「もっと大事にすればよかった」6年の恋が終わり、後悔に苛まれる男。その頃、女は…?
春になると、日本を彩る桜の花。
大都会・東京も例外ではない。
だが寒い冬を乗り越えて咲き誇ると、桜はあっという間に散ってしまう。
そんな美しく儚い桜のもとで、様々な恋が実ったり、また散ったりもする。
あなたには、桜の季節になると思い出す出会いや別れがありますか?
これは桜の下で繰り広げられる、小さな恋の物語。
▶前回:「あなたのために、海外赴任は断る」29歳女の決断に、彼が見せた反応は…
野神 智(26)「ああ、思い出してしまった」
「一気に咲いてきたな。5分咲きってところか」
文芸誌の編集者を務め、3年目。
疲れた日にはいつもひとりでここ、千鳥ヶ淵にきて、心を洗う。
「でも、大丈夫かな…」
ふと、今朝見た天気予報を思い出したのだ。明日は雨で、しかも風が強いという。
「散らないといいけど。この桜たち」
サクラ。
その響きが、不意に心に突き刺さる。
4ヶ月前に終わってしまった、咲良との6年間の恋を思い出した――。
◆
咲良と出会ったのは、大学の文芸サークルの新入生歓迎会だ。
全体として人見知りのメンバーが多いのが印象的だったが、その印象の一端を担っていたのが、咲良だ。
短く切った髪に、化粧っ気のない顔。おどおどした口調で、愛想笑いすらぎこちない。
― 仲良くなるのは、難しいタイプかな…。
しかしその秋、咲良を見る目ががらりと変わる出来事があった。
サークルのメンバーで作った、1冊目の文芸誌。咲良の書いた小説を読んで、ページをめくる手がとまらなくなったのだ。
― なんだこれ。
咲良の書く物語の登場人物たちは、咲良本人とは大きく印象が違った。
快活で、明朗で、自分の主張をよく喋り、思う存分衝突する。
咲良の中にこんな人物が住んでいたのかと、目を見張ったのを覚えている。
翌日、ひとりで帰っている咲良の背後から、声をかけた。
「咲良の作品、読んだよ。すごくいいと思う」
咲良はびっくりして言葉が出なかったのか、なにも言わなかった。ただ、本当にうれしそうに笑った。
以来、咲良に話しかけるようになった僕は、1年ほどじっくりと距離を縮め、大学2年生の冬の終わりにようやく告白した。
端的に言って、咲良は僕を夢中にさせた。
会うたびに、少しずつ心を開いてくれる。笑顔が、どんどん魅力的になっていく。
これは僕の独りよがりではない。交際して1年が経つ頃には、「咲良って、キレイになったよな」と、周囲もうわさするようになっていた。
お互いに、初めての恋人。
しつこいくらい、ずっと一緒に過ごした。
咲良は、僕の前でだけ、見たこともないくらいの大声で、ケラケラとよく笑うようになった。
― あの頃は、ずっと笑って過ごしてたのになあ。就職が、分岐点だったな。
風に揺れる千鳥ヶ淵の桜を見ながら、思う。
2020年4月。僕は、念願だった総合出版社の文芸編集者になった。
一方の咲良は「本が好きだからこそ、仕事にはしたくないの」と言い、出版業界には興味を見せず、保険会社に就職した。
結果、好きを仕事にした僕だけが、仕事に夢中になった。
編集者の仕事は、魅力的だ。
激務だが、名刺一枚で、憧れていた小説家や評論家に会える。
気づけば、咲良より仕事が優先されるようになって、社会人になって1年が経つ頃には、毎週のデートは2週に1度に減った。
そして、2年が経つ頃には、月に1度になっていた。
たまのデートすら盛り上がらなくなったのは、この頃だ。
原因は明確。
僕が、仕事に関する話ばかりするようになったから。
いつも咲良からは「もう仕事の話はいいからさ」とやんわり制された。なのに、気づけばまた、仕事について話していた。
今考えれば、愚かだと思う。
咲良はいつまでも自分からは離れていかないと、信じ切っていたのだ。
寄り添う気持ちを忘れていた。
あからさまに咲良より仕事を優先していたけれど、受け入れてもらえているつもりだった。
◆
そして、社会人3年目。
ますます忙しくなっていた、去年の11月。
僕の近所である神楽坂で2ヶ月ぶりに会い、焼き鳥を食べてから、マンションへと向かう道中。
咲良は突然、うつむきながら言った。
「今日、おっきなバッグで来たの、なんでかわかる?」
咲良の目を見たら、言いたいことはすぐにわかった。
「このバッグに、智の部屋にある私の荷物を全部入れて…今日は泊まらずに帰るね」
初任給でプレゼントしたイヤリングが、咲良の耳元で揺れる。
咲良の声は、小さくてたどたどしい。昔に戻ったかのようにぎこちなかった。
「どうして…」
僕は、そう言った。
咲良はなにも答えなかった。たぶんわかっていたのだと思う。
「どうして別れたいの?」と聞きたいわけではなかったことを。
