愛おしい人といるときは、何気ない時間が特別なものに変わる。

そして、2人の時間をよりスペシャルなものにしてくれるのが、ワインだ。

ワインには、香りと舌の記憶とともに一瞬を永遠に留めてくれる不思議な力がある。

今宵も、ボトルの前に男と女がいる。

長い年月を経て、このテーブルに辿り着いたこのワインのように、とっておきの物語が紡がれる。

▶前回:港区の“ワイン会”に参加する27歳女。でも、実はワインの良さが全く分かっていなくて




Vol.11『バレンタインの夜に』麻美(28歳)


2月初旬の土曜日。

「ねえ、麻美。あれ、どうかな?美味しそうじゃない?」

同僚の桜子の弾んだ声に、麻美は振り向いた。

「うわ、美味しそう!ワインにも合いそうだね」

ショーケースの中の宝石のようなチョコレートを2人はうっとりと眺めている。ここは渋谷の東急本店通り。いくつかのスイーツショップを梯子し、2人は「テオブロマ」にバレンタインギフトを探しにやってきたのだ。

ワインが好きな2人は、何か理由をつけては一緒に出かけ、帰りは飲んで帰るというのがお決まりのコースだ。

「決めた。私、このボンボン・ショコラにする。麻美は?」

桜子は15個入りの箱を指して言った。食事会で知り合った彼と今年から付き合い始めた桜子にとって、バレンタインは初めて迎えるイベント。

「桜子は彼氏用だから選びがいがあるよね。でも私の場合…」

もごもごと口籠る麻美に、桜子は言い切った。

「思い切って付き合ってくださいって言っちゃいなよ。きっと向こうも麻美のこと気になってるよ!」

桜子にけしかけられ、麻美はあらためてショーケースをじっと見入った。

「うーん…自信ない。告白して今の関係が壊れたらやだもん…」

フラれてこれまでの関係が壊れるくらいなら、今のままでいい。たとえ彼女になれなくても。

麻美がそんな風に密かに想いを寄せる相手は、メーカーに勤める斗真だ。

実は、かつては明治大学のゼミで一緒に学んだ同級生であり、今は麻美と同じ中目黒在住のご近所さんでもある。

だが、2年前に偶然会うまで、麻美は思い出したことすらなかった。


麻美が、2年前中目黒に引っ越してきてすぐの頃。

「あれ?もしかして…?」と近所のコンビニで斗真が声をかけてきたのがことの発端だ。

麻美は、スーツ姿ですっかり落ち着いた斗真の変わりように驚いた。大学時代のガチャガチャした彼からは想像もつかないほど、彼は洗練されていた。

その時なんとなくLINEを交換し、時々近所で飲むようになった。麻美が仕事の愚痴を吐けるのも、将来の展望を語るのも、いつしか斗真になった。

「彼と一緒に飲んだりする時間が楽しいし、大事なの」

いなくてはならない存在だと気がついた時には、どっぷり好きになっていた。

「そっか…。麻美って頭はいいし、仕事もデキるのに、いざ恋愛となると消極的だよね」

桜子が残念そうに言った。

麻美は大学卒業後、現広告代理店に就職した。

3年前からグローバル事業部に配属。帰国子女という経歴を生かし、海外市場に向けてのリブランディングに関わっている。




時々海外出張もある。現地での仕事はコントロールできないことの連続だが、仕事だと割り切ればそれも有意義だ。

しかし、恋愛となると話は別。仕事のプレゼンテーションは、あれほど饒舌になれるのに。

「斗真に自分の気持ちを打ち明けるなら今だって、わかってはいるんだけど」

再会した頃、斗真には付き合っている彼女がいた。彼の勤務先は大崎にあるが、同じオフィスビル内で別の会社に勤めている人だと言った。

そして、約1年、別れたことも飲んでいるときに斗真自身から聞いている。

「ま、今日は私のチョコも買えたことだし、美味しいワインでも飲んで帰りますか!」

桜子が麻美の背中をポンと叩く。

「うん、飲もう!『アヒルストア』いこ!」



週が明け、忙しい日が続いていた。

仕事が忙しいのは、いつものことなのだが、麻美は来月から急な海外出張が決まったのだ。行き先はマレーシアで、期間は3ヶ月ほど。

おそらく今後は、こうした中期の出張で一年の半分くらいは日本にいない状態になりそうだ。

海外で多様性のある環境に身を置くことは、新しい視点や考え方を得ることができる。将来的にもメリットしかない。

だが、斗真と中途半端な関係のまま、日本を離れることが麻美は不安だった。

仕事帰り、家で食事を作るのも億劫で、麻美はいつものコンビニに立ち寄った。

― とりあえずお腹は空いてるから何か買おうっと。

カゴを片手にすぐ食べられるものを物色していると、入り口から見慣れた顔が入ってきた。

斗真だった。麻美には気づかず、アルコール飲料の棚を見ている。家から来たのだろう。スウェットにダウンジャケットという気楽な服装に、麻美はくすっと笑った。




棚の向こうから見られていることに気づかないまま、斗真は一本のワインを手にした。

「あれ?ビールじゃないんだ」

麻美が声をかけると、斗真は驚き振り向いた。

「麻美!これ、どう?美味しい?」

斗真が手にしているのは、チリワインの「コノスル」だった。

麻美はワインが好きだ。ソムリエが選んだワインが毎月届けられるサブスクにも登録しているほど。

「コンビニで買える手軽さもいいし、安くて美味しいよ。オーガニックだし」

麻美は答えながらも、なぜいきなりワインを買い出したのか気になった。いつも近所で飲む時は、第一声は「ビール!」だったはずだが。

― もしかして新しい彼女がワイン好きとか?

