結婚式に浮気相手の女が乗り込んできて…。焦った新郎は、新婦に“あること”を告げ…
東京のアッパー層。
その中でも、名家や政財界などの上流階級の世界は、驚くほど小さく閉じている。
例えば、ついうっかり“友人の結婚式”なんかに参加すると「元恋人」や「過ちを犯した相手」があちこちに坐っていて冷や汗をかくことになる。
まるで、いわく付きのパールのネックレスのように、連なる人間関係。
ここは、誰しもが繋がっている「東京の上流階級」という小さな世界。
そんな逃れられない因果な縁を生きる人々の、数珠繋ぎのストーリー。
Vol.6 P.M.2:25 お色直し
新郎・田伏向一郎(医師・35歳)
「ここで新婦マサミさんは、お色直しのため ご中座となります。新たな装いになったマサミさんをお迎えするのを楽しみに…」
90年代の懐メロが爆音で鳴り響く中、中学時代からの親友数人に囲まれたマサミの背中が遠ざかっていく。
会場の視線が全てマサミの方に注がれていることが、今はとにかくありがたい。
俺は1人取り残された高砂の上で、幸福そうな笑顔をどうにか取り繕う。
けれどテーブルクロスの下では、ついさっきマサミと交換した結婚指輪が光る左手で、何度も何度も自分の太ももを殴りつけるのだった。
― クソッ、クソッ、クソッ!!なんでこんなところでサエが繋がってるんだよっ!なんのために海外で人目を盗んで、わざわざ後腐れのない人妻を選んで遊んだと思ってるんだよっ!
確かに、よく聞く話だ。東京の金持ちの人脈は、数珠繋ぎのようにどこかで必ず繋がっているものだ…って。
新潟のクソ田舎出身の俺が、東京の上流社会をナメてたってことなんだろう。
だけど、まさか海外で適当に遊んだ女が、自分の結婚式のスピーチに来るなんて…。
マサミが離席してからの歓談の時間、俺の頭は混乱状態だ。
― クソッ。サエが、マサミに全て話したらどうする?お義父さんにバレたらどうなる?
それを考えると、今すぐ会場から走って逃げ出したい衝動に駆られる。
けれど、15年もかけてついにここまで来たんだ。逃げるわけにはいかない。絶対にバレるわけにはいかない。
ワシントンD.C.でサエと遊んでいたことも。
サエに話した“俺の立場”に…、大きな嘘があることも。
◆
「向一郎と結婚、もちろんしたいよ。でも、今はまだ…。ごめん」
それが、俺が初めてプロポーズをした時の、マサミの返事だった。
今から10年前。当時はお互い24歳で、俺は医学部卒業。マサミはTSUDAパールで働き出して2年目というタイミング。
真面目で責任感の強いマサミのことだ。チー子ちゃんのお母さんのコネで入社した手前、まだもう少し仕事を頑張りたいのだろう。
そう思って、その場は一旦納得することにした。
だけど、26歳の初期研修終了時…。
2度目のプロポーズをした俺は、みっともなくマサミにすがりつくはめになった。
だってまさか、そんな事態は全く想定していなかったから。
…マサミから、2回目の「ごめん」を言われるなんてことは。
「私はね、向一郎と結婚したい。でもパパが…。本当に向一郎くんでいいのかって、ちょっと心配してるみたいで…」
縋り付く俺に、言いにくそうにマサミがそう言った時。俺は、全てを察した。
― マサミのお父さんには、もしかしたらお見通しなのかもしれない。
マサミの父親が院長を務める二ノ宮総合病院は、神奈川随一の規模と歴史を誇る私立総合病院だ。
その名門病院の一人娘ともなれば、“逆玉狙いの悪い虫”がいくらでも寄ってくるのだろう。
つまり、家柄のない俺は、その悪い虫のうちの一匹かもしれないと疑われているわけだ。
「じゃあ俺、お義父さんが認めてくれるまで、死ぬ気で頑張るから!だから、お願いだから、別れるなんて考えないでほしい…!」
「…うん…」
明らかに熱量が足りないマサミの反応に、俺は焦った。
上流階級の家庭というものは、信じられないくらい家族を、一族を大切にする。それは、慶應大学で過ごす中で学んだことの一つだ。
マサミほど育ちの良い女なら、たとえ俺のことを嫌いになったわけじゃなくても、父親の意向を汲んで別れを選択することだって十分に考えられた。
でも──ここでマサミと別れたら、これまでの俺の人生をかけた目論みが水の泡になる。
必死になって勉強したことも。
医学部ラグビー部のマネージャーに二ノ宮総合病院の娘が入るらしいと聞いて、急いで入部を決めたことも。
狙いをマサミに絞って、チー子ちゃんからの好意をどうにか事前にブロックしたことも。
「今は誰とも付き合う気はない」と言い張るマサミに、頼み込んで交際を始めたことも。
マサミと付き合ってからは、地元では好き放題やっていた女の子たちとの遊びから、きっぱり足を洗ったことも。
◆
「さて、続きましては、ここで新郎向一郎さんもご中座をさせていただきます。
せっかくでございますので、エスコート役はこのお方にお務めいただきましょう。新郎の──」
高揚感たっぷりのアナウンスが、俺を急激に回想から引き戻した。
気がつけば俺は、大きな拍手に包まれながらスポットライトの中に立っている。
そして左手には、カサカサに荒れた小さな手を握りしめていた。
東京の煌びやかな生活ではまず見ない、生活感の塊のような手。
新潟の実家で見慣れた手。
俺の、姉ちゃんの手だ。
「向一郎、どうした?あんたがしっかりしなくてどうするの。マサミさんたちに恥ずかしいでしょうが」
困ったように笑う姉ちゃんの目尻には、くしゃくしゃの皺が刻み込まれている。
