みんな隠しているけど、離婚する夫婦は大体“浮気”が絡んでいる。女弁護士が見た真実とは
平日の真ん中、ウェンズデー。
月曜ほど憂鬱でもないし、金曜ほど晴れやかでもないけれど、火曜とも木曜とも違う日。
ちょっとだけ特別な水曜日に、自分だけの特別な時間を持つ。
それが、アッパー層がひしめく街、東京で生き抜くコツだ。
貴方には、特別な自分だけの“水曜日のルーティン”はありますか?
▶前回:1年以上デートしているのに、絶対にお泊まりしない男。彼が隠していた秘密とは…
<水曜日のリセット>
弓削(ゆげ)栞(32):弁護士
ジリリリリ、という防犯ベルのような、けたたましい音が8畳の寝室に鳴り響く。
私はベルを叩いて止めるとすぐさまベッドから起き上がり、洗面所で顔を洗い歯を磨く。
目覚めはバッチリ。山梨の実家から持参した昔ながらの目覚まし時計は、東大受験時代を思い出して身が引き締まる。
同じく6時ちょうどにセットした炊飯器から、炊き立てのコシヒカリをよそって朝食にする。
白いごはんと納豆と卵。それからお味噌汁。
東大生として上京して一人暮らしを始めてから弁護士になった今でも、私の朝食はいつだってこのメニューだ。
私は、“習慣”というものを敬愛している。
ルール、と言いかえてもいいかもしれない。整然とした秩序が好きなのだ。
幼い頃から積み重ねてきた習慣は、その人の本質を作りあげる。そう信じている。
けれど、今日は水曜日だ。ある“新しい習慣”をこなすため、私は1人で気合を入れた。
「よし、やりますか」
「いただきます」と「ごちそうさま」をきちんと済ませると、食べ終わった食器をキッチンで綺麗に洗い、動きやすい格好に着替える。
今日は水曜日。
水曜日には特別に、ここ1年ほど前から取り組むようになった新しい習慣が控えているのだった。
所属している大手町の事務所には、9時半までに行けばいい。ここお茶の水のマンションからは、10分もあれば十分だ。
けれど私はこうして、毎週水曜日は必ず6時に起きるようにしている。
理由は、週に一度の大掃除のためだった。
Tシャツとショートパンツに着替えた私は、濡れた食器を拭き終えると寝室へと向かい、ダブルベッドのシーツを豪快に引っ剥がす。
布団カバー、枕カバーも全て剥がして、去年購入したばかりの11kgのドラム式洗濯機に放り込む。
剥き出しになったベッドをそのままに、1LDKの部屋を隅から隅まで掃除機がけする。シンクを磨き、テーブルを拭き、小さなベランダに出て窓を洗う。
そして、家中の全てのゴミをまとめてマンション内のゴミ捨て場に出してしまうと、ホコリひとつなくなった寝室のクローゼットを開けて、真っ白なシーツを取り出した。
「ふう」
少し疲れを感じた私は一旦そのシーツをソファの上に置くと、キッチンで熱いコーヒーを入れる。
ピカピカになったコーヒーテーブルで湯気を立てるブラックコーヒー。
そのすぐ横にある、パリッとアイロンがかかった真っ白なシーツ。
見事なまでの黒と白とのコントラストを見つめながら、コーヒーを飲み深い深呼吸をすると弁護士になったばかりの頃──、そう、まだ世の中の全ての事象には白黒がつけられると思い込んでいた頃のことを、なんとなく思い出すのだった。
東大を卒業して、晴れて弁護士になったばかりのあの頃。
私は傲慢にも、「この世の全ての不条理を解決してやる」という強い正義感を熱く燃え上がらせていた。
猛勉強を重ねて東大に入り、さらなる猛勉強の末に、ストレートで司法試験に合格。そのうえ難なく大手企業法務系弁護士法人への入所を叶えた私にはそれができると、本気で信じ込んでいたのだ。
けれど、現実は違っていた。
顧客の喜怒哀楽が見えない企業法務の仕事では物足りなくなり、2年で他事務所へと移籍したのはいいものの…。
個人案件、特に離婚案件を取り扱うようになってからは、何事も白黒つくと思っていた世界は、不透明で灰色なことを痛いほど思い知らされることになった。
シンプルな悪なんて、めったにない。
経済的DVをしていた夫。だけど、依頼人である妻には度を越えた浪費と借金で家族を困窮させた過去があった。
とか。
浮気相手との間に子を成した妻。だけど、依頼人である夫は長年夫婦生活を拒んで別居し、離婚も拒否し続けていた。
とか。
人間のすることにきっぱりと白黒つけられることなんて、そうそうあることではない。
世の中の曖昧さを突きつけられた私は、気がつけば最初の情熱はどこへやら。いくつもの案件を取り扱ううちに、いつのまにかすっかり自信を失ってしまっていたのだった。
洞木さんの離婚は、そんな灰色の毎日に疲弊した私が、久しぶりに本気で「この人の力になりたい」と思えた案件のひとつだった。
妻による精神的DVと浪費。さらには、度重なる浮気…。
最悪な妻の素行に苦しむ洞木さんは、完全な被害者だと思っていた。初めのうちは。
けれど、不動産の財産分与で離婚が長引くうちに、洞木さんは信じられない行動に出ることになる。
私との打ち合わせの場に、あろうことか女性を連れてきたのだ。
洞木さんは「友人です」と言い張っていたけれど、その、黒田という女性が洞木さんとただならぬ関係であることは、どう見ても明らかだった。
だって、洞木さんが黒田さんを見る視線は、すごく優しかったから。
― なんだ、はいはい。結局そういうことね。
燃えていた正義感がみるみる鎮火するのを感じた私は、弁護士という仕事へのプライドを、気づかぬうちに本当に失ってしまった。
そして、その1年後。
新宿でバッタリ出くわした黒田さんに、洞木さんの離婚が成立したことをつい漏らしてしまった私は、そのことにようやく気がついて愕然としたのだ。
◆
正確には、つい漏らしてしまった…ではないことを、心の奥底では理解していた。
「その節はどうも。洞木さんの離婚、無事に成立してよかったですね!」
黒田さんにかけた言葉は、ただの雑談ではない。浮気や不倫、嘘や欺瞞が溢れかえる、この灰色の世界への呪いの言葉だ。
黒田さんを偶然街で見かけた、その瞬間。私を失望させた灰色の世界の象徴を見つけた気がして…、衝動的に、ひとこと言ってやりたくなったのだった。
― 最低だ。最低だ。最低だ。最低だ…!
