木野瀬凛子、31歳。

デキるオンナとして周囲から一目置かれる凛子は、実は根っからの努力型。

張り詰めた毎日を過ごす凛子には、唯一ほっとできる時間がある。

甘いひとくちをほおばる時間だ。

これは、凛子とスイーツが織りなす人生の物語。

◆これまでのあらすじ

木野瀬凛子、31歳。得意先の大手食品メーカー広報部・秋坂に告白され、付き合うことになった。そして2年後、出世して管理職となった凛子は、会社のエレベーターで元彼・昌文にばったり会って…。

▶前回:「どうして真顔に?」デートの終盤、いい感じだと思ったのに、彼の表情が突然曇り…




凛子と昌文を乗せたエレベーターが、13階で止まる。

エレベーターの扉が開き、昌文が扉に向かって一歩踏み出す。しかし彼は足を止め、凛子の方を振り返った。

「そうだ」

懐かしい笑顔を浮かべる昌文を、凛子は見上げた。

「ウワサは聞いたよ。凛子、得意先の人と結婚したんだってね。おめでとう」

昌文は、「直接お祝いを言えてよかった」と言って、ゆっくりとエレベーターから出ていった。

残った凛子は、少しノスタルジックな気分になりながら、エレベーター内の壁にもたれる。

― そっか、知ってくれてたのね。社内のウワサってすぐ広まるものね。

左手の薬指をちらっと見る。秋坂からちょうど半年前に贈られた結婚指輪が、輝いている。

東京と京都の遠距離恋愛。

恋愛経験の少ない凛子は、最初こそ不安だった。しかし秋坂は、忙しいのにマメに連絡してくれたし、毎週のように東京に来てくれた。

事情がない限り、毎週金曜をリモートワークにしてくれたおかげで、金土日を東京で一緒に過ごすことができたのだ。

京都のスイーツを毎週、お土産に買ってきてくれる秋坂。

彼の優しさに、凛子は夢中になった。

そして交際して1年半が経った頃、結婚を決めた。


プロポーズのとき、秋坂は言った。

「凛子さんは僕にとって、この世界で一番大切な人です。結婚してください」

緊張した面持ちで彼が言ったそのセリフに、凛子は「よろしくお願いいたします」とお辞儀をした。

そのシーンを繰り返し思い出し、その度に幸せに浸る。

ゆるむ口元で凛子はエレベーターを降り、デスクまでスタスタと歩いて、PCを立ち上げた。

その間にスマホを見ると、秋坂からなにやらLINEが入っている。

『秋坂:今日の朝食です。かなりうまくいきました』

送られてきた写真に写っているのは、形のいいパンケーキ。

柔らかそうなバターと、つややかなメープルシロップも美しい。

『凛子:うわあ、美味しそう。私もまた食べたいな』




秋坂は最近、朝からパンケーキを焼くのに凝っているのだ。

先週末、凛子は初めて彼のお手製パンケーキを食べた。

理系出身の秋坂が研究を重ねたというそのパンケーキは、素朴なのに深い香りがして、本当に美味しいのだった。

秋坂のおかげで、満たされた気持ちで朝のメールチェックにとりかかる。

― この人と結婚してよかったって、毎日思うわ。今日も仕事がんばろう。

プロポーズを受け入れたとき、凛子は一瞬、覚悟を決めた。

さすがに会社を辞めて、秋坂のいる京都に引っ越したほうがいいだろうと。

しかし秋坂は、「凛子さんが一生懸命積み上げてきたものがあるのを知っているから、そんなことはしたくない」と言い、遠距離で暮らすことを提案してくれた。

秋坂は、理解力の塊みたいな温かい人だ。

しばらくはこのまま、自分たちらしい新婚生活を楽しもうと思っている。



週末。

秋坂の特製レシピで作られた分厚いパンケーキに、凛子はナイフを入れていた。

ほかほかの湯気。どこか懐かしいバターの香りが立ち上る。

「いい香りね…」

「でしょ?」

秋坂は、自分の分のパンケーキには見向きもせず、凛子が食べる様子を見つめている。




「どう?美味しい?」

「…すっごい美味しい。先週のより、ふわふわ感が増してる気がする」

「お、よかった。実はみりんを入れたんだ」

「みりん?」

「そうすると、ふわふわになるらしくて」

― 私のために、研究してくれてるのね。

秋坂の可愛らしい努力に癒やされて、心がほぐれる。

「ねえ、他にコツは?どんなレシピで作ると、こんなに美味しくなるの?」

秋坂のパンケーキをたいそう気に入ったので、自分でも作りたいと思う。しかし秋坂は、笑ってはぐらかした。


「それは、秘密です」

「え?」

「凛子が自分で作れるようになったらつまんないから、内緒なんだ。

一生僕が作ってあげるから。知らなくて大丈夫だよ」

― そう言うんなら、ま、いっか。

彼の愛嬌に、心までほかほかする凛子だった。

「あ、そうだ。アキくん」

「アキくん」とは秋坂のことだ。

いきなり名前で呼ぶのがなんだか照れくさく、名字をとってそう呼び始めた。

秋坂が顔をあげ、「んー?」と首をかしげる。

凛子は紅茶を注ぎながら続けた。




「明日だけどさ、弟さんになにか手土産用意したいよね。どうしようか?」

明日は、秋坂の弟の住む部屋に遊びに行く予定だ。

実はその部屋に、凛子の部下・美知も住んでいる。

秋坂の弟と美知は1年前に付き合い、先週から高円寺で同棲を始めたそうなのだ。

2人の馴れ初めは、ひょんなことだった。

1年ほど前に、凛子の上司が自宅マンションのパーティールームで、カジュアルなパーティーを開いた。

友人や家族、仲のいい部下や得意先などを招いた会で、秋坂は、自分の弟をそのパーティーに連れてきた。

そこで秋坂の弟と美知は出会い、数週間後には付き合い始めたのだ。

「恋愛はもういいから、今は仕事を頑張ります」

いっときそう言っていた美知も、今ではとても器用に、仕事と恋愛を両立して楽しんでいるように見える。




― ああ。この1年ちょっとで、幸せなことが本当にたくさん起きたなあ。

凛子は遠い目になる。こんな幸せがずっと続くといいな、と。

「手土産かあ。甘いものがいいよね。美知さん、スイーツ好きだもんね」

秋坂は「あ」と楽しげな声をあげる。

「あそこのマカロンがいいんじゃない?ほら、凛子が前言ってたやつ」

「えーっと、表参道の?」

「そうそう。もしくは、その店の並びにあるショコラティエもいいかも」

すっかり甘党になった秋坂は、いくつもの名案を提示してくれる。

その愛しい声を聞きながら、凛子はまたパンケーキを切り取り、甘いひとくちを頬張るのだった。

Fin.

▶前回:「どうして真顔に?」デートの終盤、いい感じだと思ったのに、彼の表情が突然曇り…

▶1話目はこちら:金曜日の夜。社内随一のデキ女が独り訪れたのは…