「彼じゃもう、物足りない…」。40歳の男と交際中の女が、心変わりした理由
ふとすれ違った人の香りが元彼と同じ香水で、かつての記憶が蘇る…。
貴方は、そんな経験をしたことがあるだろうか?
特定の匂いがある記憶を呼び起こすこと、それをプルースト効果という。
きっと、時には甘く、時にはほろ苦い思い出…。
これは、忘れられない香りの記憶にまつわる、大人の男女のストーリー。
▶前回:何度もデートしていたのに、突然音信不通になった女。インスタで彼女を見つけた男は、衝撃を受け…
Vol.8 美桜(34)20代。もがいていた自分を昇華してくれた香り
Chloé「オードパルファム」
「美桜、離婚しよう」
「わかった。今までありがとう。この家はどうするの?」
「そうだな…。このまま僕は住もうかな」
さっき離婚の話をしたばかりだというのに、淡々と進んでいく会話。最後まで私たちらしい。
「いつ頃になりそう?引っ越し」
大介の言葉に、私はスマホでスケジュールを確認する。
「今月末、大きなプレゼンがあるから来月末でもいい?今月中に頑張って家を探すから」
「わかった」
結婚生活、3年目の夏。私たち夫婦は呆気なく終わった。
でも私は半年前くらいから気がついていた。大介の気持ちが、もうここにはないことに…。
「え!?美桜先輩、離婚するんですか?」
翌日。普通に出社して後輩の真凜ちゃんに「離婚するんだ」と普通に伝えたところ、私よりも驚いている。
昨夜泣いてもいないので、目も腫れていない、いつも通りの私だったと思う。
「うん、そういうことになりました」
「…旦那さんって、何のお仕事をされていたんでしたっけ?」
「広告代理店勤務だよ」
「そっか…美桜先輩の相手としては、普通のサラリーマンは役不足だった、ってことですね」
「…そういうこと!?」
「34歳で役員まで上りつめて。知り合いの層も有名社長さんばかりで。そりゃ旦那さんからしたら怖気づきますよ」
真凜ちゃんの言葉に、思わず返答に詰まる。
スタートアップ企業の役員という立場上、たしかに交友関係は広くて、華やかな世界にいると思う。連日会食が入っているし、有名経営者とのつながりもある。
「でも全員仕事関係の人たちだから。私なりに、大介のことは大事にしていたつもりだったんだけどな…」
「美桜先輩だったらすぐに次が見つかりますよ」
今どき、離婚なんて珍しくないことなのかもしれない。それでもあまりにもアッサリしている真凜ちゃんの態度に、いささか拍子抜けしてしまった。
その後は月末のプレゼン準備や新しい家を探している間に時は過ぎ、気がつけば引っ越し当日になっていた。
「大介、今までありがとう」
「こちらこそ。美桜との結婚生活、楽しかったよ」
「私のほうこそ」
― 新しい人と、幸せになってね。
そんなことを心の中でつぶやきながら、タクシーに乗って新居へと向かった。
◆
大介と一緒に住んでいた代々木上原から、私は麻布十番へと引越した。独身の時にずっと住んでいた場所だし、交通の便もいい。それにスーパーや病院など、土地勘もある。
「よし…ようやく終わった…!!」
荷解きを終え、疲れ果てた私は引っ越し記念としてどこか素敵なお店で食事をしようと決意した。
34歳独身。なんだってできる。
もう子どもじゃないんだし、離婚しても幸い、1人で生活するには十分過ぎる稼ぎもある。
「どうしようかな〜」
着替えて麻布十番商店街をプラプラと歩く。『福島屋』から漂うおでんの出汁の良い香りや、『あべちゃん』のコッテリとしたタレの香り。
どれも懐かしくて、思わず息を大きく吸い込む。
そんな時だった。
「あれ?この香りって…」
40代後半くらいの男性と、20代の若い女性が通り過ぎた時、その残り香に、急に胸が締め付けられる。
若い女性がまとっていたのは、20代の時に私が身につけていた、甘くて可愛い香り…。それはクロエの「オードパルファム」だった。
久しぶりにその香りを感じた瞬間、ある男性を思い出した。
肌の温もりや声質、最後に泣きながら別れた瞬間の悲しそうな顔までもが鮮明に蘇る。
