空港は、“出発”と“帰着”の場。

いつの時代も、人の数だけ物語があふれている。

それも、日常からは切り離された“特別”な物語が。

成田空港で働くグラホ・羽根田(はねだ)美香は、知らず知らずのうちに、誰かの物語の登場人物になっていく―。

▶前回:成田空港免税店で働く美容部員。仕事中についやってしまう、人に言えないある“クセ”とは




Vol.12 彰正の物語
もし、もう一度会えたら…


芝公園出入口から首都高に乗り、1時間。

“成田空港”の案内標識が見えたところで、タクシーが横風にあおられた。

― 結構、揺れるな。

彰正は、窓の外で激しくうねる木々に目をやる。それから、運転手に話しかけた。

「風、強いですね」
「そうですね。飛行機も揺れるんじゃないですかね」

外資系コンサルティング会社で働く彰正は、昼すぎのフライトでシンガポールへ向かう予定だ。明日の朝イチで、クライアントとの打ち合わせを予定している。

だが、出発ロビー入り口の前に到着したときには、風は一層強くなっていた。

― これ、時間どおりに飛ばないんじゃないか…?

タクシーを降りた瞬間、彰正は強風をまともに受け、まるで誰かに突き飛ばされたかのような衝撃を受ける。

いち早くフライト状況を知ろうと、チェックインカウンターに急いだ。職員から、搭乗券とラウンジカードを受け取る。

「高田さま、大変申し訳ございません。こちらのフライトは、搭乗開始時刻が遅れて13時55分を予定しております」
「30分遅れ…ですか?」
「はい、天候不良のため使用機材の到着が遅れております。また変更がありましたら、ラウンジでご案内いたします」
「そうですか、わかりました。ありがとうございます」

― 30分くらいなら、まぁいいか。

ラウンジで少しゆっくりしようと、彰正は思う。ところが、受付を抜け奥へと進むと、思いのほか混み合っている。いくつか空席はあるものの、ゆったりくつろげるような雰囲気ではない。

結局、早めに出発ゲートへ向かうことにした。

すると―。

「何時間待たせるんだっ!」

男性の怒声が、彰正の耳に突き刺さった。


― な、なんだ?

彰正は、声のするほうへ視線を向けた。

出発ゲートの手前で、1人の男性がグランドスタッフをつかまえて怒鳴りつけている。

「何時に出発かわからないって、どういうことだ!」
「申し訳ございません…」
「こっちは仕事で急いでるんだよ。せめて、時間くらいわかるだろう?」
「…いえ、時間もまだ…」

彼女は新人なのだろう、と彰正は思う。威圧的な乗客にうまく対応できず、今にも泣きだしそうな顔をしている。そのせいで、男性はさらに激高しているように見えた。

気の毒に思った彰正が、声をかけようと一歩踏み出したときだった。

「お客様―」

ひとりの女性がやってきて、スッとあいだに入った。




「お客様、ご迷惑をおかけし大変申し訳ございません。現在、成田空港では強風の影響ですべてのフライトの離発着ができずにおります。状況がわかり次第、随時ご案内いたします」

凛とした佇まいの女性は、やわらかい口調で端的に状況を説明すると、深々と頭を下げた。

「いや、それならもっとわかりやすくアナウンスしてくれないと…」

さっきまで怒鳴り散らしていた男性は、彼女の真っ当な対応になにも言えなくなったようだ。辺りを気にしながら、気まずそうに去っていく。

― 格好いいな。

その様子にすっかり感心した彰正だったが、頭を上げた女性職員と目が合うと予期せずドキッとした。

― キレイな人だな。いや…なにか聞くべき…か?

「…あの、ゲートの近くにいたほうがアナウンスってわかりやすいですか?」

さっきの説明で、だいたいの状況はわかっていた。それなのに、慌てたせいでパッとしない質問をしてしまう。

「恐れ入りますが、お客様のご搭乗クラスをうかがってもよろしいでしょうか」
「ビジネスクラスです」
「ありがとうございます。ラウンジでもご案内いたしますので、今しばらくお待ちいただけますでしょうか」

“HANEDA”と書かれたシルバーのネームプレートが、胸もとでキラリと光った。

「うーん…ラウンジか。ありがとうございます」

もともと人混みが得意ではない彰正は、さっきのラウンジの様子を思い浮かべるとすぐに断念した。仕方なく、ゲート近くの椅子に座って、次の案内を待つことにする。

それから1時間。

出発ゲートのまわりの空気は、最悪といっていいものだった。彰正は、ラウンジに行かなかったことを後悔した。




― 満席なのかな。すごい人だ…。

ゲートの前にはおさまりきらない乗客たちが、通路のほうまでごった返している。そこへ、謝罪と“搭乗開始時刻は未定”のアナウンスが流れると、舌打ちやため息の嵐になるのだった。

― みんな予定もあるだろうし。いつまでっていう時間がわからないまま待つのは、なかなかツラいよな。

彰正は、近くに立っていた女性客に席を譲る。自販機で水を買うと、ゲートから少し離れた場所でスマホの充電をしながら、騒動の様子を遠巻きにして眺めることにした。

忙しなく走りまわるグランドスタッフ。さらには、「乗り継ぎのフライトがあるんですけど、間に合いますか?」「遅延証明書って、発行してもらえるんですか?」と乗客に囲まれて身動きが取れなくなっているグランドスタッフたちを視界がとらえる。

