「私、小学校から大学までずっと同じ学校なの」

周囲からうらやまれることの多い、名門一貫校出身者。

彼らは、大人になり子どもを持つと、必ずこんな声をかけられる。

「お子さんも、同じ学校に入れるんでしょう?」「合格間違いなしでいいね」

しかし今、小学校受験は様変わりしている。縁故も、古いしきたりも、もう通用しない。

これは、令和のお受験に挑む二世受験生親子の物語。

親の七光りは、吉か凶か―?

◆これまでのあらすじ
名門一貫校出身の果奈は、息子の翼を小学校から同じ学校に入れたいと考えている。疲労困憊の果奈を見た夫・光弘は、「そんなに大変なら、仕事を辞めるかセーブしたら?」と提案。さらに果奈の実母に、手伝いを勝手に頼み込んだ…。

▶前回:「保育園じゃなくて、幼稚園に行かせた方がいい?」ワーママがたどり着いたひとつの答え




Vol.7 ワーママには重すぎる負担


果奈は光弘の言動に怒り、部屋にこもっていた。

光弘は「そんなに大変なら、仕事を辞めるかセーブしたら?」と言い、勝手に果奈の母に家事と育児の手伝いを頼んだのだ。

ようやく彼の気配がリビングから消えたので、果奈はキッチンに向かい、ペリエをグラスに注ぐ。

光弘は、翼と2人でお風呂に入っているようだ。

少しの間だが仮眠をとったおかげで、頭はだいぶすっきりしている。

果奈はグラス片手にため息をつく。

― 結局のところ、私のお母さんに頼るしかないのかな。

共働きでお受験準備をするのは、想像以上の負担だった。

水回りの掃除と洗濯を業者に外注しているにもかかわらず、時間はまったく足りない。

翼の勉強もベビーシッターに頼めればいいが、信頼できる受験勉強専門のシッターさんを見つけるのは難しそうだ。

― きっとお母さんなら、快く手伝いに来てくれる。何より、お受験準備の経験者だから頼りになりそう…。

でも一方で果奈は思うのだ。

― お母さん、3人も子どもを育てて、そのうえ孫育てまでしたくないわよね。

一番上の兄には、すでに子どもが3人いる。

彼らは実家のある吉祥寺の近くに住んでいるので、母は彼らの世話に駆り出されることも多いだろう。

― 親孝行して、お母さんには楽してもらいたいのに。

どうしようもない現実に、果奈はもやもやした気持ちを抱えていた。グラスに残ったペリエを飲み干すと、光弘と翼がお風呂から出てきた。

「翼、さっきは大きな声を出してごめんね」

果奈は謝ったが、翼はお風呂遊びが楽しかったようで、そんなことはすっかり忘れているみたいだ。

「パジャマ、選んでくる!」

翼が子ども部屋に走って行ってしまうと、果奈は光弘に言う。

「やっぱり、現実的に考えて、私のお母さんに助けてもらうしかないのよね」

光弘も、グラスを持ってきてペリエを注ぎながら答えた。

「そう思うよ。果奈が、仕事とお受験を両立できなくてパンク寸前って言ったら、お義母さんは『いつでも頼って』って言ってたよ」

光弘の言葉を聞きながら、果奈は、今まで感じていた違和感の正体がわかった気がした。


「今回お母さんに助けてもらうのは、私が仕事とお受験を両立できないせいだけど、あなたが仕事とお受験を両立できないせいでもあるのよ」

「え、俺?俺は経営者なんだから、無責任に仕事を放りだしたりできないよ」

美容室を経営している光弘は、サラリーマンである果奈の仕事などいくらでも代わりがきくと思っているようだ。

「そんなこと言うなら、独立する前はどうだった?今日はもう帰らないといけないっていう日に、今からカットしてって、大事なお客さんが来たら?」

「それは対応するしかないだろう」

当然だ、という表情で光弘が答える。

「でもさ、光弘。代わりの人に頼むことだってできるわよ。お店にとっては何の損失にもならないよね」

「そんなことしたら、他の人にとって代わられて、俺の仕事がなくなるよ。美容師を甘くみているの?」

果奈は首を横に振った。

「そんなことないよ。ただ、私は会社員だけど、光弘と同じ思いで仕事をしてるって言いたいだけ。

私ね、夫婦の家庭内における責任って同等だと思うの。収入の差や社会的立場には関係なくね」

「それはわかっているよ。でも俺は、急な会議だって入るし、VIPの予約だって入るんだよ」

光弘が少しムキになった様子で言い返してくるが、果奈は構わず続けた。




「私の仕事には急な来客や会議がないと思った?私はできるだけそんな状況にならないように、仕事を調整しているの」

― 今日は、これ以上言っても無駄だわ。

「ねえ光弘、翼がお受験することには今でも賛成してくれている?」

「もちろんだよ。父親としてできることはなんだってする」

翼がお気に入りのパジャマを持ってリビングに戻ってくるのを見て、果奈は話を切り上げた。

「だったらもう少し家のことに協力して。あと、私は仕事を辞めない。家族みんなのためにね」

