空港は、“出発”と“帰着”の場。

いつの時代も、人の数だけ物語があふれている。

それも、日常からは切り離された“特別”な物語が。

成田空港で働くグラホ・羽根田(はねだ)美香は、知らず知らずのうちに、誰かの物語の登場人物になっていく―。

▶前回:偶然、5年ぶりに元カノに遭遇…。男が思わず見入ってしまった、彼女の「現在の姿」とは?




Vol.11 真理奈の物語
6年越しの口紅


7時30分。

「あ、また口紅…完売してる!」

成田空港内・免税店の一角にあるコスメカウンターに出勤した真理奈は、嬉しい悲鳴をあげた。

春の新色が並べてあった場所は、テスターだけを残してすっかり空になっている。

― やっぱり、マスクを外すようになったのが大きいみたいね。

ここ数日、補充したそばから飛ぶように売れていくのは、いかにも春らしい明るいピンク系の口紅。

だが、真理奈の一番のお気に入りは、上品な赤みとベージュが絶妙なバランスで混じり合った昔からの定番カラーだ。心の中で、ずっとその色を推している。

そのくせ、入社前から今に至るまで、6年以上一度も塗ってはいない。

― ずっと好きなことに、変わりないんだけどね。

尊いものを愛でるようにうっとりとした気持ちで推し色の口紅を眺めると、空いた棚に商品を並べ直して開店の準備を済ませた。

しばらくすると、店内にクラシカルな音楽が流れ始める。同時に、1人の女性客がやってきた。

「いらっしゃいませ」

真理奈は、お客様にプレッシャーを与えないよう適度な距離を保つ。それでいて“ちゃんと気にしていますよ”というさりげないオーラを出す方法は、入社1年目にマスターしている。

「あの、すみません」

こんなふうに声をかけられたとき、すぐに対応できるように―。

「はい、お伺いします」
「新色の口紅って、どこにありますか?」
「こちらでございます。全色揃っております」
「あー、そうそうこれです!よかった、免税店ならまだあると思って」

そう言って、弾けるような笑顔でレジへと向かうお客様を見送る。

美容部員の仕事は好きだ。だけど真理奈は、ときどき“ここ”にいることに違和感を覚える。

― 私だって、“あっち側”にいたかもしれないのに…。

真理奈は視線を移す。かつて焦がれていた人や光景が、彼女の目にはひどく眩しく映るのだった。


今から6年前。

リクルートスーツの首もとにピンクのスカーフを巻いた真理奈は、最後の仕上げに口紅を塗った。

― いよいよ最終面接かぁ…。

ベージュが効いて赤みが強すぎない上品な色は、きっと機内でも映える。CAの制服を着たときの自分をイメージして買った口紅は、真理奈にとって就職活動中のお守りのような存在になっていた。

「…うん、大丈夫。合格する!」

鏡の中の自分を見つめ、力強く言い聞かせてから試験会場へと向かう。

大学在学中から通っていたエアラインスクールでも成績は優秀だったし、面接の練習もそつなくこなした。講師やまわりの受講生たちからも、合格間違いなしだと言われてきた。

航空会社で働くことを目標に、真理奈は必死に努力してきたのだ。

それなのに結果は―。

「どうして…」

CAの採用試験は、国内大手も外資系もことごとく惨敗。すぐさまグラホの募集を見つけてエントリーするも、崩れかけたメンタルを立て直す間もなく受けた面接は、ひどい出来だった。

― この口紅も…私には相応しくないんだ。

もう塗ることもないだろうと、大事にしていた口紅をポーチの奥に押しやる。

結局、真理奈は航空会社に就職する夢を叶えることができず、第二志望の美容部員として働くことが決まった。

しかもそこで、思いもよらない話を持ちかけられることになる。




入社後の研修中、真理奈は人事部から配属先を言い渡された。

「柏原さんは語学が堪能なので、成田空港に行ってもらおうと思います」
「…成田空港、ですか」

― どうしよう、空港で働くだなんて…。

CAやグラホでもないのに「空港で働く」なんて、真理奈は受け入れ難かった。

目指していた「憧れの職業」に就いている人を横目に美容部員の仕事をするなんて、屈辱的だ。

しかし、入社わずか2ヶ月目の新人が、配属先に不満を言えるわけもない。

「わかりました。よろしくお願いします」

そして1ヶ月後。

真理奈は、免税店内のコスメカウンターに立っていた。

もともとメイクや美容は好きだし、仕事は楽しい。それに就職したのは外資系化粧品会社だけれど、アパレルを展開するブランドでもある。コスメからバッグまで、自社製品はなんでも社割で買うことができた。

