この世には、生まれながらにして満たされている人間がいる。

お嬢様OL・奥田梨子も、そのひとり。

実家は本郷。小学校から大学まで有名私立に通い、親のコネで法律事務所に就職。

愛くるしい容姿を持ち、裕福な家庭で甘やかされて育ってきた。

しかし、時の流れに身を任せ、気づけば31歳。

「今の私は…彼ナシ・夢ナシ・貯金ナシ。どうにかしなきゃ」

はたして梨子は、幸せになれるのか―?

◆これまでのあらすじ
安藤との婚約解消によって気力を失った梨子は、話を聞いてほしくて陸斗とバーで落ちあう。帰り道、勢いでキスしてしまった2人。梨子は「なにもなかったことにしよう」と心に決めたのだった。

▶前回:週末に同僚と2人で飲んだら、意外な展開に。月曜日、ドキドキしながら女が出社すると…




梨子は、羽田空港の出発ロビーに到着すると、あたりを見渡した。

― これから仕事だから、ゆっくりはしていられないわ。

ある人の姿を探しながら、感慨深くこれまでの出来事を振り返る―。



半年ほど前の、9月。

陸斗はついに司法試験に合格し、法律事務所を退職することになった。

終業後の事務所で簡単な送別会が行われ、集まれる同僚たちで門出を祝う。

梨子は、まだまだ勉強の日々が続く陸斗に贈るために、クロスのボールペンをバッグに忍ばせていた。

しかし、なかなか渡すタイミングがつかめない。

そろそろお開き、というタイミングで陸斗が1人で廊下に出た。

梨子はその姿を追いかける。しかし廊下には、陸斗を待ち構える人影があった。

思わず、給湯室に駆け込む。

「陸斗さん、もう会社で会えないなんて…」

後輩の美央が涙声で話しているのが聞こえる。陸斗は、優しい声で何か返事をしていた。

梨子は、詳しい会話の内容は聞かず、給湯室から逃げた。

― もしかして、美央ちゃんと陸斗くんってそういう感じ?お似合いだよね…。

会社を飛び出した梨子は、陸斗とよく行っていたバーに、吸い込まれるように入る。

バーのハッピーアワーは終わっていたが、梨子はカウンター席に座り、グラスシャンパンを頼んでため息をついた。

― 私、いつの間にか陸斗くんのことが好きになってたんだ。

いつも自分の隣にいた陸斗。

酔った勢いでのキス以来ずっと気になっていたが、先ほどプレゼントを渡せなかったことで、梨子は自分の恋心を確信した。

― でも、もう退職か。陸斗くん、幸せになってほしいな。

シャンパンをぐっと飲み干す。

そろそろ帰ろうかと思ったその時。

「いらっしゃいませ」とバーテンダーが言うのが聞こえて、思わず梨子は振り返った。


「急にいなくなるからどこかと思ったら、やっぱりここだった」

陸斗は、梨子の隣の席に座る。

「陸斗くん!」

梨子が思わず立ち上がると、バッグがひっくりかえり、中身が床にぶちまけられる。

そんなことも気にせず陸斗は言った。

「奥田さん、あの日…急にキスしてすみませんでした。実はずっと奥田さんが気になってて…あの時好きだと確信しました」

「ええっ!?美央ちゃんは?」

陸斗は、不思議そうに返した。

「美央ちゃん…?僕たちマイクラ仲間ですけど、何か?」

梨子は、力が抜けて床に座り込むと、落ちてしまったプレゼントの包みを拾って差し出した。

「あの、これ…よかったら受け取って」

そして笑顔で自分の思いを伝えた。

「私も陸斗くんのことが、好きだったみたい…」

「じゃあ、付き合いますか」

2人は、照れながら頷き合った。



陸斗は、退職してすぐに司法修習で忙しくなった。

梨子は、より自分らしい仕事に就くために転職を決め、法律事務所を退職した。

せっかく恋人同士になれた2人だが、恋人らしい時間をほとんど過ごせていない。

それでも、梨子の心は満たされていた。豪華なレストランやプレゼント、もといデートさえなくても、陸斗の存在は梨子の心を強くしたのだ。






「あ、いたわ!」

空港を歩きながら回想にふけっていた梨子は、我に返る。

出発ロビーのチェックインカウンターに、ようやく陸斗の姿を見つけたのだ。

彼が手荷物を預け終わるのを見届けてから、「陸斗くん!」と呼びかける。

「わざわざ見送りになんて来なくて良いのに。これから仕事なんでしょ」

陸斗はそう言いながらも、どこか嬉しそうな表情をしている。

「しばらく会えないんだから、いってらっしゃいぐらい直接言わせてよ。…必ず福岡に遊びに行くね」

彼は司法修習生として、福岡の事務所に配属されることになったのだ。

梨子は鼻の奥がツンとするのを感じながらも、笑顔で陸斗を見送る。

― 私も行かなくちゃ!次に陸斗くんに会うときに、もっと幸せな自分でいるために。

梨子は気持ちを奮い立たせると、新たな一歩を踏み出した。

新しい職場に選んだのは、広尾にある大手の幼児教室だ。

契約社員として採用された梨子は、いろいろな授業にサポートで入り、半年後に正社員へと登用される予定だ。

法律事務所とは違い、シフト勤務で休みは不規則、給与も下がった。

当たり前だが、誰も梨子に「奥田先生のお嬢さんね」などと声をかけてはくれない。

それでも転職を決めたのは、強い思いがあったからだ。