「そんなにお受験が大変なら、仕事辞めるかセーブしたら?」と言ってきた光弘の言葉を受け、果奈は念押しした。



「ママ、今日のお歌はなにかな?」
「うーん、冬だから『たき火』かな」

土曜日、果奈と翼は、幼児教室に向かって歩いていた。

少し前までの翼は、公道ではハーネスを手放せないぐらい落ち着きがなかったが、最近は、つき物が取れたように落ち着いている。

「昨日おうちでやった観覧車の問題、今日のお教室でもやるかなあ?」

翼に落ち着きがみられるようになってから気づいたことがある。

翼は、とにかくペーパーに強い。

最近は、幼児教室の復習だけでなく、予習に時間を割く余裕もできるほどだ。

― でも、それもお母さんのおかげなのよね。

果奈がベッドルームに籠城した次の日、早速母が手伝いに来てくれた。

母は、ごちゃごちゃになっていた翼のプリントをファイリングし、単元ごとの習熟度表を作った。

そして在宅勤務をしていた果奈に、翼の帰宅後にやることを指示すると、あっという間に夕食の配膳を終えて帰って行ったのだ。

わずか2時間ほどの手伝いだったが、今の東出家にとって、母は救世主だった。


果奈は、こまごまとした家事や作業から解放され、気持ちに余裕ができたのを実感した。

光弘が帰宅した時も、果奈は自然とねぎらいの言葉をかけられた。光弘も心なしか嬉しそうに見えた。

― 私たち家族なりのスタイルでやっていくと言っておきながら、結局はお母さんに頼りきりね。

そのうち光弘ときちんと話し合い、自分たちだけで何とかしないと果奈は思う。

考えながら歩いているうちに、幼児教室に着いた。




「とうちゃーく!ママ、僕おトイレ行ってくるね」

翼は自分からトイレにも行くようになったし、いつの間にか、トーマスも卒業していた。

「彩香さん、アンちゃん!あとでね」

1人になった果奈は、すでに来ていた彩香とアンに声をかける。

今日は幼児教室の後、彩香とお茶をする予定だ。しかし果奈は2人に小声で挨拶をするだけにして、保護者席に座った。

授業が始まり、アンが皆の前に立って、何かを話そうとしている。

気づけば、アンもブタ鼻をしなくなり、すっかりおとなしい女の子になった。

果奈は、翼とアンの成長を感慨深く感じながら、授業のメモを取った。




授業が終わると、彩香が話しかけてくる。

「翼くん、最近調子良いね。クラス内でも目立ってる」

「そうかな?」

果奈は、微笑みながら翼の髪をなでた。

「アンはさ、全然おしゃべりができないのよ」

彩香はため息をつく。

「ウィリアムとは英語で話しているからかな。日本語だと上手にしゃべれないの」

こういう話は、バイリンガルやトリリンガル家庭ではよく聞く。

「そのうち出てくるよ。でもアンちゃん、でんぐり返し、すごく上手だね」

彩香を元気づけるために、果奈が話題を変えようとしたが、彩香は眉をひそめて言った。

「アンに、日本語のプライベートレッスン、受けさせようかな。それとも…療育?」

「そんなに深刻に考えることないんじゃない?翼だって、ついこの間まで走りまわってばかりで心配していたけど、近頃やっと落ち着いてきたし。それにアンちゃんは…」

「果奈さん」

彩香は、果奈の励ましの言葉を遮った。




「翼くんがスランプから抜けたからって、適当なことを言わないでほしい。…ごめん、なんか最近忙しくて、いろいろ焦っちゃう」

「彩香さんの気持ちはわかるよ。私も母が手伝いに来てくれるまでは本当につらかったし」

果奈は、少しでも彩香の気持ちに寄り添いたいと、必死で言葉を探した。

「お母さん…いいね、果奈さんは。理解あるお母さんがいるし、自分も啓祥学園出身だし。私は外国人の夫を抱えて1人で戦わないといけないの。

…ごめん、今日は、果奈さんの言葉を素直に聞けない。もう帰るね」

まだ帰りたくない、というアンの手を引いて彩香が帰ってしまうのを、果奈はあっけにとられて見ていた。



その日の夜。

送られてきた彩香からのLINEを見て、果奈は驚いた。

『彩香:今日はごめんなさい。これからは、アンの日本語強化のために自分の時間を使おうと思います。仕事はセーブする予定です』

― 彩香さん、そんなに悩んでいたんだ。

『彩香:幼児教室も平日に変えるので、もう果奈さんと会うことはあまりないと思う。でも子ども同士は仲が良いから、これからもよろしくね』

― 子ども同士“は”仲が良い、ね。

ママ友という関係の、あまりの繊細さとはかなさ。

果奈は、初めてできたママ友からの実質的な決別宣言に、打ちのめされていた。

▶前回:「保育園じゃなくて、幼稚園に行かせた方がいい?」ワーママがたどり着いたひとつの答え

▶1話目はこちら:「この子を、同じ学校に入れたい…」名門校を卒業したワーママの苦悩

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果奈と彩香の友情もこれまでか?幼児教室では思いがけない出来事が…