パイロット訓練生とグランドスタッフ。いい感じだった2人の仲が、一晩で急激に冷めたワケ
空港は、“出発”と“帰着”の場。
いつの時代も、人の数だけ物語があふれている。
それも、日常からは切り離された“特別”な物語が。
成田空港で働くグラホ・羽根田(はねだ)美香は、知らず知らずのうちに、誰かの物語の登場人物になっていく―。
▶前回:食事会に参加しても、22時には帰る27歳の女。これまでしたことのない“あれ”とは…?
Vol.7 美香の物語 〜後編〜
3年前の後悔
“ピピピッ”
「お疲れさまでした」
早番で出勤した美香は、終業時刻ちょうどにタイムカードを切った。
― トラブルなく終わる日なんて、珍しいかも。そういえば…。
いつもなら退勤直前まで代わる代わる業務の質問をしにくる同じ班の後輩たちも、今日は誰もやってきていない。
班長の美香は、班員の成長にたのもしさを感じながら、軽い足取りでロッカールームへと向かった。
首もとのスカーフをスルッと外して、着替えを済ませる。
腕時計に目をやると、15時30分になるところだ。
「うん、いい時間」
ハイヒールを、ロッカーの上にコトンと置いた。代わりにフラットシューズに履き替え、地下1階に下りて電車に乗る。2駅目の成田駅で下車すると、成田山新勝寺へと続く参道沿いにあるバーのドアを開けた。
少し早めの16時にオープンするこの店には、自然と空港関係者が集う。美香もまた、新人の頃先輩に連れられてきて以来、かれこれ5年間通い続けている。
海外のパブのような内装。それと、ビールの種類が豊富なことでも人気がある。
美香は、この日もいつものように黒ビールを注文すると、定位置のテーブル席に座った。
しばらくすると―。
「美香、久しぶり!」
懐かしい声が耳に響いた。
「航太っ!久しぶり。先にビール頼んじゃった」
「美香は、相変わらずギネスビールなんだね。悪いけど…僕、今日飲めないから食事だけ付き合うよ」
航太は、美香の向かいの席に鞄を下ろす。その足でカウンターに向かうと、ウーロン茶を片手にすぐに戻ってきた。
「ていうか、美香。昨日LINEくれたとき、酔っぱらってた?」
「えっ?何で?」
「いや、LINEに“明日って早番?”って」
「あぁ、ごめん。なんか、これまでのクセでつい…」
確かにおかしかったと美香は思った。今、航太は、早番や遅番の勤務なんてしていない。
それなのに、こうして目の前に座る彼の姿は、あの頃とまったく変わっていないように思えた。
彼が成田を離れてから、もうすぐ3年が経つ。
美香は、航太のことが好きだった。
今から4年前。
美香が、入社1年目の23歳のとき。
「あれ?どうして立ち上がらないんだろう…」
出発ゲートのシステムが作動せず、困っているところに声をかけられた。
「よかったら、僕が見ましょうか?」
搭乗開始時刻まで、あと30分。先輩たちがくる前に、ゲートの準備を整えておきたい。焦っていた美香は、1テンポ遅れて声のするほうへ顔を向けた。
― あ、この制服って…。
目の前に立つ男性は、国内航空会社の制服をまとっている。同じシステムを使う同業者だ。そうとわかると、美香は会社の垣根を越えて助けを求めた。
「すみません!お願いします。ログインの画面にならなくて…」
それだけ伝えた美香は、わたわたとゲートバッグから書類を取り出し、ほかの作業に取り掛かった。
すると、わずか数分後。
「うん、これで大丈夫だと思います」
「え、もう?…すごい、ありがとうございます!」
「いえ、僕も前に同じことがあって、めちゃくちゃ焦りましたから」
「私も焦りました…助かりました」
これが、航太との出会いだった。
それから数日。
美香が遅番の業務を終えて、チェックインカウンターの掃除をしているときだった。
― ん?