理不尽な怒りを向けられても、みんな一様に頭を下げて真摯に対応している。その中心にいるのが、あのハネダさんだった。

無線機や電話での対応をしながら、スタッフにも目を行き届かせ、やってくる乗客の対応もこなす。外国籍の乗客とのコミュニケーションも、難なく取れているようだ。

― 彼女って、20代半ばくらい?僕より少し若そうだ。それなのに、すごくタフだよな。

彰正は、ふたたび感嘆のため息を漏らした。

ちょうどそのとき。

次のアナウンスが流れると、騒々しさがピークを迎えるのと同時に、空気がガラッと一変した。


“新しい出発予定時刻は、17時25分を予定しております”

定刻13時55分発のフライトは、3時間30分の遅れで出発が決まった。

周囲の乗客たちからは不満の声もあがったが、時間の目途がたったことで安堵する声も聞こえてくる。

「うわ、4時間近くも遅れるのか」
「でも、時間がわかってよかった。現地の友達に連絡しておかなくちゃ」

そこへ、立て続けにアナウンスが流れる。

“ただいまからミールクーポンをお配りします。ゲートの前までお越しくださいませ”

「近くの飲食店でお使いいただける食事券です。搭乗開始時刻までにはお戻りください」

グランドスタッフは、乗客たちに食事券を配ってまわる。すると、ゲートのまわりからは徐々に人の波が引いていくのだった。

― はぁ…。

なにをしたわけでもないのに、その場の空気にあてられてドッと疲れを感じた彰正は、空いた椅子の背もたれに体を預けて目を閉じた。

しばらくすると、誰かが近づいてくる気配を感じた。




「お客様―」

彰正が目を開けると、ハネダさんがすぐ側でひざまずいていた。

「お客様、お加減はいかがでしょうか?」
「え?…あ、はい。大丈夫です」
「そうですか、失礼しました。ミールクーポンはお受け取りになりましたか?」
「まだです…ね。でも、僕はいいかな」

背筋を伸ばして辺りを見まわすと、数名の乗客ともう1人のグランドスタッフを残しただけですっかり静まり返っている。

「急に静かになりましたね」
「はい。お急ぎのところお待たせしてしまい、本当に申し訳ございません」

― あれ、声が…。

彼女はもう何時間も立ちっぱなし、喋りっぱなしなうえに、水を飲むタイミングさえなかったはずだ。数時間前に聞いた透き通るような声が、かすれてしまっている。

彰正は、サッとペットボトルの水を差し出す。

「もしよかったら、これどうぞ。さっき買ったばかりで、まだ開けてないんで」

ところが、ハネダさんは複雑そうな顔をしてみせるのだった。




「ありがとうございます。ですが、受け取ることはできません…」
「あ、そうか。知らない人からいきなり水とか、嫌ですよね…。すみません」
「いえ、そうではなくて―」

彼女が言いかけたとき。外国人旅行客が、ハネダさんのもとへやってきた。

「Excuse me.」
「May I help you?」

ハネダさんは丁寧に対応したあと、彰正へ視線を戻す。

「あの、お気持ちだけいただきます。

それと、揺れるフライトになると思いますので、少しでもなにか召し上がっておいたほうがいいかと。どうぞ―」

彼女は、改めてミールクーポンを差し出すと、忙しそうに業務に戻っていった。



― なにやってるんだ、僕は…。

彰正は、水を差しだした手を引っ込めながら、反対の手でミールクーポンを握りしめ席を立った。

ゲートから少し離れた場所にある飲食店に入ると、コーヒーとサンドイッチを注文する。

「…でも素敵な人、だな」

気がつくと彰正は、ポツリとつぶやいていた。

視野が広く、判断も的確。それに、近くで見たときの吸い込まれるような漆黒の瞳と、それを縁取る長いまつ毛が脳裏に浮かぶ。

いつもだったら、少し関わっただけの女性に興味を持つことはない。もしかしたら、ここが空港で、日常からは切り離された特別な空間だから、こんなにも彼女のことが気になるのかもしれないと彰正は思う。

大きく頭を振って残りのコーヒーを飲み干すと、搭乗開始のアナウンスに合わせて、ふたたびゲートへと戻るのだった。

「いってらっしゃいませ」

ゲートにあるカウンター内でパソコンと向き合うハネダさんを横目に、彰正は別のグランドスタッフに見送られる。

チラッと見ただけでも、印象に残るキレイな横顔だった。

― もし、帰国の日にもう一度彼女と会えたら…。

そのとき、声をかけたら彼女は自分のことを覚えていてくれるだろうか。そんなことを考えながら、彰正はボーディングブリッジを歩いた。



3日後。

「…まさか、本当に」

到着ロビーに、ハネダさんの姿を見つけた彰正は―。

▶前回:成田空港免税店で働く美容部員。仕事中についやってしまう、人に言えないある“クセ”とは

▶1話目はこちら:ロンドンから帰国した直後、女に予想外のトラブルが…

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【最終回】悪天候でフライトが遅延、荒れる出発ゲートで女が思っていたこととは…