「好きになった人と結婚して家族になる」

それが幸せの形だと思っていた。

でも、好きになった相手に結婚願望がなかったら…。

「今が楽しいから」という理由でとりあえず付き合うか、それとも将来を見据えて断るか…。

恋愛のゴールは、結婚だけですか?

そんな問いを持ちながら恋愛に奮闘する、末永結子・32歳の物語。

◆これまでのあらすじ

結子の会社に突然訪ねてきた元カレ。「東京に戻ってきたからやり直したい」と自分勝手な言い分。結子は「付き合っている人がいる」と断った。家に戻ると、マンションの前には日向が待っていた。彼の言動にキュンとなる結子だが…。

▶前回:彼氏に内緒で他の男と会っていた女。今彼に怪しまれ、咄嗟に出た言い訳とは




Vol.8 結婚したくない理由


木曜日の正午。

新宿での打ち合わせに同行した高坂を、結子はランチに誘った。

「お腹空いてたんです!」と喜ぶ高坂を連れ、『赤坂うまや』に入った。

この界隈に来ると必ず立ち寄るこの店は、お水はエビアンだし、ゆったりした空間が気に入っている。

「このお肉、炭火の香ばしい香りがして美味しいです〜。こういうお店を知ってるって、大人の女って感じですね!」

「確かに、1年目のあなたからしたら私は大人よね」

結子が高坂の教育係に任命されてから3ヶ月ちょっと。

高坂の仕事に対する態度は、相変わらずで、プライベートが最優先だ。そして、仕事以外の話となると、饒舌になる。

「末永さん、少し踏み込んだこと伺ってもいいですか?」

こんな問いにも慣れっこで、大した用件ではないことはわかっている。

「いいよ。何?」

高坂は「あのぅ…」と前置きの後、あえて小声で聞いてきた。

「もしかしてなんですけど、日向さんとお付き合いされてますか?」

ここは新宿。

周囲に社内の人間などいないから小声になる必要はないが、そうしたのはきっと彼女なりの先輩への配慮だ。

「何でそんなこと聞くの?」

平静を装いつつ、聞き返す。

「実は最近、このあいだの日曜日に目黒で見ちゃったんです。2人で仲良さげに歩いているところ」

不倫ではないし、会社が社内恋愛を禁止しているわけでもない。だから、隠す必要などないのだが、よりによって高坂が見ていたとは…。

「うん、そうだよ」と答えれば、彼女と彼女の同期たちに格好のネタを提供してしまうことは目に見えている。

だが、一方で隠す理由がないのもまた事実。

「見られちゃったんだ。その通りだよ」

結子は、あっけらかんと答えるのが正解のような気がした。

彼女の反応は意外だった。


「えー!うらやましい。お家、もう行かれました?」

いきなり飛び出してきた“家”というワードに結子は少し驚いた。

実家住まいだと聞いてはいるが、結子はまだ訪問したことはない。

「家って彼の?ううん、行ったことないけど、どうして?」

「あの塀の中はどんな感じなのかと思って」

― 塀の中?

