愛おしい人といるときは、何気ない時間が特別なものに変わる。

そして、2人の時間をよりスペシャルなものにしてくれるのが、ワインだ。

ワインには、香りと舌の記憶とともに一瞬を永遠に留めてくれる不思議な力がある。

今宵も、ボトルの前に男と女がいる。

長い年月を経て、このテーブルに辿り着いたこのワインのように、とっておきの物語が紡がれる。

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Vol.6『妻の疑惑』吉岡大和(35歳)


日曜の昼の下北沢。

バンドや演劇にのめりこんだ吉岡大和が、大学時代のほとんどを過ごしたこの街は、いまやすっかり姿を変えた。

ただし、若者が集まってくることには変わりがないようで、当時から毎週のように通っていたそのカフェは、あのときと同じように賑わっている。

そんななか、若者たちに紛れて大人の男ふたりが膝を突き合わせている光景は、異様かもしれない。

「妻とはどんな関係なのでしょうか?」

大和は知り合ったばかりの男・小暮智行に尋ねる。

小暮と対面すること自体は初めて。

しかし彼の存在は3ヶ月前から気づいていた――大和の妻・静香の密会相手として。

「妻?」

とぼけているのか、小暮が尋ねる。

「吉岡静香、僕の妻です。たびたび妻と会っていますよね?」



3ヶ月前――。

妻が見知らぬ男と密会していると気づいたのは、本当に偶然だった。それでいてありきたりな出来事だった。

祝日の月曜日の夕方、この下北沢の街で、2人が歩いているところを目撃したのだ。

大和は、情けないことに声をかけることができず、そのまま尾行した。

尾行しているときは、胸騒ぎが止まらなかった。


静香が下北沢駅の改札に入っていくのを見届けた小暮は、電車に乗ることなく東北沢方面へ歩いていった。

大和は、そのまま小暮を追った。

そして彼が裏通りのビストロに入り、そこでホールの従業員として働いていることを知る。

自分でも、なぜそんな勇気が出たのかわからない。

気づけば大和はそのビストロに入り、小暮の接客を受け、カラスミのペペロンチーノを食べた。

店員同士が会話から、彼が「小暮」という名前だと知る。

その日は、それだけで大和は帰宅した。

ペペロンチーノを食べるときも、会計時に小暮にクレジットカードを渡すときも、大和の手は震えていた。

それ以上に、心も震えていた。

帰宅すると、静香は夕食を作って待っていてくれた。

それは、何の因果かペペロンチーノだった。




それから3ヶ月間、大和はずっと思い悩んでいた。

むろん静香の不倫を疑ったからだ。

広告代理店勤務で仕事に明け暮れる毎日を送る大和と違い、結婚して専業主婦となった静香には「時間」も「お金」もあった。

― 不倫していてもおかしくない。

たった一度だけ、見知らぬ男と歩いている姿を目撃しただけ。

それでも大和は疑惑を拭うことができないでいた。

同時に相反するふたつの気持ちで葛藤もしていた。

ごく一般的な夫なら、ありえないことだろうが…。

「妻に不倫してほしくない」と「むしろ不倫していてほしい」のふたつの気持ちで板挟みとなっていたのだ。

独身時代の妻は、奔放で束縛を嫌う自由人だった。

大和はそこに魅力を感じて交際を申し込み、そして結婚した。

3歳年下の静香は、モデル、広報、ライター、バーテンダーなど様々な職業を転々としながら、時間を見つけては世界中を旅していた。

しかし、結婚と同時に自ら望んで専業主婦となった。

大和にしてみると、それはどこか寂しい決断だった。

― 俺は妻にとって足枷となっているかもしれない。

そんな思いに囚われる。

― 妻のことは愛している。だがいっそのこと離婚して、再び世界中を股にかけるように羽ばたいてほしい。

3ヶ月前、小暮と密会している姿を見てから、今になるまでずっと、そんな気持ちを否定できないでいた。

悩み抜いた末に例のビストロへ足を運び、小暮に声をかけ、静香との関係を問いただすことを決意したのだ。

本当に静香が不倫していたとしたら、これ以上、悩む必要はないから。




現在――。

「吉岡静香、僕の妻です。たびたび妻と会っていますよね?」

静香と小暮が会っているところを見たのは一度きりで、それ以外にも会っているか定かではない。

だが、鎌をかけるつもりで尋ねる。

「あ、静香さんのご主人なんですか」

見たところ、大和よりも5〜10歳ほど年上の小暮は、落ち着き払った様子で切り返してきた。

瞬間的に「この人には勝てない」という感覚が走る。

焦りが口をついて出てくる。

「僕は、あなたと妻の不倫を疑っているんです」


「私が静香さんと浮気を?」

小暮はやはり自分とは比べ物にならないほど大人の男だと、大和は感じた。

なにしろ一人称が「私」だ。

この期に及んで「僕」という一人称を使った自分が恥ずかしくて仕方ない。

「ははは、何を言ってるんですか」

小暮は笑った。

「静香さんと不倫なんて…そんな関係じゃありません」

「じゃ、どういう関係ですか?

