夫がクローゼットに隠していたレディ・ディオール。他の女への貢ぎ物を発見した妻は…
モノが溢れているこの時代に、あえて“モノ”をプレゼントしなくてもいいんじゃない?と言う人もいるかもしれないけど…。
自分のために、あれこれ考えてくれた時間も含めて、やっぱり嬉しい。
プレゼントには、人と人の距離を縮める不思議な効果がある。
あなたは、大切な人に何をプレゼントしますか?
▶前回:「もう結婚したのに…」別れた男との記念品を捨てられない人妻。ある日、元カレに再会し…
涼香(39歳)「今のワタシに似合うもの」
東京・三宿。玉川通りから一本路地を入った住宅街。
畠山涼香がシェフの夫・賢介と共に営むレストランだ。
「いらっしゃいませ。渡邉様、お久しぶりです」
涼香は今日も優しく微笑み、常連客を出迎える。賢介は、最高の料理をゲストに提供すべく、厨房で慌ただしく動き回っている。
「予約がなかなか取れなくてね。今日は楽しみにしていたよ」
「いつもありがとうございます」
老舗高級ホテルのレストランスタッフとして出会ったふたりが、13年前、結婚するのと同時に開いたこの店。
当時、賢介は29歳、涼香は26歳。始めてから数年は経営が厳しく、赤字続きだった。だが、次第に賢介の確かな料理の腕と、涼香の丁寧で温かなおもてなしが評判となっていき、いまや連日満席の有名店だ。
― 10年近く、苦労した甲斐があったな…。
涼香にとっては、賢介の料理に舌鼓を打つお客様の笑顔を眺めるのが、どんなことにも勝る至福の時なのだった。
しばらくすると、厨房から賢介が現れ、お客様に挨拶にやってきた。
「お、疲れてる?ボーとしちゃって!」
うっとりする涼香の顔を、賢人がおどけて覗き込む。その距離に近さに「もう!」と顔を赤らめていると、横で見ていた渡邉が冷やかすように言うのだった。
「うらやましいねえ。結婚して長いのにこんな仲がいい夫婦、見たことないよ」
― 仲がいい、か…。
涼香は渡邉に、意味深な苦笑いを返す。
確かに傍からはそう見える、と思う。軽口も叩きあうし、スキンシップもほどほどにある。記念日のお祝いも欠かさない。
しかし、13年間も同じ目標に向かって共に走り続けているだけあって、夫婦というよりも“戦友”…あるいは、“ビジネスパートナー”のような存在感だ。
多忙さと金銭的な問題で、子どもを持たない選択をした、ということもあるのだろう。
子どもの件は、今になって後悔することもある。が、気づけばもう40歳近いのだ。涼香の中では既に、諦めの気持ちが強かった。
それに、子どもの他にももう一つ、密かに諦めたものがあった。
「本当に美味しかったです。また来ますね」
「お待ちしております」
店を出ようとする若いカップルを見送る涼香は、女性が手にしているバッグに目を留めた。それは、お客を見送った後も、脳裏に焼き付いて離れない。
気品と華やかさを醸し出すカナージュの文様。
ゴールドに輝く“D.I.O.R.”チャーム。
手にする女性全てをプリンセスにする、そんな魔力さえ感じる名品──。
Diorのアイコンバッグ、『LADY DIOR』だ。
学生の頃から、ずっと涼香はこのバッグに憧れていた。しかし、当時はそうやすやすと手に入れられるものではなかった。
だからこそ、人生の目標にすることにした。
いつか、成功したらLADY DIORを手に入れるんだ、と。
…だが、目標を胸に走り続け、やっと余裕ができて、周りを見回してみると…。
そのバッグを持つ女性たちは、自分よりだいぶ年下であることが多いという事実に、気づいてしまったのだった。
◆
「今日も遅いな…」
店がお休みの日の23時すぎ。
賢介からは、元スタッフが営む系列店を視察した後、メディア関係者と会食だと告げられていた。
よくあることであるが、最近は休みのたびに0時以降の帰宅が当たり前になっている。
賢介は、明るくてにぎやかな場所が好きだ。女性のいる場所にでも行っているのだろうか、と、あらぬ想像ばかりがかきたてられてしまう。
― 近頃、シェフはモテるっていうし…。
一抹の不安がよぎったとき、最近店でよく見かける20代の美女の姿が頭に浮かんできた。
モデルをしているというその女は、店に出てきた賢介に対し、やたらと馴れ馴れしい態度だった。いつも違う連れと来店するため警戒はしていなかったが、その連れは賢介の知人たちで、カモフラージュのようでもある。
ボディタッチ。無意味に短いスカート。賢介の鼻の下が伸びているのには気づいていたが……。
― 昔から、可愛い女の子大好きだったもんね。なぜ私と結婚したのか不思議なくらいに。
私を選んだ理由は、おそらく妥協…なのだろう。
同じ志を持った、真面目な働き者。彼の夢をかなえるパートナーとして、私以上に相応しい相手はいないと、涼香も自覚している。
お客様の前に立つ以上、身ぎれいにはしているが、気がつけば年相応に加齢していることは否めない。
涼香はドレッサーの前で、LANCOMEのアイクリームを入念に塗り込みながらため息をついた。
― 彼は、若いころ手に入らなかったものを、今、得ようとしているのかな…?
