ふとすれ違った人の香りが元彼と同じ香水で、かつての記憶が蘇る…。

貴方は、そんな経験をしたことがあるだろうか?

特定の匂いがある記憶を呼び起こすこと、それをプルースト効果という。

きっと、時には甘く、時にはほろ苦い思い出…。

これは、忘れられない香りの記憶にまつわる、大人の男女のストーリー。

▶前回:元彼と5年ぶりに再会しイイ雰囲気に…。でも、抱き寄せられた瞬間、女が違和感を覚えたワケ




Vol.6 菜々美(31歳)クールで爽やかな香り
Penhaligon's「ジュニパー スリング オードトワレ」


「松坂さん、診察室にどうぞ」

看護師が、待合室にいる男性を呼び入れる。その名前を聞いて、私はほんの少し胸が弾んだ。

港区内にあるこの耳鼻咽喉科クリニックに、私が移ってきたのは昨年のこと。80代半ばになる祖父が一線を退き、大学病院に勤めていた私が引き継ぐことになったのだ。

近隣には小学校や幼稚園があることから、患者は小さい子どもが多い。子ども好きの私にとっては、働きやすい環境だった。

「よろしくお願いします」

診察室に、背が高く目鼻立ちの整った男性が入ってくる。同時に、彼の爽やかな雰囲気を助長するような香水の香りがフワッと漂った。

男の名は松坂といい、年齢は私のひとつ下。アレルギー性鼻炎の症状があり、2年前から月に1回のペースで通院している。

大手不動産会社に勤めていて、穏やかで誠実そうな印象。もちろんスタッフからの評判もいい。かくいう私も、公私混同してはいけないと思いつつも、異性として意識してしまうところがあった。

「どうですか、調子は?」

「そうですね。最近、あんまり良くないです…」

松坂が鼻声で答える。

― やっぱり。だから香りが少し強いんだな…。

症状が悪化して嗅覚が鈍っているとき、彼の香水は強くなる傾向にある。

― ペンハリガンの「ジュニパー スリング オードトワレ」って言ってたな。

以前、つけている香水について尋ねたことがあった。

「お酒は弱いんですけど、ジンのカクテルが好きで。この香水の匂いは気に入ってるんです」

そんな過去のやり取りを振り返りながら、私は彼に伝えなければいけないことを思い出したのだった。


「松坂さん。以前にもお伝えしたんですが、レーザー治療を受けてみませんか?」

私が新たな治療法を提案すると、松坂は口を閉ざし顔をしかめる。

― だよね、すぐには受け入れられないよね。

実は、彼が通院を始めた頃にもレーザー治療を勧めたことがあった。確実に症状は軽くなると伝えたが、手術に対して抵抗があるようで「薬で緩和されるのならそれでいい」と断られたのだ。

それでも私は、もう一度念を押すように尋ねる。

「痛みもほとんどないですし、安全面は問題ないと思いますが…。いかがでしょう?」

私がレーザー治療を強く勧めるのには、ある理由があった。



松坂が来院する1週間前。

大学病院に勤めていた頃の同僚・玲奈と、南青山の『ダブリュー アオヤマ ザ セラー&グリル』で食事をしていたときのこと。




「なんだ〜、彼女いたのかあ…」

玲奈が残念そうに、ため息をつく。

「そうなの。本当にガッカリ」

私たちの話題の的となっている人物は、松坂である。以前から玲奈には、患者の中に気になるイケメンがいると伝えていた。

しかし、彼に恋人がいることが判明したのだ。

というのも1ヶ月ほど前に来院した際、彼が診察室でスマホを取り出すタイミングがあった。そのとき、待ち受け画面が見えてしまったのである。

そこには自撮り写真のような角度で写る松坂の隣に、濃いメイクをした女性の姿があった。

「彼女さんですか?」

私はつい、反射的に質問をしてしまった。すると、松坂がはにかみながら「はい…」とうなずいたのだ。

「付き合ってまだ2ヶ月なんです。飲み会で知り合って…」

内心ショックを受ける中で、聞きたくなかった情報まで告げられてしまった。そして私は、ぎこちない笑顔を返すしかなかったのだ。

「付き合って2ヶ月か…。まだラブラブだろうね」

私と同じく独り身である玲奈が、羨ましそうにつぶやく。

「しかも、受付の子に聞いたんだけど。少し前に、彼女を連れてクリニックに来たらしいの」

「マジ!?」

「元モデルらしくて、スタイル抜群でめっちゃキレイだったって」

「はぁ〜。やっぱり男は見た目で選ぶのか」

「でもすごい派手なタイプで、お似合いって感じではなかったみたいだけど…」

しばらく、そんな嘆き節とも恨み節ともつかぬような会話を続けていたとき。奥のテーブルで男性と食事をしている、やけに顔の小さい女性の姿が目に入った。




― きっと、あんな感じの彼女なんだろうな。

なんとなく、松坂が恋人と一緒にいる様子を思い描く。だが、その妄想はすぐに遮断された。

「ん、んん…?」

私は、ハッと息をのむ。

― 似てる…!っていうか本人じゃない!?

