1年以上デートしているのに、絶対にお泊まりしない男。彼が隠していた秘密とは…
平日の真ん中、ウェンズデー。
月曜ほど憂鬱でもないし、金曜ほど晴れやかでもないけれど、火曜とも木曜とも違う日。
ちょっとだけ特別な水曜日に、自分だけの特別な時間を持つ。
それが、アッパー層がひしめく街、東京で生き抜くコツだ。
貴方には、特別な自分だけの“水曜日のルーティン”はありますか?
▶前回:毎週出会いを求めて、アプリ三昧のバツイチ男。待ち合わせで、衝撃を受けたワケ
<水曜日の誇り>
黒田美咲(35):翻訳家
トースターから漂う小麦の香ばしい香りが、遅い朝の光に照らされた2LDKの小さな部屋を満たしていく。
こんがりと小麦色に色付いていくパンは、昨日の夜、家から程近い『LIBERTÉ PÂTISSERIE BOULANGERIE(リベルテ・パティスリー・ブーランジェリー)吉祥寺店』であらかじめ購入しておいたものだ。
大きな大きなパン リベルテを、未婚・一人暮らしの女が一斤まるごと買うのは無謀かと一瞬躊躇したけれど、そんな心配は私に限ってはやっぱり無用だったらしい。
生ハムやチーズ、レタスなんかを挟んでサンドイッチを作れば、無類のパン好きの私のことだ。いくらでも食べられる。
「ごちそうさまでした」
マグカップいっぱいに作ったフラットホワイトを飲み干し、贅沢なブランチの余韻に浸る。
そして、すでに半分になったパン リベルテをワックスペーパーで丁寧に包むと、いつものようにパソコンに向かって原稿に取りかかる───のではなく、鏡台の前に座った。
だって今日は他でもない、水曜日だから。
私には、水曜日には絶対に欠かすことのない、ある儀式があるのだ。
鏡の前に座った私は、丁寧にメイクに取りかかる。
クラランスのスキンケア。シャネルの下地。ディオールのファンデーション。
トムフォードのアイシャドウと、またしてもディオールのチークとハイライトをはたく。プチプラの韓国コスメで念入りにアイラインとアイブロウ、マスカラで顔を作っていく。
最後にルージュ・エルメスの22 ブラウン・ヨッティングを引けば、完全によそ行きのメイクの完成だ。
メイクを終えるとクローゼットへと向かい、部屋着から先月Drawerで買ったばかりの秋物のブラックのワンピースに着替える。
「これでよし…っと」
メイクと着替えを済ませて姿見に映る自分は、先ほどまでの大口を開けてパンにかぶりついていた自分とは、まるで別人だ。
自慢じゃないけれど、なかなかの美人に見える。
今の自分にできる精一杯のおしゃれで身支度を整えた私は、けれどどこへいくでもなく、仕事場にしている小さな部屋へと向かう。
そして、とびきりのおしゃれのままデスクにつきパソコンを立ち上げると、いつものように原稿に取りかかった。
イベント会社勤務から、翻訳家へと転身して3年。
最初はかなり苦労したけれど、どんな小さい仕事も丁寧にこなしていくうちにツテが広がり、おかげさまで今ではこうして少しいいコスメも買えるくらいの収入を得られるようになった。
小さいけれどこの通り、吉祥寺に2LDKの家も借りることができている。
それになにより、今の仕事は自分の性格にすごく合っているように感じる。
何時に寝ても、何時に起きてもいい。
飲み会だって無いから、3食全部大好きなパンだって構わない。
完全に在宅で、たまの打ち合わせが無ければ誰に会う必要もない。
大勢でワイワイ集まったりする必要がなく、家で黙々とできる今の仕事は多分、1人が好きな私にとっては天職なんだと思う。
◆
「うう…ん、今日はここまでにしますか…!」
8時間ほどパソコンに向かい続けた後、私は独り言を言いながら大きくのびをした。
寝室のクローゼットへと戻り、Drawerのワンピースを脱ぐ。
お風呂に入り、念入りに施したメイクを念入りに落とす。
気楽な部屋着に着替えて、カルディで買った缶入りのスパークリングを開けながら、ブランチの残りのパンと生ハムで夕飯を済ませる。
結局私の渾身のおしゃれは今日も、誰にも見られることのないまま終わってしまった。
けれど、それでいいのだ。
誰にも見せることのないおめかし。それは、私のつまらない誇りなのだから。
そう。大介を失ってしまった私の、つまらない誇り。
◆
「大丈夫?なんか具合、悪そうだけど?」
「あ…いえ…はい…」
それが、大介と交わした初めての言葉だった。
大介が担当しているという大手不動産会社のショッピングモールでの、K-Popアイドルのイベント。
その現場で、スタッフのくせに人酔いしている私を見つけた大介は、そっとスタッフルームで休ませてくれたのだ。
「ウケるよねぇ、アイドルなんかのなにがいいんだか」
押しかける観客たちを遠目に見て、ヘラヘラと毒を吐きながら笑う大介の孤独を、私はなぜだか一瞬で見抜いた。
驚くほど綺麗な顔をしているから?
