愛おしい人といるときは、何気ない時間が特別なものに変わる。

そして、2人の時間をよりスペシャルなものにしてくれるのが、ワインだ。

ワインには、香りと舌の記憶とともに一瞬を永遠に留めてくれる不思議な力がある。

今宵も、ボトルの前に男と女がいる。

長い年月を経て、このテーブルに辿り着いたこのワインのように、とっておきの物語が紡がれる。

▶前回:「料理を作りに行くよ」を口実に、女の家を訪れる29歳男。曖昧な関係に終わりを告げたのは




Vol.9『失恋の後遺症』春香(28歳)


「はぁ…。全然終わらない…」

春香は小さく呟いた。

もうすぐ18時半。定時だというのに、PC画面上の仕事は終わりが見えない。

春香は、新卒で広告代理店に入社し、制作部門で6年実績を積み重ねた。ところが、年明けにまったく経験のない営業部に異動になったのだ。

それに加え、勤務場所まで、有明から表参道に変わった。

「吉瀬さん、企画書まとまりそう?」

同じ部署で2年上の柿沢が声をかけてきた。

「いえ。キリのいいところまでやってから帰ります」

春香が答えると、「じゃ、お先に」と柿沢はオフィスから出て行った。

チームで和気藹々と動いていた以前の部署に比べると、今の部署は、だいぶ雰囲気が違う。

まだ何ひとつ仕事が形になっていない春香は、若干居心地の悪さを感じている。

― だいたい、制作から営業に異動なんて聞いたことないよ…。なんで私が!?

「頑張らなくちゃ」という思いと「なんで私が異動?」という不満が入り交じって、仕事に集中できないというのが正直なところだ。

手首のApple Watchが振動し、LINEの通知が表示された。

「どう?仕事は慣れた?」

LINEの相手は、大学の同級生の日菜子だ。

「全然、ダメ。プライベートだけでなく仕事も終わった感…」

春香が手早く返信を打つと、トークはすぐに既読になった。

「話なら聞く、聞く!私ももう少しかかるけど、終わり次第合流してワインでも飲んで帰ろうよ」

日菜子に『OK』とスタンプを返しながら、春香はため息をつく。

― 失恋のショックから立ち直れてないのに異動なんて…。

実は、春香は昨年のクリスマス直前、4年間付き合っていた恋人に別れを告げられたばかりだ。


2023年12月初旬。

それは、彼の部屋で休日を過ごしていた時のことだった。

「ねえ、悟。今年のクリスマスイブが日曜日って知ってた?」

IKEAでクリスマスツリーを買っている誰かのインスタから、春香はその日が日曜日であることに気づいた。

春香は昨年と同じように、恋人・悟と過ごすつもりでいた。

悟は友人の紹介で知り合い、付き合い始めて丸4年になる。同い年で、同業他社に勤務。

春香も悟もワインと料理が好きで、手頃で美味しいワインを見つけては、お互いの家で一緒に料理をしたりと、春香にとっては、気を使わず、居心地がよかった。

「ね、クリスマスはどこかレストランにでも行く?それとも何か作ってちょっといいワインでも買う?」

しかし、悟の答えはにぶい。

「そうだな…。ごめん、まだ予定がわからなくて」

「でも、予約するなら早めじゃないと。土日で遠出とかどう?」

春香が顔を覗き込むと、悟は面倒そうに起き上がった。そして、言いにくそうに、話を切り出したのだ。

「春香…。クリスマス、別にいいんじゃない?」

「えっ?どういうこと?」

意味がわからず、聞き返す春香。




「あのさ、春香と一緒にいるのは楽ちんなんだけど、なんかその…刺激がないというか…」

目も合わさないまま、悟はボソボソと呟くように言った。

「それって、別れたいって言ってるの?」

春香は呆然となりながらも、彼が言わんとしていることを汲み取った。

「うん、まあ。お互い友達の方が楽ちんじゃない?その方がうまくやっていけそうだし」

理由は聞かなかった。

最近、悟の態度がそっけないことには気づいていたし、もしかしたらその原因は自分にあるのかも、とも思っていた春香。

泣いて縋り、追いかければ、より一層自分への興味は薄れるような気もした。

「すぐにうん、とは即答できないけど。少し考えさせて」

自分の中の理性をかき集めるようにして、春香は答えた。

その日を最後に悟とは会っていない。

4年も付き合ったんだから、そのうちまた悟から連絡してくるかも、と思っていたところもある。

でも、結局クリスマスも、年末も、お正月になってもLINE1通さえ届かなかった。

しばらくは、現実を受け入れられなくて、泣き暮らした春香だったが、自分から連絡を取ろうとは思えなかった。



時間はすでに19時30分。オフィスは人もまばらだ。

春香は、キーボードの手を休め立ち上がると、窓から眼下の街を眺めた。

表参道は金曜日の夜を楽しもうとする人々で、華やいでいる。

去年までの金曜日なら、自分もあの雑踏の中にいたのだ。

最近どうしてるんだろう?