視線を感じて顔を上げると、向かいのカウンターから航太がこちらを見ていた。美香は、会釈をする。彼も、軽く頭を下げてきた。
― こんなに近くで働いてたんだ。
これまでの美香は、業務中に他社の職員を気にすることなんてなかった。
しかし、改めて意識してみると、彼とは保安検査場や出国審査場、乗り継ぎカウンター。さらには、休憩中のレストランでも顔を合わせることがあった。
気がつくと、美香は航太の姿を探すことが増えていた。遠目に彼を見つけると、今日も出勤してきてよかったとさえ思う。そして、会えばどちらからともなく会話をするようにもなっていったのだった。
「羽根田さんと僕って、きっと同じようなシフトなんですね」
「そうですね。私は今日、早・早・遅・遅の4勤初日です」
「僕もまったく同じです!すごいですね」
「本当。会社が違うのに、こんなにかぶることってあるんですね」
こうして意気投合すると、LINEを交換。
航太は、美香と同じ23歳。自社養成パイロットとして採用された後、成田空港に地上配置されて、会社の寮に入っていることまでわかった。
― パイロット訓練生だったんだ。
美香は、恋の予感にただ浮かれていた。
パイロット訓練生が地上配置されるのは、1〜2年の間だけ。その後は、2年近くかけて基礎訓練に入る。晴れて副操縦士になったら、ベースは羽田空港というのが通例だ。
かたや美香は、よほどのことがない限り、成田空港からほかの空港へ異動することはない。
彼は、あっという間に自分の前からいなくなってしまう。そんなわかりきったことを、このときの美香は、ちっとも考えていなかった。
「ごめん、美香!今日のフライトがDelay(遅延)してさ」
「ううん、フライト案内で知ってたから大丈夫!こっちも、Go-Show(予約のないお客様がやってくること)が多くて、ドアクローズぎりぎり。バタバタだったよ」
早番が終わった後に、2人で飲みに行くことが増えた。
同い年で気が合うだけでなく、成田近辺でサクッと会うことができる。そのうえお互い仕事に理解があるのだから、誘い合うことが増えるのは当然の流れだった。
ところが、出会ってから半年が経ったある日。
― あれ、航太じゃない?
オフィスへと向かう廊下の片隅に、彼の姿が見えた。
「航…っ」
だが、美香は声をかけるのをためらった。
航太の傍らには、彼と同じ会社の制服を着た女性職員がいたのだ。それも、今にも泣きだしそうな表情で―。
― これって、告白…されてるんじゃない?
勘のいい美香は、2人が仕事の話をしているのではないとピンときてしまった。それと同時に、胸がチリチリと痛むのを感じたのだった。
― 航太のこと…誘いにくくなっちゃったな。
地上配置期間中のパイロット訓練生が、グラホと付き合い始める―。よく聞く話だ。
「航太も、もしかしたら…」
美香が、ポツリとつぶやいたときだった。
『航太:お疲れ!次の早番の後、例の店に行かない?』
いつもと変わりない航太からのLINEに少し安堵したものの、美香のもやもやは晴れない。
航太がほかの女性と親密そうにしている姿を見て、美香は自分の気持ちを確信したのだった。
― 私…次に会ったとき、航太に気持ちを伝えよう。
◆
1週間後。
美香は、航太に告白するつもりでいつものバーで彼を待っていた。
「お待たせ!って、美香もう飲んでるし」
緊張して喉が渇いていたせいか、航太の到着を待っている間にグラスビールを半分ほど飲んでしまった。
航太もビールを注文すると、2人は向き合って座る。
― なにから話そう…。
美香が口ごもると、彼のほうから話題を振ってきた。
「今さらだけど“羽根田”って、いい名字だよね」
「そう?」
「うん、この仕事に就くべくして就いたって感じがする」
「でも、この名字あんまり好きじゃないな」
この頃の美香は、“羽田空港”のHANEDAと自分の名字をかけて話題を振られることにうんざりしていた。