俺の9歳年上だから、今は44歳。
皺くらいあって当然な年齢かもしれないけれど、それにしても目の前の姉ちゃんは、実年齢よりもずっと老けて見えた。少なくとも“マサミの世界”の40代は、もっと若々しくて美しい。
レンタルのペラペラの着物も、似合わない赤い口紅も、年齢以上の苦労が滲むカサカサの肌も…。
姉ちゃんの何もかもが、このお上品な空間から浮きまくっている。
けれど俺は、そんな姉ちゃんの手をとって歩くたびに、胸の奥底から熱い感情が湧き出てくるのを感じていた。
不仲で、身持ちが悪く、学のない両親のもと、いつでも俺を守ってくれた姉ちゃん。
中高時代荒れてた俺を、親の代わりの愛情をもって叱ってくれた姉ちゃん。
「金の無駄」という理由で進学を断念させられそうなところ、「あんたは頭がいいんだから」と受験を応援してくれた姉ちゃん。
私立の医学部しか受からなかったのに、奨学金の保証人になってくれた姉ちゃん。
ずっとそうして俺の面倒を見てきたせいで、自分は結婚もできなかった姉ちゃん…。
― そうだ。俺は、姉ちゃんを楽にしてやるために。両親を見返してやるために、なにがなんでも上り詰めてやるって決めたんだ。
一介の勤務医なんかじゃ、稼ぎだって名声だって高が知れている。
どうせ目指すなら、大病院の跡取り。
そう誓って、俺はマサミに近づいたのだった。
「ほんとに…。あんたがこんな立派になるなんてね。父さんも母さんも相変わらずだけど、向一郎は姉ちゃんの誇りだわ。マサミさんを絶対、幸せにしなさいよ」
「わかってるって」
束の間の姉ちゃんとの会話を経て冷静さを取り戻した俺は、慌ただしく紋付へと衣装替えをしていく。
マサミに捨てられそうになりながらもどうにか食らいついて、俺は着実に医師として成長していった。
そして、30歳の時。
マサミに、マサミの病院に、ふさわしい医師になる最終段階として臨床留学を決めた時。
通算3度目になるプロポーズをして───。
ついにマサミから、「留学が無事に終わったらね」という返事をもぎ取ったのだ。
もしかしたら、マサミは留学先に付いてきてくれるんじゃないか。
そんなわずかな期待が裏切られた寂しさと、ようやくプロポーズを受けてもらえた安堵のせいもあってか、D.C.では本当に久々に女遊びをし、自分の願望を真実かのようにサエに語ってしまった。
けれど、絶対にバレるわけにはいかない。苦労をかけた、姉ちゃんのために。
◆
仰々しい紋付を着させられた俺が廊下に出ると、ちょうど同じタイミングで、色打掛に身を包んだマサミも控室から出てくるところだった。
「えへへ…なんか照れるね」
そうはにかむマサミは、息を呑むほどに美しい。
マサミの家に代々伝わるという豪華絢爛な色打掛も、まるで彼女のために仕立て上げられたかのように、美しさを引き立てている。
ふいに、言葉に表せないほどの激しく巨大な感情が、俺を包んだ。
― ああ。ついに、この時が来たんだ。ついに、ついに。マサミが俺のものになるんだ。
自分でも驚く発見だったけれど、この時俺は初めて自覚した。
確かに、最初は打算だったかもしれない。でも今は…。
たとえマサミが大病院の娘じゃなくても、俺はマサミを失いたくない。
計算抜きで、マサミと一生一緒に居たい。
姉ちゃんのためになんかじゃない。俺が、俺自身が、彼女を失いたくない。
― 俺はマサミを、ちゃんと愛してたんだ。
お色直しを終えた俺たちの前で、ゆっくりと披露宴会場の扉が開いていく。
「ねえ、向一郎。サエのスピーチ、ちょっとおかしかったよね…。具合でも悪かったのかな。大丈夫かな…」
「そうだね、心配だね…。もしかしたら、時差ボケとかかも?でもマサミ。今はとにかく、この披露宴を楽しもうよ」
「うん、そうだね。ありがとう、向一郎」
悪意に満ちたサエのスピーチを受けても、それに気づかず体調を心配するマサミの心の美しさに、甘く苦しい感情が湧いてくる。
マサミのこの純粋さに、心の薄汚い俺はこれまでどれだけ救われてきただろうか。
たとえサエが全てをマサミに打ち明けたとしても、マサミには俺を信じてほしい。
いや、もしバレたとしても、心から謝れば…きっとマサミは俺を許してくれるだろう。
彼女の手を取ってその美しい瞳を覗き込んでいると、不思議とそう確信できた。
すっかり扉は開け放たれ、天国へと続く道のようなスポットライトの光が、俺たちに向かってまっすぐにのびていた。
カサカサの手でせわしなく拍手を送る姉ちゃんの姿を確認しながら、俺はぎゅっと、マサミの──いや、妻の手を握りしめる。
まるで一新された衣装のように、俺の心もさっきとは打って変わって穏やかだ。
「マサミ。何があろうと絶対、幸せにするよ。…愛してる」
唐突な、そして、初めて伝えた本気の愛の言葉に、マサミは“なにを今さらそんなことを言うのか”、とでも言いたげな表情を浮かべる。
そして、大輪のバラのような美しい微笑みで、嬉しそうに答えた。
「うん。私、向一郎となら幸せになれるって、信じてるよ」
【スモールワールド相関図】
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▶1話目はこちら:友人の結婚式で受付を頼まれて、招待客リストに驚愕!そこには、ある人物が
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向一郎と改めて愛を誓い合う、幸福な花嫁マサミ。だれも気づかなかった彼女の真実