脚色と誤解の数々…実は石田三成と徳川家康は険悪な仲ではなかった!二人の関係の誤解を解く【前編】

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険悪な関係ではなかった家康・三成

関ヶ原の戦いに至るまでの経緯については、豊臣秀吉亡き後の豊臣家維持に奔走する石田三成が、野心をあらわにする徳川家康と感情的に対立し、ついに対決することになった――という感じでイメージしている人も多いと思います。

こうした展開はドラマや小説ではおなじみのものです。しかし史実はそんなにドラマチックではなく、もっと地味で退屈なものでした。両者は特段親しいわけではないものの、表面上は無難なつきあいをしていたのです。

今回は前編と後編に分けて、こうした徳川家康と石田三成の人間関係に関する誤解について見ていきましょう。

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例えば慶長4年(1599)9月に家康が大坂へ赴いたとき、三成は自分と兄の邸宅を宿代わりに提供しています。また、前田利長が家康暗殺を企てているという疑惑が浮上すると、三成は徳川に護衛用の兵を送っているのです。

富山県高岡市にある前田利長像。利長は家康暗殺を計画した疑惑がもたれた。この疑惑は謀略だったともいわれる

また家康の方も、三成が豊臣恩顧の武将との諍いで謹慎すると、彼の息子である重家を登用して豊臣政権内のバランスをとっています。

両者とも事を荒立てたくなかっただけかも知れません。しかし感情的に対立していたのなら、わざわざ互いを庇うことはしないでしょう。

ターゲットは三成だけではなかった

そもそも家康が企んでいたのは、豊臣政権の実力者たちを排除することであり、個人攻撃ではありませんでした。

石田三成は豊臣政権の政務を担う奉行衆の筆頭格であり、個人的な感情の有無にかかわらず家康が排除を目論むのは当然の成り行きでしょう。

実際、三成失脚後は前田利長を暗殺未遂疑惑で、さらに宇喜多秀家も家中の騒動を原因に排斥しています。奉行衆だった浅野長政は謹慎させられ、さらには大老上杉家にも難癖をつけるなど、家康は逆らう可能性のある有力者を次々と排除していきました。

石田三成像(彦根市)

それでも三成ばかりが家康と険悪だったと思われがちなのは、三成が関ヶ原の戦いで西軍を実質的に指揮したことが一因でしょう。

しかし、家康と光成が感情的な対立関係にあったというイメージは江戸時代の創作物に基づいています。当時は両者のそうした対立があたかも存在していたように記す書籍が刊行され、そのイメージが補強されていったのです。

【後編】では、三成が上杉景勝と盟約を結んで家康を討とうとしたという共謀説に関する誤解を取り上げます。

【後編】の記事はこちらから

参考資料:浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社