「なんで好きじゃないの?」
「…私、もともと羽田ベースのCAになりたかったんだよね。でも、最終選考で落ちちゃって。今の会社に就職してからも2回挑戦したんだけど、だめだった。
それで、成田空港でグラホをしている“HANEDA MIKA”…だなんて笑えない冗談だよ」
美香は、ひた隠しにしてきたコンプレックスを初めて口にした。
「また…挑戦したらいいよ」
「は?なに言ってるの?3回も不採用になってるんだよ。年齢だって、もうすぐ24歳だし…無理だよ」
「だけど美香は、納得できてないんだよね?それなら4回目も受けるべきだよ。それに、僕が操縦するフライトで、美香が乗務員として働くって、なんかいいなって…。
僕…美香のことが―」
カッとなった美香は、話をさえぎった。
航太がなにか言いかけたのは気になる。それでも、どうしても感情が抑えられず、言葉が止まらなくなってしまった。
「そんなこと、1回で操縦士の採用試験に通った航太には言われたくないよ!」
3回も選考に落ちたことで、美香の心はすっかり折れていた。
自分には、CAの適性がこれっぽっちもないのだという悲しい現実をつきつけられて、ボロボロになっていた。
そんな気持ちのまま、毎日のようにCAたちの姿を目にしながらグラホとして働いているのだ。
彼女たちと自分は何が違うのだろうと、つい自己肯定感が下がってしまうこともある。
― なのに、そんなに軽々しく…。「また挑戦したらいいよ」だなんて、どうして言えるの!
確かに、もし航太と同じ会社のCAになって働けたら、どんなに幸せだろうとは思う。
でも、自分にとってはもう到底無理なこと。諦めたことなのだ。
再挑戦して、次もまた悲しい現実と向き合うことが、美香にとっては怖かった。
― 一度も挫折してない航太には、こんな気持ちわからないよね…。もういい。だって、どうせいつかはパイロットになって、グラホの私からは程遠い世界に行っちゃうんでしょ。
この恋は、早いうちに終わりにしよう。美香は、投げやりな気持ちで「もういいよ」と言った。
この日を境に、航太とのLINEのやり取りはパタリと途絶えた。
5ヶ月後。
『航太:来月から、基礎訓練に入ることになった』
1通のLINEが送られてきた。
そして翌月以降、航太は美香の前から姿まで消してしまった。
訓練中、たまに連絡を取り合うことはあった。けれど、それも近況報告をし合う程度。美香が航太に一方的にいら立ちをぶつけて以来、どこか気まずさが残ったままになっていた。
◆
3年という月日が流れて、今。
航太は副操縦士になり、美香は、相変わらず成田空港でグラホをしている。
仕事に邁進してきたこの3年間、さまざまなシーンに遭遇してきた美香は、今やコンプレックスよりもやりがいのほうが勝るようになっていた。
成田空港で働く“HANEDA”という自分に関心を示すお客様にも、恥じることなく向き合えている。
「航太、遅くなっちゃったけど…。副操縦士試験、合格おめでとう」
「ありがとう。それにしてもこのバー、かなり久しぶりだよ。懐かしいな」
美香と航太は、ビールとウーロン茶で乾杯をする。
「明日、スタンバイだっけ?」
「そう、だから今日はウーロン茶」
ギネスの黒ビールをグラス半分ほど一気に飲み干すと、美香は口を開いた。
「ねぇ、航太。私、今の仕事楽しいよ。“この仕事に就くべくして就いた”って思ってる」
「そっか、よかった」
「そういえばあのとき、航太なにか言いかけてたよね?」
「あぁ、うん。それはもういいよ」
優しく微笑む航太の左手の薬指には、きらりと光る指輪がはめられていた。
時間は着実に流れている。
“変わらないこと”なんて、ないのかもしれない。それでも美香は、もう少しこの成田での生活を続けたいと思うのだった。
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