「妊活中の妻と顔を合わせたくない…」夫が仕事のあと、家に帰らずに向かった先
平日の真ん中、ウェンズデー。
月曜ほど憂鬱でもないし、金曜ほど晴れやかでもないけれど、火曜とも木曜とも違う日。
ちょっとだけ特別な水曜日に、自分だけの特別な時間を持つ。
それが、アッパー層がひしめく街、東京で生き抜くコツだ。
貴方には、特別な自分だけの“水曜日のルーティン”はありますか?
▶前回:早く妊娠したいのに…。妊活に疲れた30歳妻に、夫が提案した意外なこと
<水曜日の発散>
須田勇輝(34):広告代理店営業
18時までの会議が終わりミーティングルームを出ると、僕の目に飛び込んできたのは、窓越しに広がる夜景だった。
富士山を背景にした、多摩川の沿いのいくつもの灯り。
住宅街である二子玉川の高層ビルからの夜景は、大都会である汐留や赤坂と比べればかなり地味なものだろう。
けれど、星空のようなきらめきを構成する灯りのほとんどは、一等地のオフィスとは違ってきっと“家族”の灯りだ。
そのことがなんとなくいつだって、僕の心をたまらないような気持ちにさせるのだった。
― 早く帰って、可奈ちゃんに会いたいな。
窓際に立ち素朴な夜景に見惚れながら、家で僕の帰りを待つ妻のことを思う。
けれど、すぐに視界の端にある人物の影をみとめて、僕はそそくさと立ち去ろうとした。
「おい、勇輝!」
大きな声で僕を呼び止めたのは、2年前にこの会社に中途入社してきた大介だ。
同い年で、実は大学の同窓生だったことも判明して以来意気投合し、昔からの友人同士のような付き合いをしている。が…。
エンカウント回避に失敗した僕は、ぎこちない微笑みを浮かべながらゆっくりと大介の方へと振り返る。
「おう、大介。どうした?」
どうした?と言っては見たものの、内容は分かりきっている。絶対に、飲みの誘いだ。
そんな僕の予測を知ってか知らずか、大介はのっしりと肩を組んでくる。
「勇輝、お前もう仕事上がりだろ?飲み行こうぜ、なっ」
― やっぱり…。
という言葉を飲み込んで、僕は慎重にその太い腕を肩からほどいた。
今夜だけは、絶対にこいつと飲みに行くわけにはいかない。
だって今日は、水曜日。
水曜日だけは、僕は酒は飲めないのだ。
「なっ、水曜日は残業ナシのルールだろ。たまには付き合えよ」
ぐいぐいと距離を詰めてくる大介に向かって、僕は柔らかく、だけどきっぱりと声を上げた。
「いや、ごめん。今日は行かない。もう帰らなきゃいけないんだ」
水曜日じゃなかったら、僕は誘いに乗って飲みに行っていただろう。
お酒は大好きだし、自慢じゃないけれど、強い。ザル、と言っても差し支えない。
それに、大介は明るくていいやつだ。
彼は入社した頃に離婚し、今は独身だ。暇を持て余しているのか、しょっちゅう飲みに誘ってくるが、一緒にいて楽しいことは間違いない。
でも…。
「悪いけど、今日だけは本当に無理。また今度行こうぜ」
「ちぇっ、お前水曜日はいつもそうだよな。またな」
思いのほかはっきりと断られたことに面食らったのだろう。大介はつまらなそうに肩をすくめて立ち去っていく。
僕はホッと胸を撫で下ろすと、デスクへと戻り身支度を整える。
オフィスを出て足早に向かったのは、可奈ちゃんが待つ上野毛の自宅マンション……ではない。
マンションの地下にある、住人用の駐車場だった。
ノー残業デーの水曜日だ。早く帰って可奈ちゃんに会いたい気持ちは、もちろんある。
だけど、今日は水曜日。完璧主義な可奈ちゃんが、唯一グータラ過ごして休憩してくれる日なのだ。
仕事も家庭もいつだって全力だった可奈ちゃんは、なかなか成果の出ない不妊治療に壊れる寸前だった。
そのうえ僕が早く帰ったら、可奈ちゃんは張り切って立派なごはんを作ったりして、僕のことを甲斐甲斐しく労ってしまう。
あまり根を詰めすぎないで、少しでもいいから休んでほしい。
そんな一心で週に一度、水曜日だけは可奈ちゃんのお休みの日にしている。
それに、ちょっとだけ後ろめたくもあるけれど…それは僕にとっても少しだけ好都合でもあるから。
毎週水曜日は今、僕だけの大切な時間でもあるのだ。
◆
家にも寄らず地下駐車場に降り立った僕は、ポケットから家の扉のものとは違う小さな鍵を取り出す。
白いボックス状の設備の鍵穴に差し込んで暗証番号を入力すると、ゴウン、という重々しい音が響き渡った。