あとで分かったことだけれど、資産家の御曹司だから?
原因は分からないけれど、人間関係で辛い思いをしている人特有の孤独を、私は大介から敏感に感じ取った。
そしてそれは、大介の方も同じだったのだろう。
私たちは自然と惹かれ合い、2人で会うようになった。
不動産屋勤務の大介の休日、毎週水曜日に。
「美咲、今日もめっちゃ可愛い」
大介にそう言ってもらえるのが嬉しくて、毎週水曜日はとびきりのおしゃれをした。
パンが好きな私に付き合ってもらって、色々なベーカリーに食べ歩きに出かけた。
散歩が好きな大介に付き合って、川沿いをずっと歩いたりもした。
それ以外にも、海に行ったり、遊園地に行ったり、映画に行ったり…。1年間の付き合いで、およそカップルがするようなデートはほとんどしたはずだ。
恋人同士にとって一番大切とも言える、お泊まり以外は。
「いいでしょ、大介。私たち、2人で会うようになって半年も経つんだよ。今夜くらい泊まっていってよ。私寂しいよ」
「ごめん。美咲のこと本当に大切にしたいから。散々デートしておいてと思われるかもしれないけど、妻に誤解されるようなことはまだしたくないんだ」
「そんなこと言って…。奥さんとはやっぱり仲良しってことなんじゃないの?」
「違うって。妻とは本当に終わってるんだ。でも、あっちが離婚渋ってて…。だけど絶対、美咲のためにも別れるから!」
絵に描いたような、不倫の常套句。
呆れ返った私は、もともと妻帯者との恋愛だという罪悪感もあって、大介に一方的に別れを告げた。
居場所が辿れないように、連絡先も仕事も変えた。
大介の言っていることが本当だと知ったのは、それから1年も後のことだった。
「あっ、黒田さんじゃないですか。その節はどうも。洞木さんの離婚、無事に成立してよかったですね!」
「えっ…」
珍しく新宿へと出かけた時、偶然伊勢丹のエレベーターで一緒に乗り合わせた女性に、そう声をかけられたのだ。
しばらく頭を回転させて、ようやく気がついた。
離婚が信用できないという私に大介が一度だけ会わせてくれた、大介の離婚を担当していた、弓削(ゆげ)という弁護士だった。
「えっ、そうなんですか?」
「えっ、ご存じなかったんですか…?」
そう言ったきり「守秘義務があるので」と言って黙り込んでしまった弓削さんでは埒が明かず、私は大介に連絡をとったけれど、大介もかつての私と同じように連絡先も仕事も変えていたようだった。
過去の名刺フォルダをひっくり返し、恥を忍んで連絡を取ったあのショッピングモールの担当者は、口の悪い大介のことを良く思っていなかったのだろう。
驚くほど嬉しそうに、大介の離婚の詳細を教えてくれた。
「ああ〜、洞木ね!なんか奥さんはあいつの顔と財産目当てだったんでしょ?
結婚してからずっと散財と浮気されまくって、やっと別れられたって聞いたよ!いやぁ、人生、顔が良くて金があってもうまく行かないもんなんだねぇ…」
大介の美しい顔の下の孤独を、口の悪さの裏の誠実さを…信じることのできなかった私には、いまさら大介を探し出す資格はない。
きっとこの先は、ずっと、ずっと、1人で生きていくことになるんだと思う。
大介以上に好きになれる人には、もう会えないと思うから。
別にそれが惨めだとは思わない。1人でいることが私の性分に合っているということは、こうして今の生活で証明されている。
だけど…。
誰に会う用事がなくても、水曜日だけは目いっぱいのおしゃれをして、綺麗な自分でいたいと思う。
大介がいなくても、たった1人でも綺麗でいられたなら。
なんとなく、1人ぼっちでも大丈夫だという証になる気がするのだ。
水曜日。
それは、私の誇りを保つ日。
もうすぐ日付が変わる。ひそやかにベッドサイドの灯りを消す。明日もひとりで美味しくパンを食べる。この先もずっと1人で大丈夫。
これは、そういう種類の誇り。
…だと思っているけれど、この気持ちは──。
やっぱり、未練なのだろうか。
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