制服だって、1着20万といわれる高級スーツが支給されている。

― キレイにメイクして、いいスーツを着て、好きな化粧品を販売する…思っていたよりずっといい仕事かも。

ところが。

入社から1年が経ち、ズタボロだった自尊心を取り戻しつつあったタイミングで、真理奈は予期せぬ人物から声をかけられた。

「あの…」
「はい、いらっしゃいま…せ」

― あっ、この人…。




黒いスーツケースを携えた制服姿のCAが、真理奈のうしろに立っていた。

「これと同じアイシャドウ、ありますか?」
「は、はい。ただ今ご用意いたします」

ものの数分CAと対峙しただけなのに、真理奈の中でこれまで必死に抑えていた航空会社への未練がふつふつとわき上がり、沸騰した。

嫉妬の矛先は、ほかでもないCAやグラホだ。

― 彼女たちと私、一体なにが違ったっていうのよ。

真理奈はこれではいけないと、頭を振って平常心を保った。

以来、真理奈は自分の嫉妬心に勝てなくなった。

免税店にいると嫌でも航空会社職員の姿が視界に入る。そのたびに激しく妬んでは、“あの人より、私のほうが…”と粗探しをして悦に入るクセがついてしまった。

ふとコスメカウンターにある鏡に目を向けると、そこには目尻がつり上がったキツい顔の女が映っている。

真理奈はゾッとした。

「これ、私…?やだ…もうここからいなくなりたい」

ポツリとつぶやいたときだった―。

「すみません」

涼やかな声が耳をかすめた。


上下黒色の制服に身を包み、髪をお団子にまとめた航空会社職員が真理奈の傍らに立っていた。

一瞬、怪訝な顔をしてしまう。

「これ、落ちてました」

彼女の手には、ムエットの束が握られている。

慌てて店頭の香水の什器に目をやると、誰かがぶつかってしまったのか大きく位置がズレていた。ムエットは、そのとき床に散らばってしまったのだろう。

「あ、すみませんっ!ありがとうございます」

途端に表情を変える真理奈の視線の先で、“Trainee HANEDA”のネームプレートがキラリと光った。

「いい香りですね」

ニコッと笑うハネダさんは、忙しなく動いていたのか額に汗がにじみメイクが崩れかけている。それを差し引いても、凛としたキレイな人だと思った。

だからつい、真理奈も話に乗ってしまう。

「よかったら、ちょっとだけつけてみませんか?」
「いいんですか?…うーん、やっぱりいい香り!さっき、前を通ったときから気になっていたんです」
「フローラル フルーティの香りです。すごくお似合いですよ」
「ありがとうございます。なんて名前か覚えておきます」

この会話をきっかけに、彼女とは顔を合わせると会釈するような仲になった。駅や空港内のスタバで遭遇すれば、世間話をすることもある。

気がつけば、ハネダさんの胸もとからは“Trainee”のバッジが外れ、髪はお団子から夜会巻きに変わっていた。さらにあか抜けて魅力的になったなと思っていたら、今度は後輩をつれて歩いている。

真理奈は、彼女の姿に叶わなかった自分の夢を重ねて昇華させていたのかもしれない。

おかげで、CAやグラホへの嫉妬心は次第に薄れていった。眩しい憧れだけを心に残して―。






15時30分。

真理奈は、仕事を終えて、成田空港駅のホームで電車を待っていた。

― 今日もやっぱり、明るいピンク系の口紅が大人気だったなあ。

そこに、ハネダさんがやってきた。早番終わりだろう。

「柏原さん!お疲れさまです」
「あー、ハネダさん。今日は定時で上がれたんですね」

スーツケースを持った旅行客を優先してから、2人は空いている座席に並んで座る。

「昨日は強風でフライトが遅延して、休憩なしの5時間残業だったけど…今日はなんとかです。でももう、限界…足がずっとパンパンです」
「うわ、本当にお疲れさまです。…あ、そうだ!」

