空港は、“出発”と“帰着”の場。

いつの時代も、人の数だけ物語があふれている。

それも、日常からは切り離された“特別”な物語が。

成田空港で働くグラホ・羽根田(はねだ)美香は、知らず知らずのうちに、誰かの物語の登場人物になっていく―。

▶前回:女友達3人でパリ旅行へ。しかしある出来事で、空気が一気に凍りつき…。一体なにが?




Vol.6 羽根田美香の物語 〜前編〜
タイムリミットは22時


金曜日の夜。

美香は、日比谷線・恵比寿駅で電車を降りた。

混み合う改札を抜けると、鞄の中からスマホを取り出す。

画面には、“19:50”と表示されている。

― うそ、もうこんな時間?…やっぱり2時間はかかるよね。

急がなくては―。そう思った美香は、大学時代からの友人・梓のLINEを開き、『ティスカリ』の住所を地図アプリに入力した。

― でも…食事会なんて、いつぶりだろう。

“複数人での外食は控えるように”

美香が働く航空会社では、コロナ禍にさまざまなルールが設けられた。

それが、つい先日解除されたのだ。

振り返れば、食事会に参加しなくなってから3年が経っていた。

― そもそも、どんな話をしたらいいんだっけ?

レストランまであと1分というところで、美香は軽い緊張を覚える。

そのときだった。

「美香っ!」

入り口の前に、梓ともうひとりの友人・絵里子の姿を見つけた。

「ごめん、お待たせ」
「ううん、私たちもさっき着いたところだから。今日こそいい出会いがあるといいな」

絵里子は、手鏡で前髪やアイメイクのチェックをしながら答える。

聞けば2人とも、ここ最近よく食事会をしているらしい。どことなく場慣れした余裕みたいなものが感じられて、美香は少し気後れする。

「そろそろ、行こうか」
「…うん」

だが、そうも言っていられない。

店内に足を踏み入れる前。美香は、心の中で小さく意気込んだ。

― …私だって、今日こそは!

なぜなら、社会人になってからの美香は、食事会で“あれ”をしたことがないのだ。


「梓ちゃん!」
「あ、田口さん。ごめんなさい、お待たせしました」

店内には、すでに3人の男性が到着していた。

全員スーツ姿で、いかにも仕事帰りといった感じだ。

梓と絵里子に続いて、美香もテーブル席に着く。

すると、田口さんは、慣れた様子で全員の飲み物を注文してくれる。

「じゃあ、乾杯!」
「よろしくお願いします」

美香は、男性たちと目を合わせて会釈する。

梓と田口さんはゴルフ仲間なのだという。ほかの2人の男性は、田口さんと同じ証券会社で働く同期で、年齢は美香たちより3つ上の30歳。

普段から仲がいいのか和やかな雰囲気で、美香の緊張は早くもほぐれてくる。

「みなさんで、一緒にゴルフに行ったりもするんですか?」
「そうだね。月1回くらいは行ってるかな?今度、このメンバーでも行こうよ」
「私、ゴルフは自信がなくて」
「教える、教える!」