僕はただ、「どうして、咲良を大事にできなかったのだろう」と自問していたのだ。
◆
「また、考えてしまった…」
武道館の客と思しき人たちで、往来が増える。
そのとき、刺さるような強い風が吹いて、桜がガサガサと揺れた。
細い枝が折れてしまわないかと不安になりながら、僕は、じっとその姿を見つめる。
咲良「今日、告白されるかも」
智と別れて、4ヶ月が経ったみたいだ。
みたいだ、と言ったのは、別れてから時間の感覚がちょっとおかしくなってしまったから。
1日が、重くて、長い。なのにトータルで見ると、本当についさっきまで、智の横にいたような気がする。
「咲良、失恋を癒すのは次の恋よ」
親友の佐和子に背中を押されたのは、3週間前。
彼女はその場で私のスマホにマッチングアプリを入れ、登録を済ませた。
今日は、そのアプリで出会った「内藤さん」と3回目のディナー。ホテル椿山荘の『イル・テアトロ』でメインディッシュを食べている。
「このお肉、おいしいですね。咲良さんと食べると、余計においしい」
大手金融勤務だという内藤さんは、とても上品な人だ。食べ方も言葉遣いも、笑い方も。嫌いではない、と思っている。
佐和子いわく、告白は3回目のデートだとだいたい決まっているらしい。
― 相場通り、今日告白されるとしたら…OKするかな。
緊張しながら、なんとか料理を味わう。
そして、デザートのカッサータが出てきたとき、内藤さんは言った。
「咲良さん、どうですか?」
「はい?」
デザートの話かと思って、首をかしげる。
「よかったら、私と付き合ってくれませんか」
― あ…佐和子の言っていた通りだ。
ひそかに感動しながら、前向きな返事をしようとしたとき。
「僕は、咲良さんの、おしとやかなところが好きなんです」
作った笑顔がしぼんでいくのが、自分でわかった。
どこが好きなのか明言してくれるなんて、内藤さんは誠実な人なのだろう。
でも、違う。
私はおしとやかではない。
智と出会って知ってしまった。本当はケラケラよく笑う性格だ。
ふざけあって、はしゃいで、あの頃は、楽しくて…。
「あの…内藤さん、私…」
◆
内藤さんは優しかった。
忘れられない人がいることをバカ正直に打ち明けた私に、「残念です。でも、楽しかったです」と笑って言ってくれた。
お詫びを込めて差し出した2人分のディナー代は、1円も受け取ってもらえなかった。
ひとりになって廊下を歩きながら、申し訳ないことをしたと思う。
― 私、不誠実だ。
こんなことになるなら。
悲しくて耐えきれなくなって智を振ってしまったけれど、もっと一緒にいればよかったのかもしれない。
もっと歩み寄ればよかったと、今になって思う。
― たとえば、智の仕事の話を楽しく聞いてあげればよかったな。
それができなかったのは、たぶん嫉妬していたからだ。
だって私も、編集者になりたかった。
智には内緒にしていたが、実は就活のとき、各出版社に履歴書を送った。でも1次面接であっけなく、すべての会社に落ちている。
だからこそ、「好き」を仕事にできた智が羨ましくて、智だけが仕事に夢中になるのが、悲しかった。
― もし、私がちょっとでも態度を変えてたら?
想像に過ぎないが、会うたびに、話が盛り上がったかもしれない。
― そしたら、もっと頻繁に会ってただろうな。そしたら今でも智と…。
「あ」
窓の外に広がる幻想的な景色に、目を奪われる。
夜桜を、ピンク色の雲海が包んでいる。引き寄せられるように、庭園に出た。
「キレイ…」
見とれていると、ひときわ強い風が吹いて、桜が大きく揺れる。
― そういえば、明日は、雨も風もひどいんだっけ。
桜は、強風に耐えられるだろうか。
「まだ、5分咲きなのに…」
― もし、満開になる前に、散ってしまったら…。
私はスマホを取り出し、カメラを起動する。
満開を迎えずに散ってしまったとしても、覚えていて。…桜が、そう言っているような気がしたからだ。
― わかるよ。
すうっと、涙が頬をつたう。
カシャ。
シャッター音が、漏れる嗚咽をごまかしてくれる。
カシャ。カシャ。
そのときだ。
画面の上部に、LINE通知のポップアップが表示された。
『智:咲良?』
― え…。
『智:いまなにしてる?会えないかな。謝りたいんだ、本当に』
心臓が跳ねた。
落ち着こうと空を見上げる。
天気予報のわりに、夜空には雲がない。星が、キレイに光っていた。
『咲良:桜を見てた。私も謝りたい』
4ヶ月ぶりのメッセージが、どこかにいる智のもとへ、飛んでいく。
▶前回:「あなたのために、海外赴任は断る」29歳女の決断に、彼が見せた反応は…
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