視線の先にいる女性が、松坂のスマホの待ち受け画面に写っていた彼女とそっくりだったのだ。

明るい髪色に、強めのウェーブがかかった髪型。濃いアイメイクといった特徴も、受付スタッフの目撃談と一致する。

「菜々美、どうしたの?」

玲奈が、私の視線に気づいて振り返る。

「あの女の人がどうかした?めっちゃキレイだね」

「あの人なの。あれが、たぶん松坂さんの彼女…」

「ええっ!っていうことは、向かいに座っている男性は…」

玲奈は、女性の相手はもちろん松坂だと思ったのだろう。

「ううん、違う。松坂さんじゃない」

男性はこちらに背中を向けて座っているが、背格好も雰囲気も、松坂とはまるで違う。

― いったい、どういう関係?

様子をうかがっていると、食事を終えた2人が席を立った。


男が振り返り、ハッキリと顔が認識できた。

肌の色は不自然に黒く、ジェルワックスをベッタリとつけたような髪。口もとにはヒゲを蓄えている。

ブランド物の服に身を包み、腕にはキラリと光るゴツい時計が。いかにも成金趣味で品位に欠ける容姿は、松坂とは似ても似つかなかった。




― あんな男のどこがいいのよ!

しかし女性もまた見た目が派手であり、2人並ぶと意外とお似合いのように見える。女は男に寄り添い、腕を絡ませながら、私たちのテーブルの横を通り過ぎて出口へと向かう。

「え、ええ!?浮気、ってこと?それともあっちが本命…?」

玲奈も判然としない状況に居合わせ、戸惑っている。

「ど、どうなんだろう…」

去って行く2人がただならぬ関係であることは明らかだが、確信を得ているわけではない。だが…。もし疑惑が事実だとすると、松坂は裏切りに遭っていることになる。

― 教えてあげたいけど、どうしよう。

松坂に伝えたいのは山々だが、私は口を挟むほどの間柄でもない。

でも松坂本人に真偽のほどを確かめるよう促す方法として、1つだけ可能性のある案が思い浮かんだのだった。



診察室に、松坂が入ってくる。

私の強い勧めを受け入れ、彼はレーザー治療を受けた。そして今日は、術後2週間目の経過観察のために来てもらったのだ。




鼻の中を覗くと治療箇所のかさぶたはすでに剥がれていて、経過は順調そうだった。ほんのり漂うペンハリガンの香水の強さからも、調子の良さがうかがえる。

「うん。問題はなさそうですね」

「そうですか。良かった…」

松坂の声にも、鼻が詰まっている様子はない。…だが、表情がいつもより暗いように感じる。

「どうかしましたか?どこか調子が悪いようなら言ってくださいね」

すると、松坂がうつむき加減で答える。

「鼻の調子はいいんですけど…。実は、彼女と別れちゃって」

「え、ああ。あの待ち受け画面の?」

「はい。この前彼女と会ったときに、男物の香水の匂いがしたんですね。なんか怪しいなと思っていたら、案の定…」

詳しい経緯までは話さないものの、状況は理解できた。

やはり、彼女は浮気をしていたのだ。

― 私の思った通りだった…。

店で彼女を見かけ、帰り際にテーブルの脇を通って行ったとき。相手の男性からやけに甘ったるい香水の匂いを感じた。その香りは、彼女にも移っているに違いないと思ったのだ。

そしてもしかしたら、これが浮気に気づくキッカケになるかもしれないと思ったのである。

松坂にレーザー治療を施し嗅覚が回復すれば、彼女から漂う男の匂いに違和感を覚え、浮気を疑い始めるのではないかと…。

可能性は高くはない。ただ、勧めてみる価値はあると思った。

その策が、功を奏したようだ。

「結局、僕は遊びだったみたいで…。あ、すみません。先生にするような話じゃないんですけど」

「いいえ。松坂さんなら、もっといい人が見つかりますよ」

「…そうですよね!鼻も良くなったし」

松坂が鼻をつまみながら、柔和な笑顔を浮かべる。

「ええと、じゃあまた来月…」

私はそう言いかけたところで、口をつぐむ。

― そうだ。もう通院はしなくていいんだ。

レーザー治療を行ったことで、定期的な通院は必要なくなってしまった。

「じゃあ…。また、調子が悪くなるようだったら来てください」

「はい。ありがとうございました」

松坂が頭を下げ、診察室のドアを開けて出ていく。

― 素敵な彼女を見つけてね。

私はその背中に、そっとエールを送る。

彼の残り香が、ゆっくりと薄れていった。

▶前回:元彼と5年ぶりに再会しイイ雰囲気に…。でも、抱き寄せられた瞬間、女が違和感を覚えたワケ

▶1話目はこちら:好きだった彼から、自分と同じ香水の匂いが…。そこに隠された切なすぎる真実