入社面接で、梨子は緊張しながらも、こんな思いを伝えた。

「私がこの仕事をしたいと思ったのは、子どもにも、そして親にも、誇れる人生を歩んでほしいからです」

そのとき梨子は、ふと思った。

こんなふうに自分の強い意思で動いたのは、小学校受験以来だと。




第1志望だった、ミッション系女子校の試験の日。子どもたちは一同に集められて体育館に座っていた。

前に並ぶ子の肩が、不自然に上下しているのを見て、たまらず梨子は「どうしたの」と小声でたずねた。

前に立つ先生の眉がピクリと動いたのを感じたが、梨子は前の子の肩にそっと手を置く。

「…おトイレ」

振り向いてそう小声で答えたその子は顔色も悪く、額には脂汗が浮いていた。

「先生!お友達がおトイレ行きたいって言っています」

思わず、梨子は立ち上がって叫んだのだった。

結局梨子は、その学校の親子面接には進めなかった。

幼児教室の先生と母は、試験会場での出来事を知ると、絶望的な声で言ったのだった。

「どうしてそんな余計なことしたの!」

すべてはトイレを済ませておかなかった本人の責任なのに、声をかけたせいで梨子が考査に集中していなかったことが露呈しただけだというのだ。

幼い梨子は、するべきことをしただけなのに、なぜ大人たちが悲しむのか理解できなかったし、その女子校に落ちた時もけろっとしていた。

そして、合格を手にした第2志望の学校の門を、誇らしい気持ちでくぐったのだ。

「梨子ちゃん、入学おめでとう。これ以上失敗しないように、お母さんが頑張るね」

梨子の笑顔と裏腹に、桜の木の下で、そっと涙をぬぐう母の顔を、梨子は今でも覚えている。




空港で陸斗を見送った翌日の昼。

梨子は久しぶりに、かつての職場があった丸の内に来ていた。

― 紀香に久しぶりに会うの、楽しみだな。

勤めていた法律事務所は、すでに虎ノ門に移転しているため、オフィスはもうない。

― すべては移転プロジェクトを断ったことから始まったのよね。

後輩の沙理に「ナシ子」と呼ばれた日のことを懐かしく思い出しながら、『VIRON』の入り口に着く。

すでにテラス席に座っていた紀香が、梨子のことを呼んだ。

「梨子!久しぶりに会ったら、なんかいきいきしてるじゃない」

「そう?仕事も大変だし、彼とも遠距離だし、お母さんは泣いてばかりだから、もう実家も出たいんだけどお金はないし…毎日いっぱいいっぱいなんだけどなあ」

梨子は不思議そうに答えた。




「それでも自分で考えて生きるって、気持ちよくない?」

紀香の言う通りだった。

今の梨子は、実家で疎まれ、遠距離の彼と会う日を待ちわびながらシフト勤務に追われる貯金ゼロの32歳。

はたから見れば、うらやむ要素など何もなくなってしまった。

それでも、自分らしい信念でいろいろな親子と向き合う日々は、梨子にとって、驚きと発見の連続だ。

梨子は「今が一番幸せ!」と胸を張って言える気がするのだ。

「紀香、覚えてる?前にこのお店で『このままじゃいつまでもナシ子のまま』って私に言ったの」

梨子は懐かしそうに店内を見渡した。

「今、『私はもうナシ子じゃない』って自信をもって言える。いろいろあったけど、こんなに幸せになれたのは紀香のおかげ!あと沙理ちゃんが『ナシ子』って呼んでくれたおかげ!」

紀香は目を大きく見張って言った。

「梨子がナシ子じゃなくなったのは、誰かのおかげじゃないよ。素直に受け止めて行動した梨子の頑張りの成果よ」

ちょっとおかしな方向に走ったこともあったけどね、といたずらっぽく笑いながら続けた。

「梨子の素直なところ、それは誰にもまねできない強みだよ。…その沙理って子も、今の梨子を見たらびっくりするんじゃない?」

梨子は紀香をまっすぐに見て言った。

「もし沙理ちゃんに何か言われても、もう傷つかない。これが『ナシ子先輩の幸福な人生』なんだから」




2人の明るい笑い声がテラス席に響く。

ふとスマホを見た紀香が、驚いて画面を梨子に見せてきた。

「これみて!…アンドリューじゃない?」

Instagramのポストにはモデルのような美女と安藤のツーショットが表示されている。

『結婚しました!勇気を出してさらけ出した、僕のありのままを受け止めてくれた大切な女性です』

そんなコメントがついている。

そのニュースより梨子を驚かせたのは、見事にはげ上がった、つるつるのおでこを丸出しにして写真に納まる笑顔の安藤だった。

「安藤先輩…あのサラサラ前髪は…カツラだったの?」

「…頭がばれる前に、何とか梨子との結婚に持ち込みたかったのかな?」

そんな些細なこと、と思うが、それさえ共有できなかった2人なのだから、やはり結婚しなくて良かったのだ、と思う。

「安藤先輩、輝いてるね」

ぽかんと口を開ける紀香に、「『笑顔が』だよ!」と慌てて補足する。

2人は青空の下、大きな声で笑った。それぞれの幸福な人生を願いながら。

Fin.

▶前回:週末に同僚と2人で飲んだら、意外な展開に。月曜日、ドキドキしながら女が出社すると…

▶1話目はこちら:「彼ナシ・夢ナシ・貯金ナシ」31歳・お嬢様OLが直面した現実