守秘義務をおろそかにするという、あり得ない失態。ひとに八つ当たりをするという、グロテスクな衝動。どん底まで落ちぶれた、自身の志。
何もかもに絶望した私は、正直心を病んでしまったのだと思う。
黒田さんに会って以来、友人に会うことも、休日を楽しむこともせず、ただただ幽霊のような無表情で、感情を殺したまま灰色の仕事をこなし続けた。
夜は持ち帰った仕事に埋もれてソファで寝落ち。食事だってろくに取らず、朝食なんて定番メニューどころか、水さえ飲めばいい方だ。
けれど、そんな毎日が続いていた、ある日の水曜日──。
ソファで浅い眠りに浸っていた朝の6時に、玄関のドアが激しく叩かれた。
「え…、何…?」
寝ぼけ眼を擦りながらうっすらとドアを開けると、ぐいと強い力でこじ開けられた隙間から、美しく磨かれた革靴が差し込まれる。
「入るぞ」
無表情のままピシッとしたスーツで部屋に入り込んできたのは、東大時代の一番の男友達、隆一だった。
「ちょ…急に上がってきて、何なの?」
そんな私の当然の問いかけを無視して、隆一は鋭い目つきで部屋をぐるりと見回す。
そして、
「汚ねー部屋」
そう一言呟くとおもむろにゴミ袋を取り出し、テキパキと部屋を片付け出したのだ。
「ちょっと!ほんとに何?」
「あんだけLINEも電話もしたのに無視されたら、心配するに決まってるだろ。
そんで、こんだけ散らかった部屋にいれば、病むの当たり前な」
隆一に指摘されて改めてスマホを見てみると、確かに、何通ものLINEも着信も無視している。
それに、言われてみれば、部屋は大きなゴミ箱のような有様だ。思えば、仕事への情熱を失い始めたここ数ヶ月の間、ずっと荒れ放題だったことに気づく。
人に迷惑をかけないとか、使ったものはすぐにしまうとか、幼い頃から身につけた習慣なんて、膨大な書類の山に埋もれてしまっていたのだ。弁解の余地はなかった。
呆けたようにただただ動けずにいる私の前で、隆一はどんどん部屋を片付けていく。
リネンを全て洗濯機へと突っ込み、隅から隅まで掃除機をかける。シンクを磨き、テーブルを拭き、小さなベランダに出て窓を洗う。
「じゃな」
全てのゴミを出すと、隆一は嵐のように去っていった。最後に、ベッドに真っ白なシーツを敷いて。
「いや、本当にどういうこと…?」
すっかりピカピカになった部屋で、取り残されたように私はポツンと佇む。
けれどその時、気がついたのだ。
すっきりとした部屋にいるだけで不思議と、まるで生まれ変わったような心持ちがする。
憂鬱が、よどみが、失望が、全てがリセットされたように…体の内側から、新しい活力が湧き出始めていた。
◆
それからというもの、毎週水曜日はこうして大晦日なみの大掃除をすることが、私の新しい習慣になった。
コーヒーを飲み終えて一息ついた私は、手早くカップを洗う。
そして、そばに置いていたシーツを手に取り、剥き出しになっていたマットレスを丁寧にベッドメイキングし始めた。
あの日隆一が敷いてくれたのと同じ、シミひとつない真っ白なシーツを敷いて。
私にとっての水曜日は、リセットの水曜日だ。
白黒つかない混沌とした灰色の世界でも、迷いで薄汚れていくダメな自分でも、こうして真っ白なシーツを敷くことができる。
白いシーツ。清潔な食器。ホコリ一つない床。くもりひとつない鏡。
そうしてせめて自分の世界だけでも美しく、白黒つけて出勤するのだ。
リセットされた心で、灰色な世界を少しでも白くするために。
洞木さんと黒田さん、そして洞木さんの奥さんとの間に、どんな事情があったのかは分からない。
けれど、弁護士を必要としている人たちの心はきっと、ぐちゃぐちゃに散らかった部屋みたいなものなのだろう。その人にしか分からない色々な事情が、複雑に絡み合い、彼らを苦しめる。
それなら私は、そんな彼らの心の片づけの手伝いがしたい。さっぱりとした気持ちで、人生をやりなおせるように。
― この世の全ての不条理は解決できなくても、きっと、それくらいはできるよね?
心の中でそう自分を奮い立たせながら、玄関で黒いパンプスに足を入れた。
▶前回:1年以上デートしているのに、絶対にお泊まりしない男。彼が隠していた秘密とは…
▶1話目はこちら:実は、妻と別居して3ヶ月。公私共に絶好調に見える39歳男の本音
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栞の部屋に乗り込み、突然片付けをしていった男友達・隆一の水曜は…。