ふと思い立ち悟のインスタを開いてみる。だが、11月を最後に更新は途絶えている。

― 私ってば、いつまでも未練がましいよね…。

そう思いながら、なんとなく「タグづけされたコンテンツ」を見てみる。

すると…。




悟は、ある1人の女性から頻繁にタグづけされていた。遡ってひとつひとつ見ていくと、初詣、年末のカウントダウン、そしてクリスマスもその女性と一緒にいたことがわかった。

― なんだ…。だったら他に好きな人ができたって言ってくれればいいのに…。

なんだか自分がものすごく惨めだった。

春香は、作業途中のファイルを上書きすると、荷物をまとめ足早にオフィスを出た。

とりあえず日菜子に連絡して合流場所を決めようと、バッグからスマホを取り出した。

失恋、異動…災難続きの春香を救ってくれるのは、もはや大好きなワインと女友達だけかもしれない。


20時半を回った頃、ようやく日菜子と合流した。2人でやってきたのは、赤坂見附にある定額制、飲み放題のワインバー。悟とも来たこともある場所だ。

「あ、私このワイン大好き!」

日菜子は、サン テステフ ド カロン セギュールをグラスに注ぐと、美味しそうにあおった。

「ハートのエチケットはかわいいのに、飲むとコクありの辛口だよね。私は違うのにしよっと」

「恋愛も同じだよ。甘いばっかりじゃない」

日菜子は早くもいい気分になっている。




こうして楽しく愚痴り合いながらワインを飲んでいると、2人の男性が入ってきた。

「あれ?もしかして吉瀬さん?」

春香が振り向くと、さっき春香よりも早くオフィスを出た柿沢がいた。

聞けば、大のワイン好きで、ソムリエ修行中の友人に付き合って、しょっちゅうこの店に来ているという。

「意外だな。ワインが好きなんて」

「詳しくはないんですけど、料理が好きなので、ワインとのマッチングを考えたりするのが楽しくて勉強中です」

ひと言ふた言、言葉を交わした後、柿沢は別のテーブルに落ち着いた。

一方、柿沢に「料理が好き」と自分から言っておきながら、春香は最近まともに料理すらしていなかったことに気づく。悟との思い出があるキッチンを、避けたいともいえる。

「ねえ、日菜子。私の失恋のダメージってさ…」

「思ってたよりも、大きかった」

日菜子に言われ、春香はハッとする。

「そうだよね。いい加減にフラレたって認めて、立ち直らないとね。なんか4年も一緒だったから、まだ信じられなくて…」



月曜日。心を入れ替えた春香に、新たな試練がやってきた。

「吉瀬さんの企画書悪くはないんだけど、営業的観点が強すぎるんだよな」

夕方になって上司に呼び出され、春香はダメ出しを食らったのだ。

「視点がダメってことは、このタイミングでやり直しか…」

おかげで、今日も残業決定。退勤の時間も優に過ぎているが、帰れずにいた。

ポジティブに捉えるなら、これも自分のステップアップに必要なものなのだろう。

しかし、異動して約1ヶ月。前任から引き継いだ仕事も、新規に与えられた仕事も何一つ満足に完結していない状況を鑑み、春香は沈んだ。

― もう、仕事辞めたいな…。

そんな考えがぼんやりとよぎった時、不意に背後から声をかけられた。

「それ明日にまわして、気分転換に一杯飲みにいかない?」

柿沢だった。

「えっ?でも…」

春香が躊躇すると柿沢は言った。

「飲みながら、相談乗りますよ。企画案の」

そして、連れて行かれたのは、彼が行きつけのワインバー。暗がりの階段を登り、重たい鉄の扉を開けると、果実の香りが漂ってきた。

「あれ、あります?」

柿沢がソムリエに尋ねる。すると出てきたのは、見慣れないエチケットの赤ワインだった。




「イル・ボトロ ニッツァっていうんだけど知ってる?」

「いえ、初めて見ました」

柿沢いわく、イタリアのピエモンテ州アスティ県、ニッツァ・モンフェッラートにあるブティックワイナリーで作られているワインだとか。ボトロはオーナーの愛犬の名前で、ラベルにもイラストがある。




促され、春香は一口含んだ。

「プラムみたいな果実やカカオのフレーバーを感じます。これ、すごくいいワインですよね?」

「そうだね。割と高級だからワイン好きと飲みたいんだ」

柿沢はふわりと笑う。

「イタリアといえば、ネッビオーロっていう品種が有名ですが、このワインで使っているのは、バルベーラというブドウ品種なんです。

かつては薄くてやたらすっぱい日常ワイン用の品種だったんですよ」

ソムリエが教えてくれた。

「かつてはそうだったけど、近年の地球温暖化の影響で、豊かになった果実味が強すぎる酸味を包み、ワインが美味しくなったんだって」

柿沢の説明に、春香は関心しながらうなずいた。

有名なキャンティも以前はあたりはずれが激しかったが、環境が変わったおかげで最近は全当たりだと柿沢は続けた。

「ワインと同じだよ。今の職場環境もしばらくすれば、吉瀬さんに合うように変わっていくから、いまは耐えどきなんじゃない?

聞けば、吉瀬さんは制作として十分結果を出してきたんでしょ?」

春香はハッとして、柿沢の方を見た。

「今の営業部に新しい風を取り入れたくて、配置されたんだとみんなは思ってる。ダメ出しを食らった企画だって、ちらっと見たけど、いい箇所もたくさんあったし」

柿沢に言われ、春香は気づいた。仕事の結果を出そうとする気持ちと、異動に対しての不満ばかりが先行して、まったく周りが見えていなかった。

「そうですよね。私、まだ何もしてないのに…。ありがとうございます」

グラスを持ち上げると、イル・ボトロの香りが鼻腔をくすぐる。きっと自分次第で状況は変わるのだ。艶やかな液体を見つめながら、春香は思った。

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