僕は、あなたと妻がこの付近で2人で仲良さそうに談笑しながら歩いている姿を見たんです」

「たしかに、静香さんとはよくこの街を歩いています」

「ほら。それでも不倫ではないんですか?」

「当然ですよ。あれはワインスクールの帰り道ですから」

「えっ…」

「私と静香さんは、ワインスクールの仲間です。

池ノ上にある教室なんですが、静香さんは電車の都合で、私は店があるので、下北沢駅前まで一緒に歩いて帰っているだけです。

決して不倫関係などではありません」

優しい笑みをたたえて小暮は言う。

その笑顔を見ていると大和はみるみる冷静になり、この3ヶ月間ずっと抱えていた胸騒ぎが急激に薄まっていくのを感じた。

― たしかに最近、静香はワインにハマっていた…。

静香と小暮が会っているのを見たのは、たった一度だけ。

それなのに、妻の不倫を疑った自分が信じられない。

― 俺は、いったい何を考えていたのだろうか。早とちりがすぎる…。

情けなくて恥ずかしくて、どうにかなってしまいそうだった。

「すいません」

瞬間的に不倫を疑い、その疑惑はしばらく持続していたのに、今こうして瞬間的にその疑いが晴れてしまった。

「すいません…本当にすいません…」

大和は謝った。

小暮は笑っていた。




大和は、安堵して下北沢から帰宅した。

― 静香が不倫していなくて良かった…。

それこそ大和の偽らざる本音だった。

― やはり静香のことを愛している。離婚なんてしたくない。

結婚して2年。35歳にもなって中学生のように浮わつく自分が、情けなくて、恥ずかしくて、そして許せなかった。

だから自分を戒めるためにも、帰宅後、事の顛末をすべて正直に静香に話した。

「ウソでしょ…信じらんない…」

一瞬、呆気に取られたあと、静香は大きな口を開けて、手を叩いて笑った。

「あはははは!何考えてるの!?」

腹を抱えて体をよじって静香は笑う。

その笑い方は、初デートのとき予約した日時を間違え、予定より1週間も早くレストランに行ってしまったときと同じだった。

「それでよく広告代理店で仕事できてるよね!」

静香はあのときも、今も同じように言い、笑った。

「大丈夫…仕事のときは、こんなことはしないから…」

バツが悪い大和は、小声で言うしかなかった。

大和は心の底から静香を愛していた。

そのせいか静香のこととなると早合点することがたびたびある。

「専業主婦になったからって、私、不倫したりしないよ。だって私、専業主婦をつまらないなんて、思ったことないから」




「たしかに世界中を旅していたし、そのときは本当に刺激的な日々を送っていたよ。でも、今だって旅の途中。私にとって、あなたと結婚したことは、最高な旅の始まり。

この家であなたと過ごすことは、世界中を旅していること以上に刺激的で楽しいんだから」

そう言うと静香は、キッチンに大和を連れていき、半年前に購入した24本まで入るワインセラーの扉を開け、コレクションの数々を見せてきた。

いつのまにか、そこには静香がセレクトした世界中のワインが揃っていた。

「じゃ、今夜はこれを飲もうよ」

静香はそう言って『クラウディー ベイ』のソーヴィニヨン ブランを手に取った。

いわく、ワイン生産の歴史が新しい国を新世界(ニューワールド)と呼ぶらしい。

この『クラウディー ベイ』は、ニュージーランドのマールボロ産のワインだ。

「忘れないでね。あなたと一緒に過ごす毎日が、私にはいつも“新しい世界”なんだよ。

たとえば、今日みたいな早とちりは、新しすぎる」

そう言って静香は笑うことをやめない。

大和はやっぱり静香を愛している。

【今宵のワインはこちら】

ニュージーランドのマールボロ産のワイン『クラウディー ベイ』

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シングルマザーの不器用な恋愛