「最近になって目覚めた」と斗真は答えているのに、一瞬よからぬ想像が頭をよぎった。

「斗真、なんでいきなりワインなの?大学の時からビールしか飲まなかったじゃない」

麻美は、さりげなく聞いてみた。だが、斗真からの答えは、そっけない。

「いや、別に…おいしいから?」

これ以上、この話題には触れてほしくないようにも見え、麻美は話題を変えた。

「じゃあ、今度美味しいワイン、プレゼントするね。あ、そうだ。私ね…」

― 来月から3ヶ月海外なんだ。

言いたかったことが喉まで出かかった。

「私がどした?」

斗真に聞き返され、麻美はとっさに思ってもないことを口にしてしまう。


「ほら、斗真はどうせ今年のバレンタインは、本命チョコもらえない人でしょ?

私がイケてるワインを贈るね」

斗真の顔色が一瞬曇ったように見えた。しまった!と麻美は思ったけれど、その後の斗真の発言は、麻美を十分安心させた。

「そうだな。麻美にワイン教えてもらおうかな。ついでにどっかでご飯でも食べる?」



バレンタインに食事をする。

特別感のある響きだが、そこに期待はかけないほうがいい。だから、いつものように行き当たりばったり入れる店に入ればいい、と麻美は思っていた。

だが、「どこも入れなかったらどうするの?」という桜子の一言がひっかかった。

― 予約は必要かも…。

麻美は、特別な意味は感じさせないけど、斗真が好きそうで、雰囲気がいいお店をいくつかチョイス。桜子に相談して、そのうちの一軒『中目黒 いぐち 本店』を予約した。

そして、バレンタイン当日19時半。

麻美がお店に着くと、斗真は先に着いていた。

「ここ、来たかったんだよね」と嬉しそうだ。

「グラスワインのメニューをいろいろ飲んでみるのはどう?」

麻美がメニューを見ながら提案すると、斗真はそれに同意した。




そこから先は、いつもの近所飲みとまったく変わらなかった。ピンチョススタイルのおしゃれな焼き鳥をつまみ、飲み物がビールからワインに変わっただけ。

それでも店の雰囲気も手伝って、麻美は十分楽しかった。

コースも終盤に差し掛かった時、麻美は今夜言いたかったことを切り出した。

「そうだ、知らせなくちゃいけないことがあったんだ。

私ね、来月から当分マレーシアに行くんだ。たぶん2、3ヶ月くらいは行ったっきりだと思う」

「え?3ヶ月?今までもっと短期間じゃなかった?」

斗真は麻美が想定していた以上に、驚いてくれた。

「うん、現地でいろいろ整えたほうが早そうだってことになって。飲み友いなくなって寂しい?」

麻美は、冗談ぽく言ってみた。

「3ヶ月とはいえ、そりゃ寂しいよ」

斗真の返答に、麻美はすこしホッとする。そして、麻美は用意しておいたワインのプレゼントを手渡した。

「私がいない間に、ワイン勉強しておいてよ!」

斗真はその場で開封しようとしたが、麻美はそれを制した。

「家で開けなよ。そんな高いものじゃないし」

麻美が用意したのは、「ル・セー・ド・カロン・セギュール 2019」。サン・テステフのマルゴーといわれるシャトーで作られたワインだ。普段あまり赤ワインを飲まない人でも楽しめそうな、フレッシュさと口当たりの良さが気に入っている。

サードラベルで値段も6,000円前後と手頃だ。斗真へのプレゼントは、高すぎても、安すぎてもいけないと、麻美は考えていたからだ。

すると、斗真が思いがけないことを言った。

「せっかくだから一緒に飲みたかったな」

斗真の言葉に、麻美はなんと答えていいのか戸惑った。彼の言わんとしている意図がわからなかったのだ。

「うちで開けようよ。ここから近いし」

― えっ?この後ってこと?

戸惑っていると、「飲むでしょ?」と聞かれ、咄嗟に麻美はうなずいた。会計は「ワインのお礼に」と斗真がすべて払い、2人は店を出た。

初めて入る斗真の家。

きっと普段の生活もそうなのだろう。突然の訪問にも動じる様子もなく、ミニマムに整えられていた。

リーデルのワイングラスが2つ、店を出た後、コンビニでなんとなく買ったポテトチップと缶詰のつまみ。そして、プロジェクターに映っているのは、麻美の好きなネトフリのドラマ。




もっと早くこういう時間が持てればよかったと麻美は思った。

「もっと早く家飲み始めるべきだったな。店より気楽だよな」と斗真も言った。

最後の一杯になったとき。

「もしかして、これって、バレンタインだからハートのマークなの?」

ようやく斗真がワインのラベルに気づいた。

「ううん、いつ買ってもハートマーク。

チョコレート好きじゃないのは知ってたから、チョコじゃないものを渡そうと思って」

酔った勢いも手伝って、麻美は控えめに気持ちを打ち明けた。その時の斗真の嬉しそうな顔を、麻美は忘れないだろう。

「“本命ワイン”ってことでいいんだよね?」

そう言って、斗真は照れながら打ち明けた。最近ワインを飲み始めたのは、麻美を誘う口実になりそうだったからだと。

「もちろん、本命ワイン。私もこれまでの関係が壊れるのが嫌で、ずっと言えなかった…」

ここ半年、お互い同じことを考えていたことに驚き、麻美は、じんわりと嬉しくなった。いつの間にかテーブルの上で重ねられた斗真の手は温かかった。

▶前回:港区の“ワイン会”に参加する27歳女。でも、実はワインの良さが全く分かっていなくて

▶1話目はこちら:既婚男を好きになってしまった。報われない恋に悩む27歳女が決心したこと

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離婚前夜の夫婦が用意したワインは…?