当たり障りのない会話が一巡する。その流れで、梓と絵里子の簡単な自己紹介も済んだ。

次は、美香の番だ。

― うーん、やっぱり言わなきゃだめだよね。

美香は、食事会での自己紹介にあまりいい思い出がない。




「羽根田美香です。梓と絵里子とは同じ大学の同級生で、仕事は…」

仕事のことを口にするときの美香は、歯切れが悪い。

「航空会社で働いています」
「え?CAさんなんだ!それで名字もHANEDAさんって、すごいね」
「今日はフライト帰り?どこの航空会社なの?」

― はぁ…やっぱり、こうなるよね。

HANEDAネタでいじられるのは、構わなかった。

しかし、航空会社と言うとCAということで話が勝手に進んでいくので、美香は気が重いのだ。

実際、過去の食事会でも毎回同じような展開になってきた。

「あの、私は地上職なんです。チェックインカウンターとか、ゲートの仕事のほうです」

美香は、誤解されたままにならないように、すぐさま訂正する。しかし、そのあとの反応もまた、みんな同じようなものだった。




「グラホね。へぇ、そうなんだ」

― “CAさん”から、“グラホ”…って。

何だか悪いことを聞いてしまったなという表情をする人もいれば、グラホと聞いた途端にわかりやすく興味をなくす人もいる。

自分の仕事にやりがいを感じている美香だが、こんなふうにあからさまに態度に出されると、がっかりした気持ちになってしまう。

空の上で優雅に接客をするCA。

その一方で、地上をドタバタ走りまわり、重い荷物をたやすく担ぐたくましいグラホ。

あくまでもお客様から見えるごく一部の姿だが、その延長線上で膨らむイメージには、CAとグラホとで大きな差がある。

― まぁ、仕方ないか。

CAなのかなと相手をぬか喜びさせないために、初めから地上職と言えばいいのかもしれないと思ったこともあった。

しかし、そこまで言うのも予防線を張っているようで気が引けるうえに、自意識過剰のようにも思える。

だから自己紹介ではいつも、同じような展開になるのだ。

ところが、この日はいつもと違った。

「地上職の仕事って、格好いいよね」


「僕の姉も、航空会社の地上職をしていて。あ、今はもう辞めちゃってるんだけどね」

美香の斜め前に座る水野さんは、続ける。

「シフト勤務ってだけでも大変なのに、チェックインのあいだは立ちっぱなしのことも多いんでしょ?ハイヒールで走りまわることもあるって聞いたよ」
「そうですね。なかなか体力勝負なところがあります」

テーブルに運ばれてきた肉厚でジューシーなラムチョップを前に、水野さんは懐かしそうな表情を浮かべる。

「そういえば、姉は、あの頃まだ大学生だった僕よりもよく食べてたよ」
「ふふ、大食い…しかも早食いなのは、グラホあるあるですね」

美香は、楽しい会話に時間が経つのを忘れていた。

ふと腕時計に目をやると、21時半だった。

― うそっ…、あと30分しかないの!?




「ちょっと、お化粧室に」

美香が席を立つと、あとから梓もついてきた。

「ねぇ、美香。水野さんといい感じなんじゃない?」

梓と話しながら、鏡の前でメイクをチェックする。

「うん、水野さんともう少し話したいな…って、鼻の頭のファンデーション!はげてる…」

― マスクを外した後、ずっとこうだったのかな。

ポーチを持ってこなかったことが悔やまれた。

「それくらい大丈夫だよ。それより美香、もうすぐ時間でしょ?」
「そうなの!私、あと30分で帰らなきゃ…。それまでに、連絡先聞けるかな」

成田空港支店に配属されている美香は、成田空港駅から3駅の公津の杜駅近くに部屋を借りている。

職場までは約13分と近くていいのだけれど、都内まで出るとなると片道2時間は要する。この日も、恵比寿からの終電は22時39分。

余裕を持って、22時過ぎにはお店を出たいところだ。

食事会がいい感じに盛り上がってきたところで、終電が早いという理由で帰らなくてはならない。

そのせいで…とは口にしないものの、美香は食事会で誰かと連絡先を交換したことがないのだ。いいなと思う相手がいても、切り出すタイミングがつかみにくい。

「私に任せて!」

ソワソワする美香に、梓が言った。




「もう少し暖かくなってきたら、このメンバーでゴルフしませんか?」
「おー、いいね!さっき、美香ちゃんとも話してたんだよ」
「じゃあ、6人のグループLINE作りましょうよ」

こうして美香は、いとも簡単に水野さんとLINEでつながることができたのだった。

その10分後―。

「あの…私、お先に失礼します」

男性たちは、スッと席を立つ美香のことを首をかしげて見てくる。

「すみません。終電が早くて」
「もしかして美香ちゃんって、成田空港勤務?」
「そうなんです。今から成田方面に帰らなくちゃいけなくて」
「うわ、大変だね。僕たちも空港とかゴルフ場とかで成田にはよく行くけど、いつも遠すぎるって話してるんだよ」

― 遠すぎる…ね。確かにそうかも。

都内で働く多くの人にとって、成田はどこかに行くために“やって来る”場所であって、“住む”場所ではない。

念のため、梓に1万円をこっそり渡して、美香は1人で店を出た。

日比谷線から浅草線に乗り換えた車内で、うつむいたままLINEを開く。

水野さんに連絡をしてみようか―。でも、まだ23時になったばかり。もしかしたら、食事会が続いているかもしれない。

美香は、自分だけが蚊帳の外にいるような気持ちになった。

暗くて何も見えないけれど、車窓は間違いなく田園風景だ。その暗闇に目を向けていると、ある言葉が脳裏をかすめる。

それは、航空会社に就職した後、すぐに別れた彼からの言葉だ。

「成田は遠すぎるよ。それに、美香はシフト勤務だし…なかなか予定も合わないと思う。お互いに無理して会うのはどうだろう」

仕事が理由で、あっさりふられてしまったのだ。

社会人になって以来、制約が多く、恋愛が思うように進まない。

新たに出会った男性も、気がつけば美香からフェードアウトしていってしまう。

不規則な勤務時間に加えて、業務中はスマホを持ち歩かないため、連絡をマメに返すことができない。それも原因の1つだと思う。

美香は内心、どうしたらいいのだろうと途方に暮れていた。

― 私って…自分が思っているよりも、ずっと器用じゃないのかも。仕事ではうまく立ちまわれるのに。

こんなとき、美香はきまってある人物に会いたくなる。

― 航太と話したいな。思い切って、連絡してみようかな。

『美香:航太、明日って早番?』

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