女性の影に納得できてしまう自分が悲しい。
ダブルベッドにひとり潜り、涼香は静かに目を閉じるのだった。
結局この日も、賢介の帰宅は午前様だったようだ。
いつの間にか隣で眠っていた賢介の寝息で、目が覚めてしまう。
すっかり目が冴えてしまった涼香は仕方なく、まだ日も昇らぬ時間であるにもかかわらず身体を起こした。
「あれ…なんだろう」
寝室のウォークインクローゼットの扉が、わずかに開いている。
几帳面な賢介は、扉が少しでも開いていると落ち着かないタイプなのだ。涼香がうっかり閉め忘れると、その都度叱られている。
「…」
違和感が重なり、それは第六感となった。
おもむろにクローゼットを開けると、嫌な予感は当たった。
― これは…!
真っ白な、DIORのショッパー。しかもプレゼント用に包装されている。
あの女へのプレゼントだろうか…。絶望感を確かなものにするための衝動が、涼香を突き動かす。気がつけば無断で包装を解いていた。
入っていたのはやはり、ブラックのLADY DIORだった。
「素敵すぎる…」
思わず、感嘆の声が漏れた。
それがどんな意味を持つものであろうと、憧れの名品の輝きは、どんな感情をも屈服させてしまう。
そっと、手で触れる。艶やかで柔らかな触感。体中が熱くなった。
世界で一番欲しかったものが今、目の前にあるのだ。
しかし、涼香はすぐに我に返った。
― これは、私のものじゃないんだ。
虚無と悲しみが一気に押し寄せたその時、背後に気配を感じた。
「…!」
佇んでいたのは、賢介だった。同じ部屋のベッドで寝ていたのだから、気づいて当たり前だ。
「見つかっちゃったか…」
「ご、ごめんなさい。包みなおすね」
― 私、なんで謝ってるんだろう。そりゃ、他の人へのプレゼントを勝手に開けたのは許されないことだけど…。
怒ったり、問い詰めたりすることができたら、どんなにいいだろう。
けれど、そんなことはできない。できない自らの臆病さを、涼香は呪った。
そんな涼香の震える手を、賢介はそっと包みこむ。そして、意外なセリフを言った。
「来月の結婚記念日に渡すつもりだったのに」
「…え?私の?」
「他に誰がいるんだよ。ずっと欲しかったんだろう」
賢介が言うには、百貨店のショーウィンドウやお客様の手荷物などで、LADY DIORをうっとりと眺めながらもガマンし続ける涼香の姿が、とても見ていられなかったという。
「だって…私が持ったらイタいでしょ。LADY DIORって若い子のものだから」
「そんなこと、誰が決めたの?欲しいのは変わらないんだろう。絶対に今の涼香にしっくりくるはず。ホラ、早く持ってみてよ」
パジャマ姿ではあるが、手に持って鏡の前でポーズを決めてみる。不思議と気持ちが華やかになり、背筋が伸びた。
「本当だ…ずっと、自分のものだったみたい」
「僕のイメージだと、洗練された気品ある女性に相応しいバッグだと思っていたんだけれど、違うの?」
シックなブラックのカラーに、落ち着いた印象のラムスキン。
まさに今の涼香に、ピッタリとハマっている。
何よりも、持っているだけで気持ちが弾んで、どこかに出かけたい気持ちになったのだ。
◆
1ヶ月後の結婚記念日。
涼香と賢介はコンラッド東京に部屋を取り、久々にふたりだけの夜を過ごすことにした。
モダンチャイニーズレストラン『チャイナブルー』でディナーを堪能し、賢介とふたり、穏やかな時間を過ごす。
そんな涼香の傍らには、もちろん、あのLADY DIORが携えられていた。
自分には相応しくないと抱いていた不安は、いつのまにかどこかに飛んで行ってしまっていた。
至福の時を過ごしていたとき、賢介が突然姿勢を正す。
「…あのさ、子どものことなんだけど。まだ少しでも可能性があるなら、向き合ってみてもいいんじゃないかな」
それは、涼香もずっと胸に秘めていたことだった。それなのに最近は、はなから無理だと決めつけ、考えることも拒否していたのだ。
「え…」
「仕事は極力セーブする。実は、今はそのことを考えて、スタッフや系列店の教育に力を入れているところなんだ。ずっと苦労させた分、これからは涼香と共に歩む人生のために使いたいから」
「ありがとう。実は私も考えていたことで…」
涼香は思わず、賢介がプレゼントしてくれたLADY DIORを抱き寄せる。
― もしかしたら、諦める必要なんてないのかもしれない。いつだって、いくつになったって。
なめらかで上質なラムスキンの感触が、しっくりと手に馴染む。
あらためて涼香は、賢介とふたり、一歩先に踏み出せる勇気を手にしたような気がするのだった。
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