不思議そうにしている結子に、高坂は言った。

「知らないんですか?日向さんのご実家って会員制のリゾートクラブをいくつも経営されて、お家もものすごい豪邸ですよ。

実は、私の兄が日向さんと慶應大学時代の同級生なんです」




そういえば、日向も「彼女のプライベートを知っている」と以前言っていたのを思い出した。

高坂に「知らなかった」と言うのが少し悔しくて、結子は「ご実家のことはなんとなく聞いてたけど」と控えめに答えた。

「以前、兄の仲間のキャンプに混ぜてもらったんですが、日向さんを車で迎えに行ったら、住宅地の一角にまるで洋館のような塀が!」

あの別荘だし、きっとちゃんとした家に生まれたのだろうと結子も察していた。

「だから、私、結構前から日向さんのこと知ってるんですよ。色々大変だと思いますけど、私、末永さんを応援しているので!」

おそらく高坂に、悪意はない。

しかし、会社の新人が自分の恋人のことを自分より前から知っていること、実家を把握していることが引っかかってしまう。

― “大変だと思いますけど”って、もしかして高坂は、日向くんの元カノについても、何か知っているのかな…。

日向と付き合い始めて、もうすぐ3ヶ月。

結子は、日向に結婚願望がないのは、過去の恋愛が影響しているのかな、と予測していた。

― 高坂に聞くくらいだったら、直接本人に聞いてみよっと。

高坂に聞けば何かしら教えてくれそうだが、会社の先輩としてのプライドが結子を思いとどまらせた。

「そろそろ戻ろうか」

バッグからスマホを取り出して立ち上がり、会計に向かう。そして、「PayPayで!」と結子がスマホを開いた時、InstagramのDMが通知された。

「誰だろ?」

慌てて決済を終わらせ、結子は画面を開いた。

「翔平です。突然ごめん。もしよかったら食事でも行きませんか?」

アカウントをタップすると、北海道の美しい自然と仲間たちと楽しそうに過ごす元カレの翔平がいた。

― へぇ。きっと北海道に行ってからインスタ始めたんだ…。

無視しようかとも思ったが、確かに以前の彼とは明らかに違って見える。結子は、一言だけメッセージを返した。

「予定見てみます」




日曜日。

ヘアサロンの帰り、結子は待ち合わせのため恵比寿に向かった。

今日は日向と食事の約束をしている。

翔平とはあの後何度かメッセージでやりとりをした。別に食事くらいならとも思ったが、いざメッセージを返そうとすると、なんとなく後ろめたい気持ちが頭をかすめた。

結子の自宅の前で待っていた日向の姿が浮かぶのだ。

結局、結子は「やっぱり2人で会うのは今彼に悪いので、ごめんなさい」と食事の誘いを断った。

「現地集合で」と日向に指定されたのは、恵比寿ガーデンプレイスからほど近い、『鳥焼き 小花』。




店に着くと、日向は結子のヘアスタイルを絶賛した。

「その長さも似合う!」

肩レングスのゆるふわボブ。長めの前髪も作ってもらった。

「大人可愛くなった?」

恥ずかしさを紛らわすように、結子がおどけてみせる。

すると、「もともと十分可愛いですよ」と日向は真面目な顔で言った。

こういうふとした瞬間、日向と付き合ってよかったと思わずにはいられない。だが、今日の結子には、聞かなくてはならないことがある。

「私もワインください」

酔って聞きそびれないうちに、話の流れをそっちに持っていきたい。

「そういえば、今週ね、高坂さんとランチしたの。彼女のお兄さんと同級生なんだね」

唐突な結子からの問いに、驚く様子もなく日向は答えた。

「言わなかったっけ?」

言い忘れていたのではなく、言わなかったのだと結子は思った。

「彼女、昔からおしゃべりだから…何か言ってましたか?」

「うん、色々聞いた。私が聞きたくないことも知っていそうだったから、適当に切り上げて会社に戻ったよ」

“聞きたくないことも知っていそう”

結子が発したこのフレーズが、日向に引っかかったように見えた。

「結子さんは、何を聞きたくないんだろう?」

結子はワインを一口含むと、慎重に言葉を選んだ。

「私が知らない過去とか。私は、日向くんを知らなすぎる。このまま付き合っていっていいのかなって思う時が、たまーにある」

日向は黙って聞いていた。

「日向くんと一緒にいるのはとても楽しい。でも、実は…」

「僕が結婚はしたくないって言ったこと気にしてるの?」

拍子抜けするほどあっさりと、日向は意図を察してくれた。

「間違えないで。付き合って間もないし、結婚するの?しないの?どっち?って聞いてる訳じゃないの。ただ、なんかモヤってしてる。好きになればなるほど、なんでだろう?って」

日向は何も答えず、結子も黙っていた。




ちょうどタイミングよく、カウンターの向こう側から、料理が供された。結子は、気まずい空気を払うように、その料理に箸をつけた。

「これ、おいしい!」

「この店のウリは串を打ってない焼き鳥。串がなければ調理法やカットの仕方を変えられるし、美味しさの幅を広げることができるから。

男女の付き合いも、結婚っていう串を外したら、もっと楽しいものになるんじゃないですか」

日向が話すのを結子は静かに聞き、何か意見することはしなかった。

「なーんて、結婚から逃げてる男の言い訳にしか聞こえませんね、きっと」

「私が問い詰めてるみたいだけど、そんな重たい意味じゃないから!」

理由は聞きたい。とはいえ、気まずくなったり、ケンカをするためにこの話を持ち出した訳ではない。

すると、日向がポツポツと話し始めた。

「僕の父は、家族には生活するに有り余る金さえ渡しておけば自分は何をやっててもいい、っていうスタンスの人なんです。いつもあちこちに女性を作って…。

だからかな。僕は結婚に夢が持てない。付き合っているだけなら楽しいのにな」

今聞いたことが、理由のすべてではないだろうと結子は悟った。

― 日向くんの心の中が少し見えたような気がする…。

「ありがとう。わかった」

ようやく日向から出た本音の断片。結子は、自分の考えも伝えておくべきだと思った。

「結婚したいか、したくないかは、その人の持つ価値観だと思うの。

相手の価値観に無理に合わせて、どちらかが我慢したり、自分を偽ったりする関係はおかしいと思う」

日向は、静かに「そうだね」とうなずいた。

「私たちがこれから先も一緒にいる上で、その価値観の違いに苦しくなる時が来るかも。

どちらか一方に合わせないと成立しないような恋愛は不正解」

結子は過去の恋愛から痛いほど学んでいる。

「でも、その時はちゃんと言うつもり」

結子はきっぱり言い切ると、日向の方を見て笑った。

「よ、よかった…。もう今日で別れたいって言われるのかと思って、緊張した…」

ほっとした様子で、日向はカウンターの下で結子の手を取った。重ねた手の温度を感じながら、結子は思った。

― もしかしたらこの人は、結婚したくないんじゃなくて、結婚を選ぶのが怖いのかもしれない。

▶前回:彼氏に内緒で他の男と会っていた女。今彼に怪しまれ、咄嗟に出た言い訳とは

▶1話目はこちら:次付き合う人と結婚したいけど、好きになるのは結婚に向かない人ばかり…

▶NEXT:3月23日 木曜更新予定
もっと彼のことを知りたいと思った女は、ある人物に会い…