そして、その音が止まり、僕の目の前で白いシャッターがゆっくりと開く。
ゆっくりと暗闇から姿を現したのは、可奈ちゃん以外の僕のもう一つの宝物。
眩しいほど明るいイエローの、ランボルギーニ・ガヤルドだ。
「ランボー!寂しかったか?」
早速運転席へと体を滑り込ませた僕は、しばらく吸い付くようなハンドルの感触を楽しんだあと、アクセルを踏み込む。
低いエンジン音は、まるで鼓動だ。美しく大きな生き物のようなランボルギーニの中で、僕の鼓動もドキドキと同調していく。
「さあ、ランボ。今夜はどこに行く?」
ゴールも決めないまま上野毛を飛び出し、とりあえず第三京浜へと向かう。
自宅では可奈ちゃんのリラックスタイムにそぐわないために遠慮しているメタルを爆音でかけながら、僕は第三京浜のまっすぐな道を、あらゆるしがらみから解き放たれたかのように走り抜けた。
車という閉じられた空間は、僕にとってはある意味、自宅よりも居心地のよい場所だ。
誰にも気を使わず、自由に運転を楽しめる。
運転中は仕事のことも気にならない。大介の冗談をたしなめる必要もない。
それに、可奈ちゃんの思い詰めたような悲しい顔だって見なくて済む。
いつのまにかたどり着いた江の島で適当なサンドイッチと飲み物を買うと、夜の海辺に車を停めて簡単な夕飯にした。
飲み物はビール…と行きたいところだけれど、飲酒運転になってしまうから、缶コーヒーだ。
可奈ちゃんのことは、好きだ。大好きだ。
だけど、だからこそ…。不妊治療がうまくいかなくてガッカリする可奈ちゃんの涙を見るのは、とても辛い。
「可奈ちゃんが笑っていてくれれば、僕はそれでいいのに」
夜の海に向かって小さくそう呟いてみるけれど、きっと可奈ちゃんには、こんなセリフは届かない。
子どもに恵まれないことよりも、ただ、僕だけでは可奈ちゃんを幸せにしてあげられないことが悲しかった。
だけど、こんな悩みを誰に言えるだろう?
可奈ちゃん本人には伝わらない。
家族にだって、こんなデリケートな話は話せない。
友達だって同じだ。ましてや大介なんて、言ったところで「まあまあ」なんて言いながらビールを注がれるのが関の山だろう。
そんな僕にとって、こうして週に一度趣味の愛車を思い切り走らせることは、最高の息抜きになっている。
強いて言うなら…「発散の水曜日」だろうか?
可奈ちゃんほどではないにせよ、不妊治療のストレスを抱えていた僕が、「ずっと欲しかったランボルギーニが欲しい」、と相談してみたとき。
可奈ちゃんは、全く反対することなく僕の気持ちを尊重してくれた。
「ランボルギーニって…チャイルドシートは置けないよね。
…うん、でもいいよ!子どももまだいないし、私は車は運転しないし。勇輝が憧れを叶えてくれたら嬉しい!」
そう言って、物入りのなかでの大奮発をゆるしてくれた可奈ちゃんのことを思うと、秋風が吹き荒ぶ夜の海でも心がポッと温かくなる。
― 可奈ちゃんに会いたい。
メタルを熱唱しながら運転をしてすっかりストレスが発散された僕は、急に可奈ちゃんに無性に会いたくなって缶コーヒーを一気に飲み干す。
そして大きく伸びをしてもう一度運転席へと乗り込むと、
「僕は本当に、可奈ちゃんが笑っていてくれればいい。
…あと、ランボ。お前がいてくれたらもっと最高だな」
ダッシュボードを撫でながらそんなセリフを吐き、再びエンジンをつけようとしたその時だった。
助手席に放り出していたスマホが、ブンブンと振動する。ランボルギーニの野太いエンジン音に比べたら、まるで赤ん坊の笑い声だ。
「はい、もしもし…」
電話の主は、可奈ちゃんだった。
グータラ過ごす水曜日の夜に、可奈ちゃんから電話がかかってくるなんて珍しい──と考えながら相槌を打っていた僕は、次の瞬間。
どんなメタルにも負けないくらいの叫び声を上げた。
「ええっ!!ほ、本当に…!?」
「今すぐ帰る!」と叫びながらスマホを放り出すと僕は、来た時よりも速いスピードで自宅までの道のりを引き返す。
そして密かに心の中で、かけがえのない宝物である黄色い愛車に謝った。
「ごめんな、ランボ。お前…もうすぐ買い替えになるかもな」
▶前回:早く妊娠したいのに…。妊活に疲れた30歳妻に、夫が提案した意外なこと
▶1話目はこちら:実は、妻と別居して3ヶ月。公私共に絶好調に見える39歳男の本音
▶Next:10月4日 水曜更新予定
勇輝の同僚、大介。勇輝に誘いを断られたあと、大介が取った行動は…。