「美桜、愛してるよ」
何度もそう言ってくれた、元カレの雅史。全力で彼を愛し、愛されていたあの頃の感覚が急に蘇ってきた。
あの時の頑張っていた自分へ
雅史との大恋愛は、もう10年以上も前のことになる。
当時私は22歳で、雅史は40歳。何も知らない私からすると、彼は大人でカッコ良くて、私のすべてだった。気づけば彼の年齢に追いつこうとしている。
無我夢中で彼を追いかけて、毎晩じゃれあっていたあの頃。上京したての私に、東京の予約の取れないレストランや高級ワイン、業界人が集うバーにキラキラとした夜景、暗証番号で入る会員制の場所…すべてを教えてくれ、見せてくれたのは雅史だった。
でもなぜか、彼と一緒にいるときは常に不安だった。
仕事で成功し、有名経営者だった雅史は私をよくパーティーなどにも連れ出してくれたのだけれど、そこでの私の名称は「美桜」ではなく、「雅史さんの彼女」だった。
当時まだ社会人1年目だった私は、何者でもなかった。
自分で望んで輝かしい世界に足を踏み入れ、まばゆい生活を手に入れようと必死だったはずなのに、どこへ行っても私は結局「雅史の付属品」でしかなかった。
「ねぇ雅史。なんで私と付き合っているの?」
「愛しているからだよ」
ベッドでまどろみながら、私は雅史に尋ねたことがある。
「私のこと、アクセサリーだと思ってる?」
あの時の雅史の困ったような…でも嬉しそうな顔が、なぜか私はいまだに忘れることができない。
「美桜は若くて綺麗だから。僕の自慢だよ」
今なら、素直にこの言葉を喜ぶことができる。でも若くて未熟だった私は、“何者でもない自分”が恥ずかしくて、そして悔しかった。
そんな私を鼓舞してくれて、自信をくれたのが当時の愛用品、クロエの「オードパルファム」だった。
イメージ(編集部私物)
外では弱さを一切出さない雅史だけれど、2人きりになると私の首元にスポンと顔を埋めてくる。その度に愛されていると感じることができ、自分の存在が認められていると思えた。
「美桜っていつもいい香りがするよね。美桜のこの香り、好きだな…」
フェミニンで甘い香りだが、凛としたしなやかさと強さも感じられる。
雅史が「好き」と言ってくれることが嬉しくて、私はずっとつけていた。
でも私が25歳になった時。
雅史が見せてくれた世界よりも広い世界があることを知ってしまい、また仕事で少しずつ成長もできてきた私はもっと羽ばたきたくなってしまった。
今から振り返ると、雅史は私をまるでガラスのように繊細に…優しく扱ってくれていた。何度も「愛してる」と彼の腕の中で言われ、私も全力で愛を返そうとした。
でも若くて甘い恋は、長くは続かない。
結局私は雅史と別れ、別の男性と交際することを決めた。ただここから前の夫と出会うまで、複数人と交際したけれど誰も長くは続かなかった。
当時私が必死に欲しかった「自分らしさ」と、あんなにも愛してくれた雅史を捨ててでも見たかった「もっと輝く世界」。
仕事で成功し、自分らしさも手に入れた。今なら「長谷川美桜です」と自分の名前だけで堂々と勝負もできるし、誰の付属品でもない。
でも結局一周して、私はまた麻布十番に戻ってきて、そしてひとりになった。
「あの頃の私、全力で頑張っていたな…」
可愛げや誰かに頼ること。そして自分以外の誰かを大切に思い、全力で愛することを、すっかり放棄していた気もする。
もう20代の時のような、ピュアな気持ちにはなれないのかもしれない。経験値だけが上がっていき、男性を見る目もシビアになってしまった。
でももう一度、「まっすぐな気持ちで誰かを全力で愛し、愛されるように初心に戻って頑張れ」と、当時のもがいていた自分からのメッセージを受け取ったような気がした。
離婚してから一度も泣いていなかったのに、気がつけば私は残り香を感じながら、大粒の涙を流していた。
▶前回:何度もデートしていたのに、突然音信不通になった女。インスタで彼女を見つけた男は、衝撃を受け…
▶1話目はこちら:好きだった彼から、自分と同じ香水の匂いが…。そこに隠された切なすぎる真実