしない。

年下の夫は平謝り状態で、とにかく家に戻ってきてくれと懇願しているそうだが、由香曰く「実家の方が楽だし、彼への愛も冷めちゃったの」だそうだ。

それは彼女に元々備わっている“モテ女の余裕”なのか、あるいは“母は強し”というものなのか、杏子にはよく分からない。

だが、他人や世間に左右されずに自分の気持ちに正直に生きる由香を見ていると、自然と心が楽に、勇気づけられるような気分になった。

「まぁ、でも......妊娠できる確率は、30%くらいみたいなの。期待し過ぎないで判定を待つわ」

「そっか...。あのさ、ちょっと不謹慎なこと言ってもいい?」

すると由香は、透き通るような声を少しだけ潜めて言った。

「杏子が大変なのは分かるんだけど......正直言うと、私はちょっと羨ましいの」

“羨ましい”という言葉に、杏子は思わず「えっ」と声が裏返る。

「杏子は仕事も結婚も子作りにも、すごく真剣に向き合ってるでしょう?...少なくとも、私より。夫婦仲良く不妊治療に励むなんて、今の私にとっては羨ましい」

気づけば由香は、少しだけ寂しげな顔をしている。

「苦境を支え合える夫婦は幸せだよ。もしも今後妊娠が難しかったとしても、それでも私は、ずっと杏子が羨ましいままだと思う」

胸の奥が、きゅっと音を立てるように締め付けられた。

正直、“なぜ”という思いは今でも拭いきれていなかった。

未婚で特に子どもを望んでもいなかった由香が妊娠し、これほど時間もお金もエネルギーも費やしている杏子は妊娠しない。

人は人、自分は自分と、いくら割り切ろうとしても、その種の嫉妬のような感情は、心に引っ掻き傷のような跡を残している。

そんな自分を「羨ましい」と言ってくれる由香に淀んだ心の内側を知られるのが怖く、杏子はつい目を逸らしてしまう。

「でも、“陽性”になるように、私も祈ってるから」

そう言って由香が満面の笑みを見せたとき、彼女が“社内一のモテ女”という異名を欲しいままにしてきた理由が、やっと分かった気がした。

以前はただの“ゆるふわ系の女”としか思っていなかったが、由香はとにかく素直なのだ。あるいは、それは女としての強さかもしれない。

もしも母になることができたなら、自分も彼女のような強い女になれたらいい。

杏子は心から、そんな風に思った。

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待望の妊娠判定。果たして結果は...?!