真理奈は数日前に母からもらったLINEを思い出す。

習い事仲間と計画していた海外旅行に、やっと行けることになったそうだ。

「明日、母が台湾行きの便に乗る予定なんです。もしかしたら、ハネダさんにお世話になるかもです」
「え、うちの便ですか?何時の?」
「午前中って言ってたかな。5年ぶりの海外旅行だって、すごくはしゃいでました」

ハネダさんは「いいなぁ。私も見送るだけじゃなくて旅行したいです」と笑顔だ。

「私も!行くならまず、近距離からかな」

先に電車を降りるハネダさんに手を振ると、真理奈は母にLINEを返した。

『真理奈:旅行楽しんできてね!お土産は台湾茶がいいな。パッケージがかわいいやつ』

そして、1週間後。

自宅にいる真理奈に、帰国したばかりの母から電話がかかってきた。




「もしもし、真理奈?無事に帰ってきたわよ。お土産も買ってきたから、次の休みに取りに来なさい」
「わー、ありがとう!うん、来週あたりに行くよ」
「そうそう、ハネダさんにもよろしくね」
「え、お母さん。ハネダさんって、なんで?」

聞くと、母がチェックインカウンターでパスポートを出した直後。

「チェックイン、代わります」

そう言って、ベテラン風のグラホがやってきたのだという。

「柏原様、いつも真理奈さんには大変お世話になっております」
「あら、真理奈のお知り合いの方?」
「はい。私がまだ新人の頃からの―」

ハネダさんが、ムエットを拾い集めて届けてくれたあの日。

彼女は、仕事でミスをして落ち込んでいた。そこへフワッと優しい香りが漂ってきて、引き寄せられるように免税店の前に来てしまったのだという。

真理奈にその香水をひと吹きしてもらうと、急に気分が晴れて、また頑張ろうという気持ちになれたと話していたそうだ。

「今でも、プライベートでその香水を使っているって言ってたわ。

ハネダさんね、富士山がキレイに見える席を用意してくれたの。おかげで、いい旅行になったわ」

― 知らなかった…。

真理奈はあの頃、なりたくてもなれなかった憧れの職業に就いているハネダさんは、それだけで十分に幸せなのだろうと勝手に決めつけていた。

就職することがゴールだとでも思っていたのだろう。

― 実際は、そこからがスタートなのに…。

ハネダさんを見ていると、それを体現するかのように着実にステップアップしているのがわかった。最近では、カウンター責任者を任されるようになったという。

それに比べて、自分はまだ、美容部員としてスタートを切ることさえできていないんじゃないかと真理奈は思った。

母親との電話を切る。

真理奈は、実家から持ってきていた古いメイクポーチを引っ張り出してきて、ファスナーを開けた。

かつてお守りのようにしていた、あの口紅が出てきた。

毎日のようにコスメカウンターで眺めている、夢に破れた自分には不釣り合いだと封印していた口紅だ。

時間が経って酸化しているけれど、すごくいい色。

ただ、改めて顔に近づけてみると、自分にはまったく似合っていなくて驚いた。

― “憧れ”と“合うもの”は、必ずしも同じではないってことか…。

真理奈は、6年越しの憧れと古い口紅を手放した。

代わりに翌日の出勤前、青みがかったローズベージュの口紅を購入した。

買ったばかりの口紅の封を開けて塗ってみると、今の自分によく似合う。真理奈はキュッと口角を上げ、コスメカウンターに立った。

▶前回:偶然、5年ぶりに元カノに遭遇…。男が思わず見入ってしまった、彼女の「現在の姿」とは?

▶1話目はこちら:ロンドンから帰国した直後、女に予想外のトラブルが…

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強風でフライトが遅延…そのとき、男が凝視していたのは